カテゴリー「ディーリアス」の記事

2024年12月31日 (火)

ディーリアス アンドリュー・デイヴィスを偲んで

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遠くに見晴らす富士と箱根の山と相模湾の夕日。

隣町、大磯の小高い山からの眺望。

都会を離れて数年が経ち、このような自然に囲まれて過ごす幸せと、老いてゆく親、自分の仕事、ちょっと離れたとこにある自宅や家族、孫たい・・・・そんなもろもろを思いつつ1年をまた締めくくる日がきた。

今年も、多くの音楽家や芸術家が亡くなり、訃報に接するたびに悲しみと時の流れの無慈悲さを思うのでした。

日本人にとっても、世界の人々にとっても小澤さんの死はまさに巨星発つという点で大きなインパクトをあたえました。
それとピアノの巨人とも呼ぶべきポリーニの死も驚きとともに受け止めました。

しかし、実は、私がもっともショックだったのは、アンドリュー・デイヴィスの死でした。
まだ記事は起こしていなかったので、年末最後の日に美しいディーリアスを聴いて亡き名匠を偲びたいと思いました。

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  ディーリアス イギリス狂詩曲~ブリッグの定期市

   サー・アンドリュー・デイヴィス指揮

  ロイヤル・スコテッシュ・ナショナル管弦楽団

      (2011.12 @グラスゴー)


サー・アンドリュー・デイヴィス(1944~2024)。
2月に80歳を迎えたばかりで、2024年4月20日に80歳でシカゴにて逝去。
白血病を患い急逝してしまったことに驚愕の想いでした。

A.デイヴィスといえば、70年代半ば頃から主にCBSへの録音、とくにドヴォルザークの交響曲全曲やボロディンの交響曲など、カタログの穴を埋めるようなソツのない音楽造りの存在で、当時は高名なコリンに対し、もうひとりのデイヴィスなどとも呼ばれましたね。
そんななかで、印象的だったのが、デュリュフレとフォーレのレクイエムで、清廉で飾り気のないピュアな演奏が作品の本質をついておりました。
本国のイギリスでポストを得ずに、まずは1975年にカナダのトロント響の指揮者となり、そこで大成功。
EMIと契約して惑星やメサイアなどの録音も残しました。
トロントのあとは、イギリスに戻り、1988年にハイティンクのあとのクラインドボーン音楽祭の指揮者となり、ここでオペラ指揮者としての才覚も発揮し、同時期にBBC交響楽団の首席指揮者となり、ここでのポストがデイヴィスの絶頂期となりました。
プロムスでの数々の演奏、とくにLast Nightは、ユーモアあふれる語り口と精悍な髭面とで大人気に!
シカゴのリリックオペラ、メルボルン響、ピッツバーグ響(3頭体制)の指揮者なども歴任。
ここ数年では、イギリス音楽の伝道師として、シャンドスレーベルを中心に、トムソン、ハンドリー、ヒコックスらの亡きあとの最重要指揮者として活躍していました。
まだまだやってほしかった英国音楽作品の数々。
それが残念で、わたくしはサー・アンドリューの死がとても痛手だったのです。

オペラ指揮者としては、グライドボーンでのいくつかのDVD、なかでもシェーファーとのルルは名作だし、バイロイトのローエングリンでの指揮も自分では大切な放送音源です。
シュトラウス指揮者としても実に優秀で、ばらの騎士やカプリッチョ、メルボルンでの英雄の生涯など、いずれも忘れ難いものです。

今宵は、サー・アンドリューの残したディーリアスの録音から、ブリッグの定期市の楚々としつつも味わい深い演奏を聴きながら、年内の締めといたしました。
いろんなオーケストラを指揮したデイヴィスのディーリアスは、ほぼ集めましたので、来年以降また取り上げたいと思います。

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今年もつつがなく、たくさんの音楽を聴けたことに感謝です。

へんな話ですが、音楽を聴けるためにも元気でいなくちゃと思うし、そのためにも諸事がんばらねばとも思う次第。

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来年もよき1年でありますように。

ご覧頂いたみなさまも、音楽とともにありますこと、よき1年をお過ごしいただきますように。

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2024年10月20日 (日)

ディーリアス 人生のミサ エルダー指揮

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今年の秋は夏との境目がないように感じられ、秋らしい日、夏の終わりなどもあまり感じないです。

コスモスや彼岸花といった季節を感じさせる花々も今年は不調で、いつも見に行く場所もあまり咲いてなかったりで・・・

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やはり季節のメリハリがなくなってきてます。

気候変動や温暖化、といった言葉でくくるのはあまり好きではないです。

こうした分析をするのは、いまを生きる、それこそ100~200年単位の人類の考えや思いにすぎず、地球と宇宙はもっとその何億倍の単位で活動しているのだから、安易に気候変動でひとくくりにするのもどうかと思う。

人間は自然の前には無力だし、人間の繁栄のために自然を犠牲にして自然エネルギーなんぞというものを推し進めるのもどうかと思う。

自然を愛した、そして宗教とは無縁の感性の作曲家。ディーリアス(1862~1934)の大作を。
ディーリアスは、今年は没後90年となりました。

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  ディーリアス  人生のミサ

    S:ジェンマ・サマーフィールド
    A:クラウディア・ハックル
    T:ブロウ・マグネス・トーデネス
    Br:ロデリック・ウィリアムス

  サー・マーク・エルダー指揮
     ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団
     ベルゲン・フィルハーモニー合唱団
     エドヴァルド・グリーグ・コール
     コレギウム・ムジクム

    (2022.9.26~29 @グリーグホール  ベルゲン)

通算3度目の「人生のミサ」の記事となります。
最初はヒコックス盤の記事、次はビーチャム、デル・マー、グローヴス、さらに同じくヒコックスも取り上げあとヒル盤を残し、入手可能な音盤4種をレビューした記事でした。

そして今回は、この曲の最新のレコーディング、マーク・エルダー盤を入手しました。
予約して入荷待ちをしていたが、遅れに遅れて、鶴首状態でたしか5月の連休以降に届いた。
しかし、なんだかんだで聴いたのは夏が終わる頃になってしまった。
その間、指揮者のマーク・エルダーはPromsで、長年の手兵ハレ管弦楽団と最後の出演をマーラーで果たしてました。
イギリスの名匠となったマーク・エルダーは、2000年から2024年にわたって、ハレ管弦楽団の首席指揮者を務め、オケとまさに一体化した名コンビとなってました。
数々の英国音楽のレコーディングを通じ、バルビローリによって育まれた歴史あるオーケストラの指揮者を77歳にして降りることは、私にはとても残念なことでした。
ちなみに、次のハレ管の指揮者はカーチュン・ウォンです・・・
新しい風は必要なれどねぇ。

マーク・エルダーは、ハレ管を降りたあと、ノルウェーのベルゲン・フィルの首席客演指揮者になっていて、このディーリアスもハレでなく、ベルゲンでの演奏会と同時の録音となったようだ。
高弦の美しさ、しなやかさ、さらには重厚な低音域も北欧のオーケストラならではで、ややデッドな録音ながら、オーケストラの持ち味とディーリアスの音楽とのマッチングのよさも、ここに聴いてとれます。
ドイツで知り合った先輩グリーグ(1843~1907)を敬愛し、そのグリーグからは音楽の才能を高く評価され、実業家として跡継ぎにさせたかった父親を説得したのもグリーグだった。
そしてノルウェーの自然や風物を生涯愛したディーリアスは、そのノルウェーの海やフィヨルド、山々に感化されたかのような音楽を残したわけです。
グリーグの出身地であり、その指揮台にも立ったオーケストラ、ベルゲン・フィルほどディーリアスに相応しいオーケストラは、イギリスのオケを除いては随一の存在かもしれません。

 少し年齢が上の、アンドリュー・デイヴィスがヒコックスやハンドレー、トムソン亡きあと、イギリス音楽の伝道師としての存在を一身に担ってましたが、そのデイヴィスは今年、あまりにも無念の死を迎えてしまった・・・
デイヴィスもベルゲンフィルと素敵なディーリアスを録音しましたが、まさにその跡を継ぐかのような、エルダーの存在です。
それからエルダーは、ほんとは根っからのオペラ指揮者だと思います。
エドワード・ダウンズの弟子でもあり、シドニーのオペラハウス、その後はイングリッシュ・ナショナル・オペラを長く率いて、ワーグナーからヴェルディ、ベルカントオペラやフランスオペラの数々もそのレパートリーにしているくらいです。
 私は忘れもしないのは、1981年にバイロイトに登場し、のちにシュタインの指揮によるものが映像化された「マイスタージンガー」のプリミエを指揮したこと。
当時、その名も知らないイギリスの指揮者が新演出上演に起用されたことに驚き、エアチェックも喜々として実行したものですが、そのテープは消失してしまい、どんな演奏だったかは記憶の彼方であります。
エルダーは、初年のみでそのあとは、シュタインに交代となってしまったことも、エルダーの後年の活躍を見るにつけ、残念なことでした。

規模の大きな歌を伴った作品を、うまくまとめあげる才能は、まさにオペラ指揮者エルダーの力量で、この長大さ作品、しかも旋律も少なめでまさに感覚的なおんふぁくでもあるディーリアスの大作をわかりやすく、各部の対照も鮮やかにして聴かせてくれます。
大きくシャウトするような合唱を伴ったフォルテから、繊細で耳を澄まさなかれば聴き逃してしまうようなオーケストラの細部まで、いずれもくっきりと、しっかりと、そして美しくあるように響きます。
ソロや合唱とのバランスも見事なものでした。
 いまや英国ものでは一番の存在、R・ウィリアムスの明晰で暖かな歌唱がすばらしい。
ノルウェーのテノールトーデネスのイギリスのテノールにも通じる繊細さと明晰があり、澄んだ声のソプラノ、深みのあるメゾもともによろしい。

「人生のミサ」にまた素晴らしい名演が生まれたことがうれしい。
ベルゲンフィルのHPで、この演奏のライブ動画が全編見れます。

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以下はくり返しとなりますが、過去の記事を大きく修正して引用。

4人の独唱、2部合唱を伴なう100分あまりの大作。

 ディーリアスは、世紀末に生きた人だが、英国に生まれたから典型的な英国作曲家と思いがちだが、両親は英国帰化の純粋ドイツ人で、実業家の父のため、フレデリックもアメリカ、そして音楽を志すために、ドイツ、フランスさらには、その風物を愛するがゆえに前述のとおりノルウェーなどとも関係が深く、コスモポリタンな作曲家だった。

その音楽の根幹には、「自然」と「人間」のみが扱われ、宗教とは一切無縁
無神論者だったのである。
この作品も、「ミサ」と題されながらも、その素材は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」。

 アールヌーヴォ全盛のパリで有名な画家や作家たちと、放蕩生活をしている頃に「ツァラトゥストラ」に出会い、愛する伴侶となったイェルカ・ローゼンとともに、34歳のディーリアスはその「超人」と「永却回帰」の思想に心酔してしまった。
同じくして、R・シュトラウスがかの有名な交響詩を発表し大成功を収め、ディーリアスもそれを聴き、自分ならもっとこう書きたい・・・、と思った。
1896年のことである。
その後ディーリアスは、ツァラトゥストラを原詩とした「夜の歌」を1898年に作曲。
ドイツにおけるディーリアスの応援団であり、その音楽をドイツに広めた指揮者フィリッツ・カッシーラーが、ディーリアスのために、「ツァラトゥストラ」からドイツ語で原詩を作成し、そのドイツ語にそのまま作曲をしたディーリアス。
作品の完成は1905年で、全曲の初演は1909年、ビーチャムの指揮、その初録音もビーチャムによる。
初演の前、2部だけがミュンヘンで演奏されており、そのときに、もしかしたら前回取り上げたハウゼッガーが聴いていたかもしれない。
そして、カッシーラーはビーチャムにディーリアスの音楽を聴かせたことで、ビーチャムもディーリアスの使途となったといいます。
 
このドイツ語の抜粋版のテキストに付けた音楽の構成は、2部全11曲。

合唱の咆哮こそいくつかあるものの、ツァラトゥストラを歌うバリトン独唱を中心とした独唱と合唱の親密な対話のような静やかな音楽が大半を占める。
日頃親しんだディーリアスの世界がしっかりと息づいていて、大作にひるむ間もなく、すっかり心は解放され、打ち解けてしまう。

第1部

 ①「祈りの意志への呼びかけ」 the power of the human will
 ②「笑いの歌」 スケルツォ 万人に対して笑いと踊りに身をゆだねよ!
 ③「人生の歌」 人生がツァラトストラの前で踊る Now for a dance
 ④「謎」      ツァラトゥストラの悩みと不安
 ⑤「夜の歌」   不気味な夜の雰囲気 満たされない愛

第2部

 ①「山上にて」 静寂の山上でひとり思索にふける 谷間に響くホルン
         ついに人間の真昼時は近い、エネルギーに満ちた合唱
 ②「竪琴の歌」 壮年期の歐歌!
         人生に喜びの意味を悟る
 ③「舞踏歌」   黄昏時、森の中をさまよう 
          牧場で乙女たちが踊り、一緒になり
踊り疲れて夜となる
 ④「牧場の真昼に」 人生の真昼時に達したツァラトゥストラ
           孤独を愛し、幸せに酔っている
           木陰で、羊飼いの笛にまどろむ
 ⑤「歓喜の歌」 人生の黄昏時
           過ぎし日を振りかえり人間の無関心さを嘆く
           <喜びは、なお心の悲しみよりも深い>
 ⑥「喜びへの感謝の歌」
           真夜中の鐘の意味するもの、喜びの歌、
           永遠なる喜びを高らかに歌う!
                      
   (本概略は一部、かつてのレコ芸の三浦先生の記事を参照しました)

「祈りの意志への呼びかけ」での冒頭のシャウトする合唱は強烈
だがしかし、安心してください、すぐに美しいディーリアスの世界が展開。
「笑いの歌」では軽妙な、まさにスケルツォ的な章でバリトンの歌が楽しい
「人生の歌」、ソロがバリトンを中心に春の喜びを歌う。
そこに絡む妖精のような女声合唱のLaLaLaの楽しくも愛らしい踊りの歌
章の最後に歌われるアルトと、マーラーの3番と同じ歌詞の合唱を挟んでのソプラノのソロは、沈みゆく美しさが沁みる
「謎」ではバリトンが自分に問いかける、自分とは・・・男性合唱も加わり、謎を残しつつ不可思議なままに終わる
「夜の歌」における夜の時の止まってしまったかのような音楽はディーリアスならでは。
ここでも合唱とバリトンが歌い継ぐが、静的な雰囲気、感覚を呼び覚ますような遠くで鳴る音楽が、まさにディーリアス。


「山上にて」の序奏は茫洋とした雰囲気にこだまする、ホルンはとても素晴らしく絵画的でもある。
続く活気あふれる壮大な合唱とバリトン以外のソロが真昼を謳歌するように歌う。
「竪琴の歌」はバリトンのソロで、静かな語り口につきる、夜半に聴くと実にじみじみする。
「舞踏歌」では、オーケストラの前奏ともいえる森の情景が美しい
乙女たちの踊りは、女声無歌詞の合唱の軽やかさが時に笑いを伴い涼やかななものだ
バリトンはやめないでと恐れた女性たちに優しく歌いかける(そこが邪なアルベリヒと違いますな)
ディーリアスのバリトンを伴った数々の作品にも通じます。
ハープのグリッサンドがここでは効果的だし、女性たちもまた楽しく応じます。
牧場の昼に」この作品の最美の章かと思う
羊飼いの笛の音は、オーボエとコールアングレで奏され、涙がでるほどに切なく悲しい。
この場面を聴いて心動かされない人がいるだろうか
まどろむツァラトゥストラの心中は、悩みと孤独・・・・。
テノールが物憂い気分で優しく歌い、バリトンは覚醒しようとするが、他の独唱ソロたちに優しく戒められる

「歓喜の歌」の合唱とそのオーケストラ伴奏、ここでは第1部の旋律が回顧され、極めて感動的で徐々にエンディングに向けて準備も整う。
休みなく入る最後の「喜びへの感謝の歌
低弦が豊かに響き、そこにクライマックスに向かうかのような静かなステージが準備されたのを感じる。
バリトンは呼びかける、時は来た、来るんだ一緒に夜へと歩もうと・・、合唱もそれに応じる。
最後に4人の独唱者が高らかに喜びを歌い上げ、合唱は壮大かつ高みに登りつめる。
やがて音楽は静かになっていって胸に染み込むように終わる。

エルガーの「ゲロンティアスの夢」(1900)、マーラー「千人」(1906)、シェーンベルクの「グレの歌」(1911)とともに、わたしの好む、あの世紀末の時代の大好きな声楽を伴った一連の名作のひとつと思います。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」を学生時代に文庫版で買って読んだことがあり、前もこの曲を聴く際に引っ張り出して照合してみたが、あのツァラトゥストラの文言をあまり意識することなく、ディーリアスの美しく儚い音楽のみに集中した方がよいかもです。
というか凡人のワタクシにはわかりませぬゆえ・・・

畑中良輔さんの批評で読んだこと。
「人生のミサ」の人生は「生ける命」のような意味で、いわゆる「人生」という人の生の完結論的な意味ではないと。

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2023年9月 1日 (金)

ディーリアス 「夏の歌」 オーウェル・ヒューズ指揮

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行く夏を惜しんで、わたくしのもっとも好きなディーリアス作品にひとつ「夏の歌」を。

こちらは、秦野の弘法山へ登る途中からみた市街と、遠くに富士山。

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    ディーリアス 「夏の歌」

 オーウェン・アーウェル・ヒューズ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

       (1988.4.18 @ミッチャム、ロンドン)
 

若き頃の放蕩がたたったのか、晩年に失明し、四肢も麻痺してしまったディーリアス。
1929年に大好きな海辺で弟子のエリック・フェンビーに口述して書かせた音楽。

「海をはるかに見渡せる、ヒースの生えている崖の上に座っていると想像しよう。高弦の持続する和音は澄んだ空だ。・・・・・・」(三浦淳史氏) 

交響詩と呼ぶほどの描写的なものでもなく。音による心象風景や若き日々への回想といったイメージ。
(以下過去の記事を編集)
冒頭まさに、高弦の和音が響くなか、低弦で昔を懐かしむフレーズが出る。
フルートが遥か遠くを見渡すような、またほのかに浮かんだ雲のようなフレーズを出す。
この木管のフレーズが全曲を通じで印象的に鳴り響く。
ついでディーリアスらしい郷愁に満ちた主旋律が登場し、曲は徐々に盛上りを見せ、かなりのフォルテに達する。
海に沈まんとする、壮大な夕日。
沈む直前の煌々とした眩しさ。
曲は徐々に静けさを取り戻し、例のフレーズを優しくも弱々しく奏でながら、周辺を夕日の赤から、夜の訪れによる薄暮の藍色に染まりながら消えるように終わってゆく・・・・・。

この幻想的な音楽は、海の近くに住んだ自分、そしてまた歳を経て、海の街に帰ってきた自分にとって、一音一音すべてが共感できるもの。

夏の終わり、海を渡る風も涼しくなり、ひとり佇む海辺に、こんなに相応しい音楽はないと思う。

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こんな夕暮れを子供時代から見てきた。

わたしにとってのノスタルジーの風景。

こんな夕暮と夕日に向かって飛ぶ鳥の絵なんかを描いていた少年だった。

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バルビローリ、グローヴズ、ハンドリーの演奏をずっと聴いてきた。

オーウェル・ヒューズ盤は録音もよく、美しく繊細な演奏で最近お気に入り。

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2021年12月30日 (木)

わたしの5大ヴァイオリン協奏曲

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東京駅丸の内、仲通りのイルミネーション。

とある日曜日に行ったものだから、通りは人であふれてました。

冬のイルミネーションは、空気が澄んでいてとても美しく映えます。

勝手に5大ヴァイオリン協奏曲。

一般的には、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーが4大ヴァイオリン協奏曲。

ここでは、私が好きなヴァイオリン協奏曲ということでご了解ください。

順不同、過去記事の引用多数お許しください。

①コルンゴルト(1897~1957)

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   ニコラ・ベネデッティ

 キリル・カラヴィッツ指揮 ボーンマス交響楽団

        (2012.4.6 @サウザンプトン)

好きすぎて困ってるのがコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。
順不同とか言いながら、これは、一番好き、自分のナンバーワンコンチェルトです。
若き頃はモーツァルトの再来とまで言われながら、後半生は不遇を囲い、亡くなってのちは、まったく顧みられることのなかったコルンゴルト。
そして、いまや「死の都」は頻繁に上演される演目になり、なによりもこのヴァイオリン協奏曲も、ヴァイオリニストたちのなくてはならぬレパートリーとして、コンサートでもよく取り上げられ、録音も多く行われるようになりました。
1945年、ナチスがもう消え去ったあとに亡命先のアメリカで作曲。
アルマ・マーラーに献呈。
1947年、ハイフェッツによる初演。
しかし、その初演はあまり芳しい結果でなく、ヨーロッパ復帰を根差したコルンゴルトの思いにも水を差す結果に。
濃厚甘味な曲でありながら、健康的で明るい様相も持ち、かつノスタルジックな望郷の思いもそこにのせる。
 11種のCD、10種の録音音源持ってました。
若々しい表情でよく歌い上げたベネデッティの演奏。
銀幕を飾った音楽を集めた1枚で、トータルに素晴らしいのでこちらを選択。
ムター、D・ホープ、シャハムなどの演奏もステキだ!

②ベルク(1885~1935

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   イザベル・ファウスト

 クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

     (2010.12 @マンツォーニ劇場、ボローニャ)

ベルクのヴァイオリン協奏曲も、このところコンサートで人気の曲。
マーラーの交響曲との相性もよく、5番あたりと組み合わせてよく演奏されてる。
1935年、「ルル」の作曲中、ヴァイオリニストのクラスナーから協奏曲作曲の依嘱を受け、2カ月後のアルマ・マーラーとグロピウスの娘マノンの19歳の死がきっかけもあって生まれた協奏曲。
ベルク自身の白鳥の歌となったレクイエムとしてのベルクのヴァイオリン協奏曲。
甘味さもありつつ、バッハへの回帰と傾倒を示した終末浄化思想は、この曲の魅力をまるで、オペラのような雄弁さでもって伝えてやまないものと思う。
 音楽の本質にずばり切り込むファウストの意欲あふれるヴァイオリンと、モーツァルトを中心に古典系の音楽をピリオドで演奏することで、透明感を高めていったアバドとモーツァルト管の描き出すベルクは、生と死を通じたバッハの世界へも誘ってくれる。
 10種のCD、12種の録音音源。


③バーバー(1910~1981

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   エルマー・オリヴェイラ

  レナート・スラトキン指揮 セントルイス交響楽団

     (1986.4 @セントルイス)

1940年の作品。
戦争前、バーバーはこんなにロマンテックな音楽を作っていた。
私的初演のヴァイオリンは学生、指揮はライナー。
本格初演は1941年、ヴァイオリンはスポールディング(なんとスポーツ用品のあの人)とオーマンディ。
3楽章の伝統的な急緩急の構成でありますが、バーバー独特の、アメリカン・ノスタルジーに全編満たされている。
 幸せな家族の夕べの団らんのような素敵な第1楽章。

第2楽章の、遠くを望み、目を細めてしまいそうな哀感は、歳を経て、庭に佇み、夕闇に染まってゆく空を眺めるにたるような切ないくらいの抒情的な音楽。
無窮動的な性急かつ短編的な3楽章がきて、あっけないほどに終わってしまう。
この3楽章の浮いた存在は、バーバーのこの協奏曲を聴く時の謎のひとつだが、保守的なばかりでない無調への窓口をもかいま見せる作者の心意気を感じる次第。
 ハンソンのロマンティック交響曲とのカップリングで発売された、アメリカ・ザ・ビューティフルというシリーズの1枚。
ポルトガル系アメリカ人のオリヴェイラのヴァイオリンは、その音色がともかく美しく、よく歌うし、技巧も申し分ない。
加えてスラトキンとセントルイスの絶頂期は、アメリカのいま思えば良き時代と重なり、まさにビューティフルな演奏。
 CDは5種、録音音源は8種。 

④シマノフスキ(1882~1937)

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  アラベラ・シュタインバッハー

 マレク・ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団

     (2009.5 @ベルリン)

ポーランドの作曲家シマノフスキの音楽作風はそれぞれの時期に応じて変転し、大きくわけると、3つの作風変化がある。
後期ロマン派風→印象主義・神秘主義風→ポーランド民族主義風
この真ん中の時期の作品がヴァイオリン協奏曲第1番。
ポーランドの哲学者・詩人のタデウシュ・ミチンスキの詩集「5月の夜」という作品に霊感をえた作品で1916年に完成。
 単一楽章で、打楽器多数、ピアノ、チェレスタ、2台のハープを含むフル大編成のオーケストラ編成。
それに対峙するヴァイオリンも超高域からうなりをあげる低音域までを鮮やかに弾きあげ、かつ繊細に表現しなくてはならず、難易度が高い。

鳥のざわめきや鳴き声、透明感と精妙繊細な響きなどドビュッシーやラヴェルに通じるものがあり、ミステリアスで妖しく、かつ甘味な様相は、まさにスクリャービンを思わせるし、東洋的な音階などからは、ロシアのバラキレフやリャードフの雰囲気も感じとることができます。
これらが、混然一体となり、境目なく確たる旋律線もないままに進行する音楽には、もう耳と体をゆだねて浸るしかありません。
 この作品が好きになったのは、ニコラ・ベネデッティとハーディングのCDからだけど、彼女の演奏はコルンゴルトで選んじゃったから、同じ美人さんで、シュタインバッハーとヤノフスキのものを選択。
鮮やかで確かな技巧と美しい音色のヴァイオリンは、万華鏡のようなシマノフスキの音楽を多彩に聴かせてくれます。
 この作品もコンサート登場機会が急上昇中。
CDは3種のみ。録音音源は5種。

⑤ディーリアス(1862~1934)

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    ユーディ・メニューイン

 メレディス・デイヴィス指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

   (1976.6 @アビーロードスタジオ)

1916年、グレ・シュール・ロワンにて作者54歳の作品。
 戦火を逃れ、ドイツからロンドンに渡ったディーリアスは、メイ&ビアトリスのヴァイオリンとチェロの姉妹二重奏を聴き感銘を受け、姉妹を前提に、このコンチェルトや二重協奏曲、デュプレで有名なチェロ協奏曲が書かれた。だからイメージは3曲とも、似通っているが、このヴァイオリン協奏曲がいちばん形式的には自由でラプソディーのような雰囲気に満ちているように思う。
単一楽章で、明確な構成を持たず、最初から最後まで、緩やかに、のほほんと時が流れるように、たゆたうようにして過ぎてゆく。
デリック・クックはこの単一楽章を分析して、5つの区分を示し、ディーリアスの構成力を評価したが、わたしはそうした聴き方よりも、感覚的なディーリアスの音楽を自分のなかにある心象風景なども思い起こしながら、身を任せるように聴くのが好き。
フルートとホルン、ヴァイオリンソロでもって、静かに消え入るように終わるヴァイオリン協奏曲。
夢と思い出のなかに音楽が溶け込んでいくかのよう・・・・・
 メニューインとデイヴィスの、いまや伝説級の70年代のEMI録音は、録音も含めて、ジャケットのターナーの絵画のような紗幕のかかったノスタルジーあふれる演奏を聴かせてくれる。
この雰囲気の豊かさは、最新のデジタル録音では味わえないものかもしれないが、だからこそ、タスミン・リトルの新しい録音は是非にも聴かねばならぬと思っている。
CD音源3種、録音音源2種。

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週1か隔週ぐらいのペースでblogを更新しましたが、今年ほど思わぬ訃報が舞い込んでお別れの記事を書いた年はないかもしれません。

来年はどんな年になりますかどうか。
音楽を聴く環境も様変わりし、コンサートに出向く機会も激減。
いくつも仕掛り中のシリーズを順調に継続したいけど、時間があまりなく、風呂敷を広げすぎたかなと反省中。

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2021年7月18日 (日)

バレンボイムの欧・露音楽

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靖国神社の「みたままつり」2021、お詣りしてきました。

昨年は中止、今年は出店や音楽舞台、神輿などの奉納行事は一切なく、美しい幻想的な提灯と懸雪洞のみ。

立錐の余地のなくなるこれまでと違い、静かな境内は落ち行きあるものでした。

梅雨明け前夜、ほのかな月も美しかったです。

特に、この期間のみ、宮の中庭も拝観・参拝できまして、普段は入ることのできない場所だけに貴重な体験もできました。

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仙台から奉納された七夕飾り。

今年は短くなり、しかし、よく見ると千羽鶴なんです。

中庭参観で授かった呼鈴守りには、「この国難に、一日も早い感染症の終息を祈念致します」とありました。。。

ほんとそう、みたままつりは、新入社員時代の会社が至近にあったのでそのときから行ってました。

あのときの賑やかさが戻ることを・・・・・

 さて、音楽の方は賑やかに、若きバレンボイムに誘われて、旅気分でいきましょう♬

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  R=コルサコフ スペイン狂詩曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1977.3 @オーケストラホール、シカゴ)

シカゴの音楽監督になるまえに、70年代後半に、DGへヨーロッパとロシアの音楽を特集したレコードを数枚録音しました。
私はロシア盤だけレコードで購入し、他はCD時代になって聴きました。
 ということで、まず、第1弾のロシアへまいりましょう。

「はげ山」「ダッタン人の踊り」「ロシアの復活祭」「スペイン狂詩曲」の4曲。
これがまあ、明るくて楽しくて、レコードの鳴りもよくて大学生だった自分は毎日聴いたものです。

ロシアの憂愁やおどろおどろしさ、暗さなどは皆無。  
あっけらかんと、どっかーーんと、大音量で楽しむに限る。
シカゴの名人芸を、35歳の若きバレンボイムが、自ら楽しむがこどく堪能してる感じであります。
バレンボイムは、以外やロシアものが得意。
ことに、オペラを存外に好んで指揮していて、コルサコフだと「皇帝の結婚」、「エウゲニ・オネーギン」、プロコフィエフの「賭博者」に「修道院での婚約」なども取り上げてます。
いずれも、ロシアというか、ドイツ目線の演奏に感じますが、才気あふれる指揮であることには変わりなく、多彩な人だと実感。

シカゴの録音はDGのものが一番好き。
当時のデッカはメディナテンプルで、DGはオーケストラホール。
音の分離の良さや重厚さではデッカ、響きの良さとやや乾いたホールトーンも楽しめる雰囲気があるのはDG。
そんなイメージをずっと持ってます。
この時期の、アバドやジュリーニの録音もそうですね。
 バレンボイムとシカゴは、後にエラートに録音するようになりましたが、演奏も録音も、DG時代の方がはるかに好きです。

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  ブラームス ハンガリー舞曲第1、3、10番

  ドヴォルザーク スラヴ舞曲 op.46-1、8

  ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1977.11 @オーケストラホール、シカゴ)

これまたシカゴのゴージャスサウンドが楽しめるけれど、こうして聴くとやはり、ブラームスはバレンボイムの性に合ってる感じ。
東欧音楽の1枚は、あと、「モルダウ」と「レ・プレリュード」が併録されてます。
リストもバレンボイム向きなだけに、なかなかシリアスな名演になってます。
アンコールピースみたいないずれの曲だけれども、真剣勝負のシカゴはここでもすごい。
ハンガリー舞曲では、独特のうねりのような情念も感じられ、オケももしかしたら古き良き過去の大指揮者を思いつつ懐かしんでる風情があり。
一方のスラヴ舞曲は、構えが大きく、チャーミングさ不足か。しゃれっ気が欲しいくらい。
そういえば、バレンボイムはドヴォルザークを振りませんね、新世界すらない。

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  メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」序曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1979.3 @オーケストラホール、シカゴ)

ドイツ名曲集は、この「真夏の夜の夢」に加えて、「フィガロ」「オベロン」「舞踏への勧誘」「ウィンザーの陽気な女房たち」そして、シューマン全集から「マンフレッド」序曲が加えられてます。
さすがにドイツものとなると、バレンボイムとシカゴの面目躍如で、どっしりと構えつつ、堂々たる音楽の運びで充実してます。
フィガロやウィンザーには、より軽やかさを求めたくもありますが、オベロンと真夏の夜は、ロマンティックでドイツの森を感じさせ、単体で聴くオーケストラピースとしては完結感にもあふれていて実に気分がよろしくなります。

ちなみに、この録音の5年後に、シカゴ響はレヴァインとこの作品を録音してますが、そちらは軽やかで威勢のよさを感じます。
バレンボイムは、より堂々としていて、重たいです。
ワーグナーもこの時期、のちのエラートの時代でなく、シカゴで録音して欲しかったものです。

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  サン=サーンス 交響詩「死の舞踏」

 ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団

      (1980.10 @パリ)

1975年にパリ管の首席に就任していたバレンボイム。
当然のように、フランス管弦楽作品は、パリ管。
しかし、寄せ集め感があって、既存録音のサムソンとデリラやベルリオーズなどからチョイスされてます。
「ローマの謝肉祭」「ベンヴェヌート・チェッリーニ」「ノアの洪水」「サムソンとデリラ」「魔法使いの弟子」などが収録。
シカゴから順番に聴いてくると、ここで明らかにオーケストラの毛色がまったく変わったのがわかります。
もちろん、録音の違いも大きいですが。
サラッとしてて、しなやかなサウンド。
バレンボイムの指揮ですから、重心はやや下にありますが、ヨルダノフのヴァイオリンソロも含め、木管のさりげないひと吹きも色艶があって、魅惑的です。
ドビュッシー、ラヴェルやフランク、ベルリオーズなど、パリ管時代に残してくれた数々の録音は、いまや達観の域にあるバレンボイムの若き貴重な遺産だと思いますね。

 しかし、パリ管は、フランス人指揮者が首席にならないし、毎回、よく変わります。

ミュンシュ→カラヤン→ショルティ→バレンボイム→ビシュコフ→ドホナーニ→エッシェンバッハ→P・ヤルヴィ→ハーディング→マケラ

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 ディーリアス 「春はじめてのかっこうを聞いて」
        「川の上の夏の夜」
         2つの水彩画
        「フェニモアとゲルダ」間奏曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団

      (1974.5 @ハンブルク)

音楽旅は、大好きな英国へ。
パリから、ロンドンに着くと、音楽も演奏も、1枚ヴェールがかかったように、くすんでいる。
本格的な指揮活動は、イギリス室内管と。
いうまでもなく、モーツァルトの弾き振りからだったのですが、EMIで徐々にレパートリーを拡張。
「浄夜」と「ジークフリート牧歌」にヒンデミットを組み合わせた1枚なんて、最高だった。
ベルリンでも録音したエルガーを除くと、英国音楽の録音は、この1枚と、RVWの協奏曲のみかもしれない、ましてディーリアスはありえない。
「グリースリーヴス」「揚げひばり」、ウォルトン「ヘンリー5世」が併録。
のちに、RVWのオーボエとチューバの協奏曲も録音。

室内オケでありながら、恰幅のよさはバレンボイムならではですが、ひたすらに肩の力を抜いて慎ましい演奏に徹しているのがよかった。
時節柄、「川の上の夏の夜」に「水彩画」、「フェニモア」がことさらによろしく響き、窓から入り込む夏の風もどこか爽やかに感じるがごとくでありました。

指揮者としての日本デビューは確か、1971年で、こちらのイギリス室内管と。
モーツァルトを中心とするプログラムで、髪の毛はもじゃもじゃだった。
その時に、N響にも来演し、ズッカーマンとメンデルスゾーン、チャイコフスキーの4番を指揮してます。
テレビで見ましたが、あの時の指揮はよく覚えてます。
 https://wanderer.way-nifty.com/poet/2006/09/post_4a42.html

あのときのごりごりした指揮ぶりとは別人の神妙さ。
懐かしい郷愁の響きもここでは感じます。
バレンボイムも若かった、イギリスのオケも味わいがあった・・・・

先ごろも、ピアノストとして来日し、ベートーヴェンを聴かせてくれたバレンボイム。
78歳、まだまだ活躍しそうな感満載のずっと精力的なこの芸術家は、音楽史上まれにみる存在であります。
ベルリン・シュターツカペレとは、もう40年近くになります。
また、このオーケストラを率いて来演して、オペラも含めて指揮をして欲しいと熱望します。

D

心落ち着く日がともかく恋しい。

若きバレンボイムによる音楽旅、楽しかった。

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2021年1月15日 (金)

ディーリアス 日の出前の歌、楽園への道 ヒューズ指揮

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ある日の相模湾の夜明け。

よく、夜明け前が一番暗いといいます。
確かに、お日さまが昇る直前は、真っ暗でした。

日の出とともに、あたりは急速に変化し、暖かささえも感じることができる。

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目を転じると、沖には大島の姿も見えます。

こんな海を見て育ちました。

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  ディーリアス 「日の出前の歌」

         「楽園への道」
     ~「村のロミオとジュリエット」間奏曲~
           (オリジナル版)

 オーウェン・アーウェル・ヒューズ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

       (1988.4.18 @ミッチャム、ロンドン)

なんども書いててすいません、毎度おなじみディーリアス。

やっぱり好きです。

ディーリアスの音を聴くと、自分の脳内に、なにかが分泌されるような気がします。
どんな状況下、どんな気持ちにあっても、それは同じ。

私を救ってくれる音楽だといまさらに思いました。
同じ思いをもたらす音楽としては、自分にはワーグナーがいますが、強引なワーグナーに比べ、そっと優しく、そばにいてくれるディーリアスの音楽。

昨年来の出口の見えない疾疫の蔓延、政治と経済の混乱、不正を許した民主主義の崩壊の兆しなどなど・・・・
ほんとに不安と不満がたまり、もやもや感が尽きませぬ。

終わりはあるはず、夜明けは近い、そして新しく歩みだすのだ、という思いをもって、ディーリアスのこの2曲をしっとりと聴きました。
もうね、涙が出そうになりました。

ディーリアスの大ファンであったウォーロックに捧げられた「日の出前の歌(A Song before Sunrise)」。
甘味で刹那的に聴こえるけれど、日の出前、自然が目覚めてくる雰囲気を描いたもので、聴きながら勝手にイギリスの田園風景と、徐々に日に染まりゆく野や草木の様子を思い浮かべることができる。

一方、「楽園への道」は、そのオペラの原題のとおり、小さな村の反目しあう家に生まれた少年と少女の悲恋の物語。
村人の目線から逃げることのできない二人は、朽ちた別荘の裏に流れる小川から、小舟に乗って旅立つ。
それは、行き先のない「愛の死」への旅だったけど、でももう誰も追ってこない、ふたりにとっての楽園なのでした・・・・
 こんな物悲しい物語のオペラにつけられた間奏曲は、あまりに儚くも美しく、そして哀しい。
ディーリアスの「トリスタンとイゾルデ」
愛の成就は、陶酔的な大きなクライマックスを築くが、徐々に弱まる音は魂の浄化。
きれいさっぱりと出直したいものだ・・・・・・

このCDでは、ビーチャムが編んだ単独演奏用の間奏曲ではなく、オペラの中の間奏曲をそのままに演奏したものが収録されてます。
各楽器のソロが目立つ編曲版の方がより劇的に聴こえ、オリジナル版はより静謐な雰囲気が勝るような気がしました。

過去記事→「村のロメオとジュリエット」

アーウェル・ヒューズは、ウェールズ出身で、ボールト、ケンペ、ハイティンクに学んだ王道系の指揮者で、父親も高名な作曲家。
英国もの以外に、デンマークの作曲家ホルンボーの専門家みたいに、BISにたくさん録音してまして、なにげに私もブログに書いてます。
このディーリアス、ノーブルなフィルハーモニア管を指揮して、ゆったりと、慈しむようにして、ディーリアスの感覚的な世界を描きだしてます。
久々に聴いたこの1枚。最初の頃と印象がまた変わりました。
美しすぎるその演奏。

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夜明けは近い、のだろうか・・・・・

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2020年8月30日 (日)

ディーリアス 河の上の夏の夜 ヒコックス指揮

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今年の夏のいつものお山の上。

涼しい7月でコスモスが早まり、暑い8月ではやくも枯れ始めてしまった。

なにもかも異例づくしの今年。

さらに安倍総理の辞任にも驚き。
病を抱えつつの長年の執務、お疲れさまでしたと言いたい。
なにごとも身体が大切、健康が大事。

ディーリアスの代表作たちで夏の疲れを癒そう。

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    ディーリアス

 「そり乗り(冬の夜)」
 「フェニモアとゲルダ」間奏曲
 「春初めてのかっこうを聞いて」
 「河の上の夏の夜」
 「日の出前の歌」
 「ラ・カリンダ」~「コアンガ」より
 「イルメリン」前奏曲
 「ハッサン」~間奏曲とセレナーデ
 「夏の夜」
 「エアとダンス」

 サー・リチャード・ヒコックス指揮 ノーザン・シンフォニア

       (1985.9 @ニューカッスル・アポン)
    
ディーリアスの音楽ジャンルは、多岐に渡りますが、交響曲がないのがいかにもディーリアスらしいところ。
形式の決まった交響曲という構成に、興味を示さなかったのだろうか。
そして、無宗教だったことから、キリスト教色もなく、むしろ東方やアメリカなどの土着的な風土に興味や共感を示し、そうしたものを音楽に反映させました。

オペラや声楽作品でも、男女の恋愛模様は幸せ感は少なめで、いつも悲しみをたたえているし、別離に光をあてている音楽が多いのもディーリアスならでは。
あとは、ディーリアスならではといえば、なによりも人ではなく、自然がその音楽の対象であり、季節感もそこにはあふれているわけであります。

そんなディーリスの音楽の特徴のエッセンスを味わえる1枚が、このヒコックス盤。
このあとのディーリアスを始めとするヒコックスの英国音楽の数々の録音の初期のものだけに、その選曲は、ビーチャム盤にも似ています。
アーゴレーベルに始まり、EMIへ、そのあとはシャンドスに幾多の録音を残してくれたヒコックスも、亡くなってもう12年となる。
60歳での心臓発作による、その早すぎる死は、いまでも悔やまれてならない。
存命だったら、英国の音楽をほぼ体系的に、すべて録音に残してくれたものと思うので。
シャンドスは、ヒコックスのあとの英国路線を、アンドリュー・デイヴィスとエドワード・ガードナー、サカリ・オラモに託しましたので、聴き手としてはありがたいことではあります。
でも、シャンドスレーベル、最近、お高いんだよなぁ~

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今回のブログタイトルは、「河の上の夏の夜」にしましたが、季節性のみをとらえただけで、理由はありません。

クリスマス時にも聴きたい、楽しいワクワクする音楽「そり乗り」。
秋の黄昏時の薄幸の哀しみあふれた「フェニモアとゲルダ」。
春のはじまりだけど、もの悲しい雰囲気の「春はじめてのかっこう・・」と夏の水辺の音楽「河の上の夏の夜」は姉妹作。
これぞ、ディーリアスの音楽の神髄。
どちらも、かっこうと、虫の声で、季節を描写しますが、それがリアルでなく、そこはかとないのが、どこか日本人的な俳句の世界みたいな感性で、大いに共感できる。
 ディーリアスが住んだ、フランスのグレでは、自宅近くを流れる緩やかな川で、夏はよく舟遊びをしたそうですが、それもまた日本の夏を思わせるけど、でも、いまの熱帯化した日本には、まったく想像もできない風情だな。
こうして、音楽だけでも、季節感を味わえるのは、ディーリアスに感謝しなくちゃならない。

「日の出前の歌」は、文字通り、自然が目覚める夜明けの音楽で、どこか刹那的にも感じる。
ディーリアスのアメリカ時代への思い出でもある、「ラ・カリンダ」は、楽しい夕暮れ時のダンスで、その独特のリズムと雰囲気はクセになります。
 最初のオペラ、「イルメリン」の前奏曲は北欧のロマンティックな伝説に基づくもので、まさに夢見るような優しい雰囲気にあふれていて、お休み前の曲としても絶好の佳曲。
 エキゾティックな東方劇「ハッサン」からの2曲は、これもまた、儚くも美しい小品で、コンサートなどで、多くの人と一緒に聴くのでなく、ひとり静かに、耳を傾けるに限る。
 ビーチャムの編曲した「夏の夕べ」は、若い頃の作品で、趣き豊かに始まり、思わぬ盛り上がりのフォルテもあるが、グリーグやシベリウスみたいな北欧ムードもあり。
「エアとダンス」は弦楽作品で、これもまたディーリアスらしい、慎み深くも愛らしい曲で好き。

ざっとレビューしましたが、ヒコックスの癖のない、すっきりサウンドは、それぞれの曲の特徴やイメージをしっかりとらえつつ、安心してディーリアスサウンドに身をゆだねることができるものです。
 現在は、ロイヤル・ノーザン・シンフォニアという名称になってますが、この室内オーケストラは、以前はノーザン・シンフォニア・オブ・イングランド。
まさに、イギリス北東部のイングランド、そちらのゲーツヘッドという市を拠点にしていて、現在の音楽監督は、ラルス・フォークトで、首席客演がジュリアン・ラクリン、名誉指揮者がトマス・ツェートマイアーという具合に、本業指揮者でなく、ピアニストやヴァイオリニストであることが面白い。
ネットで、ツェートマイアー指揮するブルックナーの6番を聴いたが、これが驚くべき新鮮な演奏だった。
イギリス各地のオーケストラも、それぞれに特徴があって面白い。

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まだまだ厳しい夏の暑さは続くけれど、暦のうえではとっくに秋。
年々短くなる「春」と「秋」。
ちゃんとした秋が、今年はあって欲しい。
ディーリアスの音楽だけしか、季節を味わったり、偲んだりできなくなってはいけません・・・

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2020年4月 5日 (日)

ディーリアス 人生のミサ デル・マー指揮

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晴れた春分の日の日の入りを、吾妻山から眺めました。

富士に沈む夕陽。

壮絶ともいえる夕暮れの様子を立ち会うのが大好きです。

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ディーリアスの大作、人生のミサを久しぶりに聴く。

集めた音源は4種もあり、今回は、デル・マーの指揮によるものをメインに、聴きまくりました。

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  ディーリアス 人生のミサ

    S :キリ・テ・カナワ
    Ms:パメラ・ボウデン
    T :ロナルド・ダウド
    Br:ジョン・シャーリー=クワァーク

 ノーマン・デル・マー指揮 BBC交響楽団
              BBC合唱団
              BBCコーラル・ソサエティ
    (1971.5.3 @ロンドン、ライブ)

イタリアのわけわからないレーベルから出てるこのCD。
放送録音と思われ、音像も少し遠く感じられますが、ちゃんとしたステレオで、鑑賞に支障はありません。
おまけに、カップリングはグローヴズ指揮するレクイエムもついてるので、ディーリアス好きにはたまらない音源なのです。

安定のシャーリー=クワァークが神々しく、いちばん耳にまっすぐ届きます。
キリ・テ・カナワがディーリアスを歌うなんて、と思いつつ聞いたけど、そのクリーミーで清潔な歌唱は、思った以上に相応しく、とてもいいです。
ボウデンの奥ゆかしいメゾに、熱っぽいダウドのテノール。
ダウドは、デイヴィスのベルリオーズ・レクイエムでソロを歌っている方です。

そして、師ビーチャムのもとで学んだ、デル・マーの定評あるディーリアス。
ベーレンライター版のベートーヴェンを校訂した、ジョナサン・デル・マーの親父さんです。
ときに、野生的な場面もあるこの作品、そうしたダイナミックな局面の描き方は、デル・マーのもっとも得意とするところだし、この作品の一番美しいシーン、第2部の牧場の真昼の美しさといったらない、陶然としてしまった・・・

   -----------------

ここで、この作品のことを、下記、過去のヒコックス盤の記事からの引用です。

4人の独唱、2部合唱を伴なう100分あまりの大作。
こうした合唱作品や、儚い物語に素材を求めたオペラなどに、ディーリアスの思想がぎっしり詰まっているのだ。
 ディーリアスは、世紀末に生きた人だが、英国に生まれたから典型的な英国作曲家と思いがちだが、両親は英国帰化の純粋ドイツ人で、実業家の父のため、フレデリックもアメリカ、そして音楽を志すために、ドイツ、フランスさらには、その風物を愛するがゆえにノルウェーなどとも関係が深く、コスモポリタンな作曲家だった。

その音楽の根幹には、「自然」と「人間」のみが扱われ、宗教とは一切無縁
そう、無神論者だったのである。
この作品も、「ミサ」と題されながらも、その素材は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」なのであるから。

 アールヌーヴォ全盛のパリで有名な画家や作家たちと、放蕩生活をしている頃に「ツァラトゥストラ」に出会い、ディーリアスはその「超人」と「永却回帰」の思想に心酔してしまった。
同じくして、R・シュトラウスがかの有名な交響詩を発表し大成功を収め、ディーリアスもそれを聴き、自分ならもっとこう書きたい・・・、と思った。
1909年、ビーチャムの指揮により初演され、その初録音もビーチャムによる。
 
ドイツ語の抜粋版のテキストに付けた音楽の構成は、2部全11曲。

合唱の咆哮こそいくつかあるものの、ツァラトゥストラを歌うバリトン独唱を中心とした独唱と合唱の親密な対話のような静やかな音楽が大半を占める。
日頃親しんだディーリアスの世界がしっかりと息づいていて、大作にひるむ間もなく、すっかり心は解放され、打ち解けてしまう。

第1部

 ①「祈りの意志への呼びかけ」 the power of the human will
 ②「笑いの歌」 スケルツォ 万人に対して笑いと踊りに身をゆだねよ!
 ③「人生の歌」 人生がツァラトストラの前で踊る Now for a dance
 ④「謎」      ツァラトゥストラの悩みと不安
 ⑤「夜の歌」   不気味な夜の雰囲気 満たされない愛

第2部

 ①「山上にて」 静寂の山上でひとり思索にふける 谷間に響くホルン
           ついに人間の真昼時は近い、エネルギーに満ちた合唱
 ②「竪琴の歌」 壮年期の歐歌!
           人生に喜びの意味を悟る
 ③「舞踏歌」  黄昏時、森の中をさまよう 牧場で乙女たちが踊り、一緒になる
           踊り疲れて夜となる
 ④「牧場の真昼に」 人生の真昼時に達したツァラトゥストラ
           孤独を愛し、幸せに酔っている
           木陰で、羊飼いの笛にまどろむ
 ⑤「歓喜の歌」 人生の黄昏時
           過ぎし日を振りかえり人間の無関心さを嘆く
           <喜びは、なお心の悲しみよりも深い>
 ⑥「喜びへの感謝の歌」
           真夜中の鐘の意味するもの、喜びの歌、
           永遠なる喜びを高らかに歌う!
            
       O pain! O break heart!
                     Joy craves Eternity,
                     Joy craves for all things endless day!
                    Eternal, everlasting, endless dat! endless day!
                      
           (本概略は一部、レコ芸の三浦先生の記事を参照しました)

 冒頭のシャウトする合唱には驚くが、先に書いたとおり、すぐに美しいディーリアスの世界が展開する。
妖精のような女声合唱のLaLaLaの楽しくも愛らしい踊りの歌。

「夜の歌」における夜の時の止まってしまったかのような音楽はディーリアスならでは。
「山上にて」の茫洋とした雰囲気にこだまする、ホルンはとても素晴らしく絵画的でもある。
さらに、「牧場の昼に」の羊飼いの笛の音は、オーボエとコールアングレで奏され、涙がでるほどに切なく悲しい。
この場面を聴いて心動かされない人がいるだろうか
まどろむツァラトゥストラの心中は、悩みと孤独・・・・。
「歓喜の歌」の合唱とそのオーケストラ伴奏、ここでは第1部の旋律が回顧され、極めて感動的で私は、徐々にエンディングに向けて感極まってしまう。
そして、最後の「喜びへの感謝の歌」では4人の独唱者が高らかに喜びを歌い上げ、合唱は壮大かつ高みに登りつめた歌を歌うクライマックスを築く。
そして、音楽は静かになっていって胸に染み込むように終わる。

シェーンベルクの「グレの歌」にも似ているし、スクリャービンをも思わせる世紀末後期ロマン派音楽でもある。
 以前、畑中さんの批評で読んだことがあるが、「人生のミサ」の人生は、「生ける命」のような意味で、人の生の完結論的な意味ではない、と読んだことがある。

英語の「LIFE」も同じ人生を思わせるが、原作の「Eine Messe des  Leben」のLebenの方がイメージが近いような気がする。

Delius-mass-beecham

②ビーチャム盤


   S:ロジーナ・ライスベック
   A:モニカ・シンクレア
   T:チャールズ・クレイグ
   Br:ブルース・ボイス

 サー・トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                ロンドン・フィルハーモニック合唱団
   
    (1952~53 @アビーロードスタジオ)

モノラルだけど、ちゃんとしたスタジオ録音なので、音はくっきり鮮明、そして生々しい。
演奏も、さすが初演者だけあって、熱のこもったもので、情熱の掛け方が半端ない。
そして、陶酔的な美しさは、さすがディーリアスの守護神ともいえるビーチャム。
ホルンは、このとき、ブレインだったのでしょうか。。
モノラルゆえに、そのどこか鄙びた響きは、わたしには郷愁すら感じる・・・・

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③グローヴズ盤


   S:ヘザー・ハーパー
   A:ヘレン・ワッツ
   T:ロバート・ティアー
   Br:ベンジャミン・ラクソン

 サー・チャールズ・グローヴズ指揮ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団
                ロンドン・フィルハーモニック合唱団
   
    (1972 @ロンドン)

ビーチャム盤に次ぐふたつめの正規録音で、これが国内発売されたとき、すでに私はディーリアス好きだったけど、2枚組の大作には手が手ず、三浦先生の特集記事だけど、興味深々で読むにとどまっていた。
さらに全部集めたはずの、EMI「音の詩人ディーリアス1800シリーズ」でも出たはずなのに、なぜかこのグローヴズの「人生のミサ」は購入していなかったのが今思えば不思議なこと。
そして、実際に耳にしたのは、CD時代になってから。
グローヴズらしい滋味あふれる、優しさと自信にあふれた素晴らしいディーリアス演奏です。
当時、ハイティンクのもとで黄金時代を築くことになるロンドン・フィルのくすんだ響きも、渋くも神々しい。
お馴染みの歌手の名前が揃っているのも懐かしい。
明るめのラクソンの声が美しく、すてきなものだ。
 ただ、録音が強音で、割れてしまうのが惜しい。
ちゃんとマスタリングして、再発して欲しいな。

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④ヒコックス盤


   S:ジョーン・ロジャース
   A:ジーン・リグビー
   T:ナイジェル・ロブソン
   Br:ピーター・コールマン・ライト

 サー・リチャード・ヒコックス指揮ボーンマス交響楽団
                 ボーンマス交響合唱団
   
    (1996@ボーンマス)

ヒコックスも早くに亡くなってしまったが、シャンドスに、ディーリアスを次々に録音していたなかでの逝去は、本当に残念だった。
そこで、この作品が録音されたのは僥倖もの。
やはりデジタルでの鮮明な録音で、こういう合唱作品で音割れの心配なく聴けることが嬉しい。
こうして、いくつも並べて聴いてみると、歌手が小粒に感じるものの、悪くない。
ことにオーストラリア出身のコールマン・ライトのこれも明るめのバリトンがいい。
濃淡ゆたかな合唱の扱いがさすがにヒコックスはうまい。
静かな場面での弱音の美しさは、録音の良さも手伝って、ほかの盤では味わえないし、ボーンマス響のニュートラルサウンドと、それを引き出すヒコックスの指揮の巧さも感じます。
かつて、新日フィルに客演したヒコックスを聴いたけれど、オケと合唱をコントロールする巧さは、長年の合唱指揮者としての経験の積み重ねだと思ったことがある。
そのときの演目は、ブリテンの「春の交響曲」だった。
1999年の文化会館でのコンサート。

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沈んだ夕陽。

こうして夜の闇が訪れますが、いま、世界は闇のなかにいるかのよう。

人類の叡智もかなわない猛威に、不安は増すばかり。

いつかやってくる明るい夜明けを期待して、いまは静かに過ごすばかり。

そしてひたすら、連日、音楽を聴き、オペラを観るばかり。

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2019年9月19日 (木)

ディーリアス 弦楽四重奏曲 去りゆくつばめ ブロドスキーSQ

Lave

こんな、初夏から夏にかけての1枚が、懐かしく思われる今日この頃。

季節の変わり目は、四季に応じてあるけれども、冬から春のわくわく感、春から夏の沸き立つ解放感。
そして、夏から秋へは、寂しさと楽しかった日々への寂寞の想いがあります。
さらに、秋から冬は、備えと身支度を伴って身が引き締まります。

9月17日から21日頃を、暦でいう七十二侯のうち「玄鳥去」にあたります。
そう、元気に飛び交っていた「つばめ」たちが、南の暖かい地に飛び去る季節を言うのです。

Delius-elgar-brodsky

  ディーリアス 弦楽四重奏曲

    ブロドスキー・カルテット

               (1982)

ディーリアス唯一の弦楽四重奏曲。
第一次大戦によるドイツ軍の侵攻により、永遠の地と定めた、フランス、グレからオルレアンに一時避難、しかし、一時ドイツ軍が引いてグレに戻ったものの、ビーチャムの勧めもあって、イギリスへと渡った。
ちょうどその頃、書かれた四重奏曲で、1916~17年の作品にあたります。

もうひとつ。1893年に書かれた四重奏曲があって、そちらは破棄されてしまったので、現存するのはこちらだけ。
当初は、3楽章構成であったが、すぐにスケルツォ楽章を加えて4楽章形式としました。

4つの楽章からなる、正統的な四重奏曲で、そのの緩徐楽章である、第3楽章がフェンビーによって編曲された、弦楽合奏による小品「去りゆくつばめ」の原曲。

Slow and wistfully」~ゆっくりと、物憂げに~と但し書きされた、美しくも儚い楽章。

弦楽合奏で聴くより、四重奏で聴くと、より耳をそばだてることになり、去りゆくつばめ、去りゆく秋を想い、気分はまさに物憂くなります。
そんな想いを、軽く和らげ払拭させてくれるような快活な4楽章が続くことに。
こちらは、速く、勢いよく、と題されてます。
さかのぼるようにして、1楽章のメロディーが再現されたり、総括的な終楽章となりますが、やはり、心に残るのは、先の3楽章。
3楽章を最後にしてもよかったのでは、なんて思ったりもします。

のびやかな1楽章は、どこか憂いを含みながらも、英国田園詩情を漂わせてくれます。
民謡調の中間部が素敵な追加された2楽章のスケルツォ。
そして、Late Swallows「さりゆくつばめ」が来るわけです。

正統的な四重奏曲と書きましたが、ベートーヴェンの中期などのかっちりとしたものと比べると、はるかに感覚的な音楽で、その流れに身を任せることが出来ない聴き手には、退屈な音楽としかうつらないででしょう。
ですが、これがディーリアスの魅力です。

グレからイギリスに去る時、夫人イェルカによれば、ディーリアスは「つばめと別れるのがとてもつらい」と言っていたそうです。
季節の時候として、遅くまで残って飛び交うつばめも、次々に去っていく。
それを見ながら思うディーリアスの脳裏には、戦時避難したおりに接した負傷兵や避難者たちの姿もあって、戦没者への想いもありました。

昨日の雨が上がり、朝から青空が雲の中から顔を出してます。
空もだんだん高くなってきました。

Delius_del_mar

 「去りゆくつばめ」弦楽合奏版で好きなのは、慈しむようなバルビローリと、楚々としたノーマン・デル・マーのもの。

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2018年12月 9日 (日)

ディーリアス 「高い丘の歌」 A・デイヴィス指揮

Shima_a

少し前、毎年11月は、伯父の命日の月で、一緒に眠る従姉の墓参と伯母へのお見舞いに群馬まで出かけます。

そして足を延ばして、四万温泉へ。

四万湖のあたりは、紅葉が終盤で、赤や黄色の絨毯をサクサクと踏み歩き散策しました。

母と姉とで、むかしのことをたくさんお話ししました。

嫌なこと、厳しいことはたくさんあれど、昔語りは幸せなことしか思い出しません。

Delius_appalachia_somg_of_high_hill

  ディーリアス  「高い丘の歌」

    S:オリヴィア・ロビンソン

    T:クリストファー・ボーウェン

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団
                       BBC交響合唱団

          (2010.10.15 オール・セインツ教会)


愛するディーリアス(1862~1934)の作品のなかで、もっとも好きな音楽がこの「高い丘の歌」。

「高い丘の歌」は、1911~12年にパリ近郊のグレ・シュル・ロワンで書かれた30分あまりの音詩。
ディーリアスの音楽って、まさに、「音による詩」と呼ぶに相応しい。
そして、その受け止め方は、聴く人の人生や暮らし、考え方、まわりの自然や見てきた風景、それらによってさまざま。

そう、特定の感情や事象に直接に紐つかないから、いつも新鮮だし、距離感もそこそこあって、自分の感情に飛び込みすぎない優しさがある。

わたくしは、そんな風にして、ディーリアスの音楽をずっと聴いてきました。

グリーグと知り合い、そして、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
でも、ノルウェーの大自然に接したことがない自分には、写真や映像で見るその自然を想像しつつも、自分の育ったお家から見えた風景や、街の自然を重ね合わせて聴くことできるのだ。
それが、自分にとっての「ディーリアスの世界」なのです。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。
ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」

                                                                 (ディーリアス:三浦敦史先生訳)

作者のこの曲に対する言葉。
この作品の魅力を一番物語っている。

丘陵、山や山岳とも違う、丘。
丘的なものも、日本の地味豊かな山々とも違って、殺伐として膨らみがただあるだけのものを想像したりもする。
唯一の英国訪問の際、ロンドンから車で発し、北上してバーミンガム方面へ、さらに南下してドーバー方面へと走りまくったことがありますが、郊外へ出て田園地帯を通過すると、丘のようなぽっこりした緑の小山が、そこここに見られたのでした。
そんな風景も、自分のなかでは英国音楽、とりわけ、ディーリアスやV・ウィリアムズを聴くときに思い浮かんだりするものなのです。

同じように、山を歩んだ音楽として、シュトラウスのアルプス交響曲がありますが、あちらは、もうリアルそのもので、音楽が登山という体験を、まんま表現しつくしている。
 ディーリアスのこちらは、写実的な要素がまったくないから、自分のなかのイメージで、思いのままに聴くことが出来る。
なんでも音や音楽にしてやろうという強引さは、これっぽっちもないので、ともかく優しく、寄り添ってくれるんだ。

何度も書くようで恐縮ですが、自分の育った家の前には、小さな山があって、その山の向こうには、富士山の頭だけがちょこんと見えてました。
夕暮れ時には、西側のその山の空が赤く染まって、ときに壮絶な夕焼けが見られることもありました。
そして、夕焼けのオレンジはやがて濃くなり、藍色にそまって暗くなっていくのです。
そんな風景を見ながら、私はディーリアスの音楽を聴いてました。
いまは離れて暮らしているけれど、ディーリアスの音楽は、また、そうした景色を呼び起こすことで、自分にとっての故郷へのノスタルジーをかり立ててくれるのです。
 この作品の最後、日が暮れ沈んでしまうくらいに、音楽がどんどんフェイドアウトしてしまう終わり方。
後ろ髪ひかれ、そして哀しく、自然の摂理の寂しさすらを感じさせます。

  ---------------

1887年のノルウェー訪問以来、生涯で17回も同国を訪れていたディーリアス。
視力を失い、体が麻痺してしまった晩年でも、車いすでかの地の丘や日没の感じられる場所へ連れていってもらっていました。

作曲の8年後、1920年、アルバート・コーツの指揮で初演。
ドイツでドイツ人指揮者によって初演が企画されるも、大戦で流れた結果のロンドン初演。
ディーリアスは、そのあと、P・グレインジャーに、これは自分の最高の作品のひとつ
と語ったという。

コンサートでは、あまり取り上げらることがないのは、30分あまりのこの曲が、一夜の演目のなかのどこで演奏できるか、その答えがないからだと思ったりもする。
そして、多くの聴衆と一緒に聴くより、ひとり静かに聴くべき音楽だからであろう。

ビーチャム盤はまだ未聴ながら、4つめの「高い丘の歌」。
シャンドスへ、ヒコックスのあとを継いでディーリアスもシリーズ化している、サー・アンドルーの演奏。
デリケートなまでの繊細さで、この曲に対して、実に素晴らしい演奏を録音してくれたことに感謝です。
この美しい演奏をしっかりととらえた雰囲気豊かな素晴らしい録音にも感謝です。

Song_of_summer

今年は、この本の刊行もうれしい出来事でした。
まだ読んでる途上ですが、断片的に接することができていたフェンビーの著述が、こうして翻訳されて体系化されたことに、こちらも感謝です。
聴きなれたディーリアスの音楽に、さらに奥行きが深まりました。

過去記事

「フェンビー&ロイヤルフィル」

「グローヴス&ロイヤル・リヴァプールフィル」

「ロジェストヴェンスキー&BBC響」



Shima_b

1か月前の晩秋。

街はいま、クリスマス。

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