カテゴリー「R・シュトラウス」の記事

2026年5月25日 (月)

東京交響楽団特別演奏会 ヴィオッテイ指揮

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先週に引き続き、東京交響楽団の新任音楽監督のロレンツォ・ヴィオッテイの指揮による演奏会。

サントリーホールからミューザ川崎に場所を移して双方のホールの響きの違いや、東響の音がどう響くなどを確認できた。

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創立80周年の東京交響楽団。

秋山和慶、スダーン、ノットと続いた歴代音楽監督の歴史に、新たな顔ヴィオッテイを迎え、踏み出したまた次の一頁。
その最初に立ち会うことができて、ほんとうによかったし、満足感で一杯のふたつのコンサートでした。

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 東京交響楽団特別演奏会 ヴィオッテイ音楽監督就任披露

    R・シュトラス 4つの最後の歌

      S:マリーナ・レベカ

    ラヴェル バレエ音楽「ダフニスとクロエ」

   ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団
                 東響コーラス
         
         合唱指揮:河原 哲也
         コンサートマスター:小林 壱成

     (2026.5.24 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

シュトラスとラヴェル、ともにオーケストラの作曲技法の限りを尽くした作曲家ふたり。
しかし、晴れやかな作品でなく、ともに内省的な局面もある音楽が選ばれたところが面白い。

世界のオペラハウスで活躍中の第1級のソプラノ、マリーナ・レベカは、この2日間のコンサートのために来日。
いくつかの音源で彼女の声は聴いてきたけれど、そのレパートリーはロッシーニやベッリーニ、ヴェルデイにプッチーニとイタリアもの、あと、私が気に入っていた役はオネーギンのタチャーナ。
琥珀色の声とも言いたくなるような魅惑の歌声なんです。
 シュトラスの絶美とも呼ぶべき彼岸の極にある歌曲集、透明感ある軽めなソプラノで聴くのが好きだけれど、レベカの声は軽やかさよりは、歌の深みを感じさせる豊かな中音域が実に説得力あるもので、その声域でのこの歌手の魅力を堪能できた。
L席という場所のせいなのか、高域がやや響かなかったが、正面で聴いた方はどうだったろう。
タブレット端末で楽譜を確認しながらの歌唱だが、横から拝見していて、ササっと入力操作して開くさまが実にカッコよかった。
 そして何よりもヴィオッテイ指揮する東響が絶対的に美しい。
シュトラウスオケであるこことを再認識したし、レベカを支えるシュトラウスの音楽の晴朗さ、軽やかさは、むしろオーケストラの側にこそあった。
ホルンも素晴らしかったが、小林コンマスの「眠りにつくとき」における絶美のソロには、涙が出てきた。
レベカもこのソロに耳を傾け、その美しさに浸っていたし、指揮者も同じくだった。
かつての昔に聴いた、横浜でのシュナイトと神奈川フィルのときの石田コンマスのソロの繊細さにも増して素晴らしかった小林ソロでした。
息がとまるほど、さらには遠くに思いや目線が行くほどに、感動したのが「夕映えのなか」。
レベカが美しく歌いきったあとの、去り行く夕焼けを思わせる最後、東響の木管の軽やかさはいかばかりか。
長い沈黙が支配した素敵なエンディングでした。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーー

1時間を要するダフニスとクロエ全曲。
合唱入りの完全全曲盤でいどむヴィオッテイの強い意欲。
合唱なしでの全曲演奏は、もう20年近く前にプレヴィンとN響で聴いたことがあるが、やはりアカペラとはいえ合唱が入ることで、音の広がりと迫真性が格段にあがるというものだ。
 第2組曲だけでは味わえない、物語性のあるよどみなく進むラヴェルの佳曲を、ストーリテラー的に舞台に即したわかりやすい音楽づくりに終わることなく、すべての音を磨き上げ東響の実力を極限に引き出した、精緻で美しい演奏だった。

冒頭から混沌ではなく、明快なサウンドで原初的な新鮮な響きをかもし出す。
そこから合唱も声を強めて盛り上がりゆくさま、もうここからして私は鳥肌物だったし、そのあとすぐの弦による旋律の優美さともなう優しさ。
もうウットリでしたね。
そこから高まるフォルテの築き上げ方や、若者たちの踊りでのリズミカルな反応のよさ。
でもまだまだ抑え気味っだったし、曲は始まったばかりなのだ。
 ダフニスの恋敵のファゴットや金管によるユーモアあふれる場面も案外に淡々と進むが切れは実によろしい。
一方のダフニスの踊りのまったり感と優美さも、その対比として面白かったが、決して誇張なく、音楽的。
ダフニスも油断してしまうほどのお姉さんの登場も、外敵襲来の予見とともになかなか緊張の高まりを味わうこととなりました。

 このあと、戦いの踊りまではちょっとダレてしまう場面だけれど、神秘感の表出やウィンドマシンの効果的な使用などを眺めつつダイナミックな爆発を待ち受けました。
オーケストラがしばし休息し、アカペラ合唱によるミステリアスなシーン。
始めて聴いた高校時代は、夜に聴くと、ここ怖かった。
ヴィオッテイはそこそこの数の東響コーラスを充分に抑え込み、金管が不穏な雰囲気を出しつつ、海賊軍団の踊りへの備えを築く。
そしてきましたよ、金管の咆哮と打楽器軍団の炸裂。
その後ピッコロやクラリネットの狂乱ぶりも重なり、饗宴の度合いを高め、男声合唱も加わりスリリングな展開に息を飲みました、
でもまだ力は8分目ぐらいかな、と。
捉えられたクロエの許しを乞う踊りのシーンでの、管や弦のしなやかさと歌わせ上手、ラヴェルの筆致の見事さも味わえる。

 このあたりから、第2組曲へと向かって音楽が聴き知った夜明けへと準備を進めていくシーンの演奏の精妙さといったらなかった。
あのフルートによる流麗かつ清々しいモティーフがついに出てくると、私は鳥肌が立つほどの感動を味わうのでした。
そのあとの弦楽器による日の出の煌めくような美しさ、そこに合唱も加わり築かれる高まり、ほんと感動的だったし、ヴィオッテイ氏も大きく腕を広げて音楽を浴びるようにして指揮してました。
 そして、今宵のハイライトと言ってもよかった竹山さんのフルートによる無言劇。
ただただ美しく、透明でデリケートでもあり、素晴らしすぎた。
4人のフルートとピッコロによる息の合った掛け合いも素敵すぎた。
さあ、こうなるともう、全員の踊りの興奮の坩堝を待ち受けるばかりだ。
高まりゆく音楽の盛り上がりに、指揮もオケも合唱もすべてを全開、まさに歓喜爆発を見せてくれました。
この喜ばしい音楽が最後に待ち受けるようにして書いたラヴェルも素晴らしいが、そこに焦点を持ってゆき、物語の大団円よろしく華々しいフィナーレを作り上げたヴィオッテイの手腕もすごかった。
一瞬誰も拍手ができず、間ができたことも余韻としてすごくよかった。

音が響きとして包まれるように聴こえるサントリーホール。
音がリアルにそのまま届き、さらには上からも降り注ぐようにして降ってくるように聴こえるミューザ。
どちらも優秀なホールです。
そんなことも、この2週間で確認ができた。
また、声楽作品、歌へのこだわりなども感じることのできたヴィオッテイの才能。
ヴィオッテイと東響の2ウィークが終わってしまい、とても寂しくもありました。

ヴィオッテイはこのあとは、オランダでこの前までの手兵のネーデルランドフィルに客演。
ラフマニノフの交響的舞曲を指揮する予定。

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ノット監督との深い絆で結ばれたコンビとはまた違った、まるで仲間のような親密な関係をきっと築きそうなヴィオッテイと東響です。

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会心の演奏を祝う東響のみなさん。
完璧でした、ありがとう。

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このあと、ヴィオッテイを拍手で呼び出し、ふたたび大喝采。

次は7月にまた帰ってきてね。

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2025年9月 4日 (木)

R・シュトラウス 家庭交響曲 デ・ワールト指揮

Tahara

日本人の命、ともいうべき「お米」。

今年ほど、お米が大切と思った年はないです。

いま住む場所の近くの市の郊外は豊かな実りの季節を前に、穂は生き生きとしてました。
水に恵まれた場所です。

ちょっとした試み、記事をもっと書いてみようと思った。
最盛期は毎日のようにブログを書いてた。
いっとき休止もしたし、blogはもう終わったコンテンツとも言われるようになった。

誰でもが発信できる世の中、そしてそれらを含め、情報やコンテンツは短いものが好まれる。
ありあまる情報の洪水、すべての情報が次々に流れ、それらは消費され、すぐに消えて新しいものに多くが飛びつき、また流れてゆく。
そんな時代になっている。

逆行してやろうとも思った。
自慢じゃないけど、忙しいから長いものは書けない。
なによりもありあまる音源の山、未聴の山、それでもまだ入手しなくては気が済まないサガ。
聴いたものを記録に残さないと、死んでも死にきれない

Symphony-domestica-waart

  R・シュトラウス 家庭交響曲 op.53

    エド・デ・ワールト指揮 ミネソタ管弦楽団

                     (1990 @ミネアポリス)

ジャケット画像はネットで拝借のヴァージンレーベルのオリジナル。
手持ちは、同じコンビでのアルプス交響曲やティルとの組み合わせの2枚組のお得盤。

現在84歳の最円熟期にあるエド・デ・ワールトは、2024年に突然に引退表明。
N響でその指揮ぶりに接したことも懐かしく、欧米豪亜の文字通り世界中のオーケストラを指揮し、指導してきた名匠の引退の報はとても寂しい思いをいだくのでした。
若い音楽家の台頭とともに、静かに去るベテラン。

オーケストラビルダーとも呼ばれたデ・ワールトは最高のオペラ指揮者でもあります。
明快な音楽造りとともに、構成力確かに劇的な流れも失わないワールトは、シュトラウスとワーグナーの名手でもあった。

マリナーのあとミネソタ管の指揮者を86~95年まで務めたその間の録音。
ミネソタ管のブラスセクションが実に見事で鮮やか。
アメリカのオーケストラの明るさとはまた一線を画した落ち着きあるサウンドは、ワールトの指揮のゆえか。
シュトラウスの描き分けた細やかな人物描写や家庭の悲喜こもごもの事象など、思わずニンマリしてしまう巧さもある。
全体に爽やかさが一貫しているのもワールトの音楽性。
これがコンセルトヘボウだったら・・・という叶わぬ思いは抱かぬとしよう。
最後の愛情あふれる大団円では、心からの解放感と感動を味わうことになる。

ずっとあとに、シュトラウスが夫婦、子供、家族、家庭、女性にまつわるオペラを書くことになる。
自身かわらぬテーマであったことが微笑ましくもある。
そのオペラは、「影のない女」「インテルメッツォ」「無口な女」。

ほんとによく書けてる。
過去記事から

第1楽章:快活な主人の旋律ではじまり、家庭の人物がまず紹介される。
第2楽章:子供と両親、子供は母親の子守歌で寝てしまう。幸せな優しい様子。
第3楽章:夫婦の愛情、夜であります。熱く甘味なり~
第4楽章:子供が元気に起きてくる。夫婦喧嘩は激しいフーガ。子はかすがい、仲直り。

この曲の愛聴盤は、カラヤン、プレヴィン、マゼール(旧)、メータ(旧)、サヴァリッシュであります。
演奏会ではプレヴィンでしか聴いたことないので、神奈川フィルで是非やって欲しい。

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2025年5月24日 (土)

R・シュトラウス 「町人貴族」 マリナー指揮

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花の便りとしては遅きに失した感ありますが、ネモフィラとチューリップ。

今年の春は寒暖の差が日々激しく、あれよあれよという間に終わってしまった。

晴れの日にうまく行動できる日がなかったりで、季節の花めぐりも不発に・・・

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ブルーとチューリップの白、さわやかな色合いに癒されました。

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  R・シュトラウス 組曲「町人貴族」 op.60

    サー・ネヴィル・マリナー指揮

 アカデミー・オブ・セント・マーテイン・イン・ザ・フィールズ

   (1955.7 @セント・ジョンズ・スミス・スクゥエア、ロンドン)  

静岡で観劇した「ナクソス島のアリアドネ」の余韻がずっと継続していて、手持ちの音源をとっかえひっかえ聴いていました。
そして同時に、「アリアドネ」としてオペラ独立した元作の一部であった同じ作品番号60を持つ「町人貴族」も聴いてました。
アリアドネを聴きつつ、町人貴族も何度も聴くと、いままではあまり気にしていなかった同じ旋律が見つかったり、またシュトラウスの常套として、他作からの引用などもしっかりみつかり、面白い発見もありました。

作品59の「ばらの騎士」の続く6作目のオペラ作品も、ホフマンスタールとばらの騎士での演出担当マックス・ラインハルトとの協力で企画され、モリエールの戯曲に基づくリュリのコメディ・バレエをベースに編曲や新曲の音楽をつけて劇音楽とし、くわえて悲劇とドタバタ劇を融合させた劇中劇とで「町人貴族」という大作を作り上げた。
そうして1912年に初演はされたものの、構成にやはり無理もあり成功とはいえなかった。

その後、「ヨゼフの物語」や「影のない女」を経て、劇中劇を独立させ、ドタバタの部分をプロローグとしてグレートアップさせた「ナクソス島のアリアドネ」を1916年に初演。
一方の残された「町人貴族」の劇音楽部分は、これもまた手を入れて独立の劇付随音楽作品として規模を拡大して1918年に初演。
さらにここから9曲を選びだして、組曲「町人貴族」が編み出され1920年に初演。
いまでは組曲版しか聴かれることがないかもしれない。
ちなみに、初稿の全曲録音のケント・ナガノ盤はまだ聴いたことがないので、こちらは自身の課題といたしましょう。

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成り上がりものの金持ちジュールダンを風刺した物語。
音楽や舞踏、剣術や哲学まで、貴族としての素養をつけるべく毎日毎晩金にものをいわせて励んでいるものの、まったく身に着かず状態しない。
クレオントという青年が、このジュールダンの娘のリュスィルと愛し合う仲になるが、彼は貴族ではないので、それを理由に結婚は許されず。
そこで一計を案じ、トルコの王子になりすますことになり、めでたくリュスィルと結婚してしまう・・・という他愛のないオハナシ。

①序曲(町人貴族としてのジュールダン、滑稽さと優美さ)
②メヌエット(ダンスのおけいこ中)
③剣術の先生(おおげさな身振りと緊迫感)
④仕立て屋の入場と踊り
⑤リュリのメヌエット(リュリの原曲の編曲)
⑥クーラント(宴会のお開きはカノン風)
⑦クレオントの登場(トルコ王子になりすましてリュリの原曲も活かし、異国情緒も)
⑧2幕前奏曲(ジュールダンも恋心、公爵夫人とその恋人を美しく描く)
⑨饗宴(ジュールダン主催の大宴会、食卓の音楽に料理人たちの踊り)

組曲で抜粋されたので、ストーリー性はなく脈連もない感じだが、いかにもシュトラウスらしい匠の描写性と優美さ、洒脱さあふれる音楽。
37人編成の室内オケは、アリアドネの方と同じく、ともかく軽やかさや晴朗さへのこだわりがあり、歌がないぶん、BGM風に流しつつ、わたしはPC作業など、実に軽やかにキーボード操作も進んだものです。

①のオーボエで奏でられる優美な旋律は、オペラのプロローグで作曲家が歌うモノローグに出てくる。
②のメヌエットの軽やかなフルートも、同じくプロローグで舞踏教師の登場シーンで出てきます。
さらに面白いのは、⑨の宴会での多彩な次々に供される料理の描写に、「ラインの黄金」のラインに娘たちのいる河の流れで鮭料理、自作の「ドン・キホーテ」で羊料理を、「ばらの騎士」の逢瀬の朝の鳥のさえずりで鳥レシピ(!)・・・など、ほんと面白い。

音源は実はあまり持ってませんで、マリナー盤が録音もよく、いつものマリナー&アカデミーのように、さらりとして軽快な演奏なので、何度も聴くのに過不足なくよろしい。
もっと歌いこんで巧く聴かせることもできるのでしょうが、そこはマリナー卿、紳士的な佇まいを崩さず遊び心は抑え気味にでもノーブルさをさりげなく引き出していて心地よい。

あとはテンシュテットとライナー(抜粋)を持ってるのみですが、実はエアチェックしたサヴァリッシュとウィーンフィルのライブがとても素晴らしい演奏なんです。
この作品を演奏するのに、やはりウィーンフィルは最適で、オケの柔和な響きとサヴァリッシュの清新な指揮とがうまくマッチしていて、アリアドネでもベームのあとを受けて指揮をしていたとおり、シュトラウスの持つ地中海的なサウンドを引き出す妙味を味わえます。

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5月の最終週のお天気は連日の曇空や雨予報。

梅雨の訪れも早そうで、季節の巡りはどんどん早くなり、もう若くない自分は身体を慣らすのについていけない。

みなさまも体調管理に気をつけて、やってくる厳しい夏に備えてくださいまし。

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2025年5月14日 (水)

R・シュトラウス 「ナクソス島のアリアドネ」静岡音楽館AOI

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久しぶりの静岡。
ホールロビーからの富士。
シュトラウスのオペラを演るとあっては行かなくてはなるまい。
都心を離れ、神奈川にいるので、思えば静岡は近い。
新幹線を使わずとも手軽に行けてしまうので、行きは在来線でのんびり、帰りは心地よき疲れに浸りながら新幹線。

駅前にある音楽ホール、静岡音楽館AOIの30周年記念公演、「ナクソスのアリアドネ」演奏会形式上演。
この公演に気が付いたのはそんな前でなく、ホールに電話をしたときは残りわずかで、早々にチケットは完売。

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R・シュトラウス 歌劇「ナクソス島のアリアドネ」op.60

  アリアドネ:田崎 尚美     バッカス:宮里 直樹
  ツェルビネッタ:森野 美咲   執事長:小森 輝彦 
      作曲家:山下 裕賀       音楽教師:池内 響   
  舞踏教師:澤武 紀行      従僕:岸本 大
  ナイヤーデ:守谷 由香     ドリヤーデ:山際 きみ佳
  エコー:隠岐 彩夏       ハルレキン:黒田 祐貴
  ブリゲッラ:小堀 勇介     士官、スカラムッチョ:伊藤 達人
  かつら師、トゥルファルディン:志村 文彦   

       沼尻 竜典 指揮 静岡祝祭管弦楽団

        演出:彌六

        (2025.5.11 @静岡音楽館AOI)

通算4度目のアリアドネの実演観劇。
初めて訪れた静岡音楽館、シューボックス型の館内装飾もそれはステキなホールで、客素618人というところもほどよい規模。
そしてその音響の良さも定評あるところで、今回のこのホールにしては最大規模の作品を上演するにあたり、聴き手からするとすべてがちょうどよろしく、シュトラウスの精妙に張り巡らされた緻密な音楽が、まさに手に取るように見え、聴こえたのです。

序幕のドタバタ風喜劇、劇中劇たるオペラと性格の異なる2部を簡単な演技でコンサート形式で行うことは、ややこしさを回避しシンプルさが増すことで、これまたシュトラウスの音楽の良さが引立つというもの。
都合2時間30分、満員御礼の客席は集中力高く、歌と演技、オーケストラの妙技に聴き入った。
ユーモアを交えた簡潔な演出は、誰にでもわかりやすく、左右の袖から出入りする動きばかりでなく、ときに2階からの動きもあり、空間利用も巧みであり、限られた制約のなかで最適なものでした。

初めて買ったアリアドネの音盤は、ケンペとドレスデンのレコードアカデミー賞受賞の名盤で、当時のそれは豪華極まりない歌手を集めた贅沢なものだった。
今回の静岡キャストは、いま日本でアリアドネをやるならこの歌手たち、という最適かつ隅から隅まで豪華なメンバーを選りすぐったもの。

その歌手たちが予想以上に素晴らしかった。
声の威力と幅広い表現力で圧倒的な存在感を示したのが田崎さんのタイトルロール。
沼尻さんとのサロメ、ヴェルレク、そのほか多く聴いてきたけれど、コンパクトなホールとうこともあり、その強さと繊細さを兼ね備えた声が耳にストレートに響きました。
古くは12年前に同じ沼尻指揮では、ワルキューレたちのひとりだった。

相方のバッカスの宮里さんも驚きの力強さとよく通る声。
この方も昨秋のヴェルレクで輝かしいテノールで聴いたばかり、エリックも田崎さんとオランダ人で予定されていて、明るめの声でのワーグナーも次は聴いてみたい。

元気いっぱいのツェルビネッタを歌った森野さん。
小柄で才気煥発といった、この役柄にぴったりのルックスと軽やかで透明感あふれるお声はチャーミングそのもの。
意欲が空転してしまうスレスレのところも、実にライブ感あってよろしく、見事な声の技巧に感心しながらも、微笑ましかった。
ウィーン在住中とのこと、これからの日本のモーツァルトやシュトラウスの舞台になくてはならない存在となるでしょう。

序幕でキリリとした作曲家を歌った山下さん、この方が実に素晴らしく、生真面目なこの役を強い声で歌いあげたほか、ツェルビネッタの登場で惑わされるシュトラウスならではズボン役としても最高の歌い手かと思いましたね。
会場で大喝采を受けてましたから、みなさん同じ思いで聴いていたことでしょう。
すでに実績をあげてる方ですが、きっとステキなオクタヴィアンに!
昨年はバーミンガムでヤマカズの蝶々さんに出演、チェネレントラ、今年は群響でカルメンなど、楽しみな歌手をまた発見。

語り役の執事長に小森さんという贅沢な布陣。
氏の舞台は数々観てきましたが、ウォータンを歌うバスバリトンが執事長とはまた妙なる配役の妙。
完璧で美しいドイツ語の語感、かたくなさを尊厳な雰囲気でかもし出すベテランの味。さすがでした

このシュトラウスの作品は、とてもよく書かれていて、古典帰りをした明朗な音楽造りは、その構成にもよく出てます。
喝采を受けるアリアが配されているほか、愉快な重唱や、美しいハーモニーにあふれた重唱など、ともかくどこもかしこも歌の聴きどころあふれている。
3人の精たちの透明感あふれる歌声は、それぞれも素敵な声でしたが3人の得も言われぬ声の重なり合いは、さながら夢心地になる気分でした。
守谷、山際、隠岐といった3人の実力派、それぞれにまた聴いてみたいお声でしたね。

あと男声の方もチームワーク抜群の愉快な仲間を楽しく歌い、演じてました。
いちばん聴きどころの多いハルレキンを歌った黒田さんのマイルドで柔らかなバリトンが心地よく、シュトラウスが付けたステキなメロディを堪能しましたし、お隣の女性のお客さんも体を揺らすようにして気持ちよさそうに聴いてましたよ。
ベルカントに秀でた小堀さんの発声の明るいブリゲッラ、影のない女で嫌なヤツに成り下がってしまっていた皇帝役で記憶に新しい伊藤さんのもったいないくらいのスカラムッチョ、そしてもう10年以上前からいろんな役柄でいつも聴いてきた志村さん、失礼ながら役柄にぴったりフィットのかつら師とトゥルファルディンでした。

池内さんの音楽教師、序幕での執事長のむちゃぶりを最初に受けとめ悩む役柄ではありますが、役回りとしては案外に難しい存在を存外の美声バリトンで聴かせてくれました。
キンキラの衣装をまとった舞踏教師の澤武さん、音楽教師と作曲家と相対する役柄ですが、まさに軽やかに、町人貴族による短い歌も楽しく軽やかに歌いました。
思えば昨年のばらの騎士で、軽妙なヴァルツァツキを聴いたんだ。
作曲家と絡む役の従僕の岸本さん、どこかで聞いた名前と思ったら、神奈川フィルの合唱のまとめ役の方でした。

ともかく、みんながすばらしく完璧だった歌手のみなさん、もっと何回もやって、実際の舞台上演も期待したくなるチームです。
その歌手たちを束ねる沼尻さんの指揮。
このマエストロの元で、今回の歌手のみなさんは何度も歌っていて気心も知れているはずで、まさにオペラ職人のような巧みな指揮できっと歌いやすかったことでしょう。
序幕とオペラ部分との性格と音楽の違いも明確にさせていたし、オペラでのシュトラウスが描きだした地中海的な明快・晴朗な世界を引き出すことに成功していたと思う。
ともかく、すべてが的確なオーケストラ。
なんといっても水谷&小林という新旧の東響のコンマスを据えた38名の名人級の室内オーケストラは、各オーケストラからはせ参じたつわものばかりのメンバーで、見たことあるお姿ばかり。
ピットに入った上演しか経験がなかったので、もちろんスコアなんか見たことないので、弦楽セクションがおのおのに、ソロがちょこちょこあったり、ハープが2台もあってやたらと存在感があったり、ピアノやチェレスタがシュトラウスならではの透明感をそのサウンドに特長を与えているところだったり、ともかくオーケストラを見物するというコンサート形式ならではの楽しみも味わい尽くしましたよ。

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こうした果敢な上演を企画してくれた静岡音楽館さんに感謝。
素晴らしいホールを見出した喜びも。
こうした室内規模のオペラの公演を今後も期待したいです。
バロックオペラや、ブリテンなどの近代もの、ほかにはない上演を是非。

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開演のまえに、食事を兼ねて市内散策。

静岡市は大道芸の街、ちょうど「あおばフェス」をやってまして、あちこちで出店やパフォーマンスが繰り広げられてましたよ。
静岡市に降り立ったのは実は15年ぶりぐらいで、その前まではともかく毎月のように仕事で行って、飲んで、食べて、泊まってました。

美味しいものだらけ、夜も賑やかだし、みんな明るい人々ばかり、そんな「しぞーか」が好きです。

なんといっても、ワタクシも父の仕事の関係ではあったけれど、静岡県生まれなんですし。

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こちらもホールからの遠景。

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2024年12月21日 (土)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ノット&東響

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サントリーホール、カラヤン広場のクリスマスツリー。

この日は、ジョナサン・ノットと東京交響楽団のR・シュトラウスのオペラシリーズ第3弾にして最終回、「ばらの騎士」を観劇。

17時に開演して、20分休憩を2回はさんで、再びこのツリーの横を通ってホールを出たのは21時30分になってました。
カットなしの完全版で、コンサート形式での簡易なオペラ上演は、これまでの2作と同じくして、サー・トーマス・サレンの演出監修によるもの。

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これまでの2作もタイトルロールに世界ナンバーワンの歌手を据え、他役も超一流で固めた、まさにノット監督の人脈をフルに活かした配役による上演でした。
サロメにグリゴリアン、エレクトラにガーキーと、いずれもいまでもその歌声は耳にこびりついている。
今回の配役も実に素晴らしい布陣です。

結論から申しますと、多く観劇してきた「ばらの騎士」の上演・演奏のなかで、いちばん鮮烈な感銘を受けることとなりました。

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 R・シュトラウス 「ばらの騎士」

  マルシャリン:ミア・パーション 
  オクタヴィアン:カトリオーナ・モリソン
  ゾフィー:エルザ・ブノワ         
  オックス男爵 :アルベルト・ペーゼンドルファー
  ファーニナル:マルクス・アイヒェ 
  マリアンネ、帽子屋:渡邊 仁美
  ヴァルツァッキ:澤武 紀行
  アンニーナ:中島 郁子

  ヴァルツァッキ:デイヴィツト・ソー    
  歌手:村上 公太

    警部、公証人:河野 鉄平
  執事(元帥家)、料理屋の主人:高梨 英次郎
  動物売り、執事(ファーニナル家):下村 将太
  3人の孤児:田崎 美香、松本 真代、田村 由貴絵
  モハメッド役:越津 克充

 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団

   演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2024.12.13 @サントリーホール)
  

満席のホール、いつものように颯爽とあらわれ、さっと指揮を始めると、高揚感たっぷりのホルンで素晴らしい音楽ドラマの幕が開く。
左手に二人掛けソファ、右手はテーブルに2脚の椅子、ステージ右奥には衝立。
これだけが舞台装置で、歌手たちはこれらの椅子に腰かけつつも、基本はほとんど立ちながらの演技で歌う。

「ばらの騎士」は、あらゆるオペラの中で、5指に入るくらいに好きで、その舞台もたくさん見ておりますが久々の実演。
かつて「ばら戦争」といわれ、短期間に「ばらの騎士」がいくつも上演されたときがあり、まだ若かった自分、いろんな意味でのゆとりもあり、そのほとんどを観劇し、来る日も来る日も「ばらの騎士」の音楽が頭のなかを渦巻いていたものでした。
2007年のこと、あれからもう17年が経過し、脳裏を「ばらの騎士」がよぎり続ける日々がまた再び来ようとは・・・・

素晴らしいオーケストラ、素晴らしい歌手たち、集中力の高い聴衆、これらすべてが完璧に決まりました。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サロメとエレクトラで、巨大編成のオーケストラを存分に鳴らしまくり、ワーグナーの延長とその先にあるシュトラウス・サウンドを堪能させてくれたノットと東響。
エレクトラからわずか2年後の1910年の「ばらの騎士」は、歴史絵巻の素材から、18世紀に時代を移し、音楽は、軽やかで透明感あふれるモーツァルトを意識した世界へと変貌。
ホフマンスタールとの膨大な往復書簡のなかで述べているように、「フィガロの結婚」を前提としても書いている。
そのホフマンスタールも、メロディによる台本の拘束は、モーツァルト的なものとして好ましく、我慢しがたいワーグナー流の際限のない、愛の咆哮からの離脱を見る思い、だと書いてました。
ワーグナー好きの自分からすると、なにもそこまで言わなくても、とホフマンスタールに言いたくはなりますがね・・・
しかしシュトラウスは台本に熱中し、台本が完成するより先に作曲を進めてしまったくらいに打込んだ。

モーツァルトの時代には存在しなかったワルツが随所に散りばめられ、それはこのオペラの大衆性をも呼び起こすことにもなりますが、その数々のワルツをふるいつきたくなるくらいに、まるで羽毛のように軽やかに演奏したのがクライバー、ゴージャスに演奏したのがカラヤン。
しかし、ノットはワルツでもそのように、ワルツばかりが突出してしまうことを避けるかのように、シュトラウスが緻密に張り巡らせた音楽の流れのなかのひとコマとして指揮していたように思う。
うつろいゆくシュトラウスの音楽の流れをあくまで自然体で、流れるように聴かせてくれ、近くで歌う歌手たちとのコンタクトもとりつつ、歌い手にとっても呼吸感ゆたかな安心できるオーケストラ。
シュトラウスの千変万化する音楽の表情を、ノットは巧まずして押さえ、東響から導きだしていたと思う。
その東京交響楽団が、先日の影のない女でも痛感したように、シュトラウスの煌めくサウンドと名技性とを完璧に演奏しきっていて、我が国最高のシュトラウスオケと確信。
是非にもCD化して世界に広めて欲しい。
 多くの聴き手と同じように、3幕での3重唱の高揚感と美しさには、美音が降りそそぐようで、あまりの素晴らしさに涙が頬を伝うのを止められず・・・
音源で聴いていると、女声3人の歌声でスピーカーがビリついてしまう録音もあるくらいだが、ライブでの演奏ではそんな不安はこれっぽちもなく、まさに心の底から堪能しました。

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5人の主要歌手たち、脇を固めた日本人歌手たち、いずれの皆様、賛辞の言葉を尽くしてもやむことができないほどに素晴らしかった。

驚きの素敵な歌唱とその立ち居振る舞いをみせてくれたミア・パーションのマルシャリン。
モーツァルト歌手としての実績のみが頭にあり、こんなに大人のそして優しさと哀しみを表出できる歌手だったとは!
声量も充分で、ホールに響き渡るその澄み切った声は、北欧の歌手ならではで、クセのない揺れのほとんどないクリアボイスで歌われる1幕のモノローグには、もう涙を禁じえなかった。
これでドイツ語のディクションにさらなる厳しさも加わったらより完璧。
いまこれを書きつつ、外をみると風に散る枯葉が舞ってました。
彼女の歌とノットの作りだしたあの儚い場面を思い出し、そしてこれまで観てきたマルシャリンたちの1幕の幕切れのシーンをも回顧して、なんとも言えない気持ちになってきたのでした。。。
ゾフィーが持ち役だった彼女が、こうしてマルシャリンに成長してきたその姿は、まるでかつてのルチア・ポップを思い起こす。
もしかしたら、きっとマドレーヌも素晴らしく歌ってくれるのでは・・・

会場を驚かせた歌手、オクタヴィアンのモリソンは、この日がオクタヴィアンの初ロールだということ。
豊かな声量と安定感あるメゾの領域は、これまた驚きの連続でした。
これで軽やかさが加わったたら最強のオクタヴィアンになるかもです。
気になって手持ちの録音音源を調べたら、ピッツバーグでモツレク、BBCでスマイスのミサ曲などを歌ってました。
フリッカも歌い始めたようなので、マーラーの諸曲も含めて、今後期待大の歌手です。

対するゾフィーのフランスのソプラノ、ブノワも実にステキでして、そのリリカルな声は、薔薇の献呈の場では陶酔境に誘われるほど。
まさにこれが決り、最終シーンでもうっとりさせていただきました。
一方で、現代っ娘的な意思の強さも歌いだす強い声もあり、幅広いレパートリーをもつこともうなづけます。
オクタヴィアンとゾフィーの2幕におけるヴァルツァッキ達の踏込み前までの2重唱、このオペラでもっとも好きな音楽のひとつですが、これもまた天国級の美しさなのでした。

大柄なオーストリアのバス、存在感たっぷりのペーゼンドルファー。
ハーゲン役として音源や映像でいくつか聴いていたが、初の実演は、深いバスでありながら小回りの利く小気味よさもありつつ、上から下までよく伸びるその声、実に美声で破綻なく安心の2幕のエンディングでしたね。

多くの録音やバイロイトのライブでもおなじみのアイフェのファーニナル。
暖かく人のよさのにじみ出たアイフェのバリトンは、現在、最高のウォルフラムやグンターだと思いますが、貪欲な市民階級の役柄を歌わせても、どこか憎めず、いい人オジサンにしてしまう。
性急なまでに貴族へのステップアップを狙い、一目を気にする小人物であるが、憎めない、最後は娘の幸せを願う父親に。
そんなファーニナルを見事に歌い演じるアイフェでした。

せんだって、ヴェルデイのレクイエムで見事なソロを聴いた中島さんのアンニーナ、ここでも充分に存在感を示してまして、小回り効く澤武さんのヴァルツァッキとともに、狂言回しとして、このオペラになくてはならない役柄であることを認識できました。
テノール歌手の村上さんも、驚きの渾身の美声で、ステージ上の登場人物たちもまさに聞惚れるほど。
刑事コロンボのようなコートをまとった警部の河野さんも、役柄にはまった歌唱と演技で、オクタヴィアンの投げる衣装を受け取る姿もまた楽しい場面でした。
そしてもったいないくらいの渡邊仁美さんのマリアンネも、舞台を引き締める役割をそのお姿でも担いました。

モーツァルトシリーズからシュトラウスまで、演技指導の名歌手トーマス・アレン卿の手際のいい仕事は、制約の多いコンサートスタイルにおいても、簡潔で納得感あるものです。
これだけ有名なオペラになると、大方の場面は、こちらの想像力で補うことができるからこれでいいのです。
3幕の悪戯の仕掛けなど、客席も使ってみた方がおもしろいかも、とは思ったりもしましたが、登場人物たちが、指揮者やオケの奏者たちに絡んだりする場面などユーモアたっぷり。
モハメド君のハンカチ拾いも、定番通りでよかったです。

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歳を経た自分が、元帥夫人に共感し、思い入れも以前にもまして深めてしいます。
日々揺れ動く気持ち。
自分を見つめることで、いまさらに時間の経過に気付く。
自戒と諦念、そして、まだまだだと、あらたな道へと踏み出す勇気を持つべしとも思う自分。


こんな儚い気持ちを感じさせてくれるドラマに、シュトラウスはなんてすばらしい音楽をつけてくれたものだろうか。
シュトラウス晩年の「カプリッチョ」にも人生の岐路に差し掛かった自分は、格段に思い入れを感じる今日この頃。。。

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過去記事 舞台観劇

 「新国立劇場 シュナイダー指揮」

 「チューリヒ歌劇場 W・メスト指揮」

 「ドレスデン国立劇場 ルイージ指揮」

 「県民ホール 神奈川フィル 沼尻 竜典指揮」

 「新日フィル コンサート形式 アルミンク指揮」

 「二期会 ヴァイグレ指揮」

過去記事 音源・映像

 「バーンスタイン&ウィーンフィル」
 
 「ドホナーニ&ウィーンフィル」

 「クライバー&バイエルン国立歌劇場」

 「ギブソン&スコティッシュ、デルネッシュ」

 「ビシュコフ&ウィーンフィル」

 「クライバー ミュンヘンDVD」

 「ラトル&メトロポリタンオペラ」

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手持ちの映像から、ガーシントン・オペラでのパーションの元帥夫人。
この演出がお洒落でセンスあふれるものでした。
数回目のシュトラウスのオペラ全作シリーズ、次は「ばらの騎士」を予定してまして、そこで音源や映像の数々をレビューしたいと思います。

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2024年11月 6日 (水)

R・シュトラウス 「インテルメッツォ」交響的間奏曲

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文化の日は、ニッポンの「菊」がお似合い。

亡父が菊や盆栽に、かなり凝っていくつもの鉢植えを作成せいていたけれど、無精なワタクシは、それをまとも受けつぐことができず、ことごとく枯らしてしまいました・・・・

いまとなっては虚しい数十年であります。

R・シュトラウスの数回目のオペラ全曲聴き、ブログ化としては2度目のものが進行中ですが、次は「ばらの騎士」で止まってます。
年末のノット&東響をひとつのピークに致したく、そのときにまとめ上げたいと考えてます。

「インテルメッツォ」を取り上げるのはまだ先のことになりますが、夫婦や家庭のことを描いたシュトラスお得意のモティーフとなるこのオペラ。
先日に観劇した「影のない女」(1917)の次のオペラ作品にあたりますが、「インテルメッツォ」は、1923年で、少し間があきます。
このふたつのオペラには、夫婦愛にまつわる内容で、さらにインテルメッツォではすでに成した子供が可愛い役回りを演じてます。

いまだにモヤモヤ感を引きずる「コンヴィチュニーとバルツの影のない女」。
その気分を明るくするためにも、「インテルメッツォ」の素敵な間奏曲を集めた幻想曲を秋晴れのもと聴きます。

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 R・シュトラウス 「インテルメッツォ」交響的間奏曲

   ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団

            (1961 @ミュンヘン)

全2幕のオペラに散りばめられた前奏曲と間奏曲。
これらを抜き出し、4つの交響的な作品に仕立てたもの。
オペラの副題には、「交響的間奏曲付きの2幕の市民喜劇」と書かれていて、オペラ全体そのものがシンフォニックな作りとも目されます。

シュトラウス自身の家庭をありのままに描いたようなオペラで、家庭交響曲と同じくするものです。
主人公が楽長さんで、作曲者そのもの。
嫉妬深いその妻は、シュトラウスの妻パウリーネ。
パパの擁護者、可愛い息子は、そのままシュトラウスの愛息フランツ。


口うるさく、姐御肌だった妻パウリーネ。
よく悪妻ともいわれるが、ただでさえ、勤勉で日々同じペースの生活をし、かつ天才肌だったシュトラウスの尻をたたいたので、こんなにシュトラウスは多作だったとも冗談のように言われたりもしますね。

しかしシュトラウスは、その反動で、妻や家庭も音楽として風刺して描くことができた、そんなしたたかさもあり、なんでも音楽にできちゃうというシュトラウスならではなのです。
妻にない多彩な女性の姿を台本作者と手を携えて描きつくすというシュトラウスのオペラの素材選びと音楽造り。
いろんな女性を描きたかったシュトラウスにとって妻のパウリーネの存在は思いのほか大きかったと思います。


この「インテルメッツォ」は、主人公が楽長で、作曲者そのもの。嫉妬深い妻は、パウリーネ。パパの擁護者、可愛い息子は、そのままシュトラウスの愛息フランツ。

全曲盤の細かく刻まれたトラックを見てみると、めまぐるしく変わる場のつなぎに、9つのオーケストラ間奏があります。
その間奏を見事につなぎ合わせて4つの部分に作り上げています。

 ①出発前の騒動とワルツの情景

 ②暖炉の前の夢

 ③カードゲームのテーブルで

 ④更に元気な決断


かまびすしい前奏曲、瀟洒なワルツや、静かで感動的な平和な家庭の雰囲気、明るく楽しく快活な大団円。
シュトラウス好きを決して裏切らない素敵な作品です。

今日は往年のカイルベルト盤を聴きましたが、61年録音とは思えない録音のよさ、暖かな音色のオーケストラで木質を感じさせる抜群のシュトラウスサウンドです。
この2年後にカイルベルトは「影のない女」と「マイスタージンガー」でシュターツオーパーの再開上演を指揮しました。
さらに同年63年に、ウィーンで「インテルメッツォ」を指揮していて、そのときのライブも聴くことができます。
次のオペラでのインテルメッツォ記事は、サヴァリッシュ盤をすでに取り上げたので、このカイルベルト盤にしようかと思います。

こちらの交響的間奏曲の音源はたくさん持ってます。
メータ、テイト、プレヴィン、ヤンソンス、ウェルザー・メスト、A・デイヴィスなどなど。

ともかく、聴いて幸せな気分になれる晴朗なシュトラウスの音楽はステキなのであります。

やっぱり、「コンヴィチュニー&バルツの影のない女」はいかんな!

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2024年10月28日 (月)

R・シュトラウス 「影のない女」 二期会公演

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2022年に予定されながら、流行り病の影響で流れた二期会の「影のない女」
クラウドファンディングや関係者の尽力の積み重ねで、ついに上演のはこびに。

その全オペラを楽しみ、愛するわたくし、シュトラウスの初オペラ体験がこの「影のない女」でした。
忘れもしない、ハンブルク国立歌劇場の来日公演。
1984年の5月7日、日本初演の初日から3日後で、このオペラはその2回のみの上演でした。
場所は同じく東京文化会館で、大切にしているチケットを確認したら、1階10列24番。
今回の二期会上演の席は、よく見たらその席のほぼすぐ近く。

40年を経過し、ワタクシも歳を経ましたが、あのときの感動はいまでも鮮やかに覚えてます。
ドホナーニの指揮、皇后:リザネック、皇帝:R・シェンク、乳母:デルネッシュ、バラクの妻:G・ジョーンズ、バラク:ネンドヴィヒ、、こんなキラ星のようなキャストで、その素晴らしい声の饗宴に痺れまくり。
なかでも3幕で、きらめく泉が皇后の顔にあたり、その頬が光るなか、「Ich will nicht・・・」と苦しみつつも発するリザネックに背筋がゾクゾクするような感動を覚えました。

このオペラのひとつの聴きどころ・見どころであるそのシーンは、今回どうなるのか・・・

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  R・シュトラウス 「影のない女」

     皇帝 :伊達 達人         
     皇后 :冨平 安希子

         乳母 :藤井 麻美     
              伝令使:友清 崇
      〃 :高田 智士
      〃 :宮城島 康
     若い男:高柳 圭
         鷹の声:宮地 江奈
     バラク:大沼 徹
     バラクの妻:板波 利加 
             バラクの兄弟:児玉 和弘
                      〃        岩田 健示
         〃     水島 正樹


    アレホ・ペレス指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団
  
   演出:ペーター・コンヴィチュニー
   舞台美術:ヨハネス・ライアカー
   照明:グゥイド・ペツォルト
   ドラマトゥルク:ベッティーナ・バルツ

     (2024.10.26 @東京文化会館)

コンヴィチュニーだから、普通の演出じゃなくて、いろんな仕掛けをかましてくるだろうなと思っていたし、これまで観劇してきたコンヴィチュニー演出は4作あり、正直いずれも楽しんだし、面白かった。
また20年前ぐらい、まだ読み替え演出に嫌悪感のあった自分に、その楽しみを植え付けてくれたのもコンヴィチュニー演出なのだ。

しかし、今回はどうしたものだろう。

できるだけ情報をシャットアウトして、公演に挑むのが常であるが、二期会のSNSや出演者たちの「X」が目に入るようになり、気になって公式HPにアクセスして確認してみた。
カットと筋立ての読み替え、場の入替えなどがあらかじめ、あらすじ概要とともに書かれていた。
それを読んだとき、カットがあることに正直がっかりしたし、筋の内容も読んで暗澹たる気分になった。
でも実際の舞台に接すれば、コンヴィチュニー演出のことだ、面白いし納得感もあるに違いないという思いで上野に向かった。

今回のコンヴィチュニーの「影のない女」は、これまで好意的だった私としては、「No」と言っておきたい。
読み替え自体はそれは問題ではなく、でも今回のは好きじゃなかったけれど、やはりシュトラウス&ホフマンスタールの「原作」と「音楽」にあまりに手を入れすぎで、それはもう私には冒涜クラスのものに思われた。
「原作」の最終場面は正直言って取ってつけたようなエンディングで、アリアドネにもそんな風に感じることもあるが、長いオペラをずっと聴いてきて訪れる予定調和の平和は、なによりも安心感や安らぎを与えるのだ。
さらに、私がいつもこのオペラでこの皇后はどう歌うんだろうと注目する「否定」の場面。
あそこを冨平さんの皇后で聴きたかったし、観たかった。
そんな風な楽しみを奪われたと思う観客は多かったのではないだろうか。

忘れないうちに、どこをカットされたか、どうつながれたかを自分でまとめて、こんなの作りました。
クリックすると別画面で拡大表示します。
間違っていたらすいません。
背景は、上野駅で見かけたパンダの絵です。
たぶん夫婦のパンダですwww

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こうなったらユーモアで封じるしかないか。

「影」は北欧伝説によると「多産」の象徴、すなわち「子」を意味し、霊魂の影じたいが肉体とも結びつくとされ、影を売る行為は、魂を売り渡してしまうという意味にも通じる。(ハンブルクオペラのときのパンフから)。
しかし、そんな高尚なところはみじんもなく、二組の夫婦の子をめぐる思いと抗争のみがここにあり。
夫婦は相手を入れ替えたらめでたく子ができてしまった。

子ができなかったのは、夫婦どっちが悪い?
「種のない男」「豊かな畑のない女」どっちだ・・・いやどっちでもなく、なんのことはない、相手を変えたらできちゃった。
こんなインモラルなのありか、会場には中学生ぐらいの女子もいたぞ。

この書き換え構想を担ったドラマトゥルクのベッティーナ・バルツの書いた前置き、二期会HPでも読めます。

このオペラは現実の物語ではなく、象徴的な出来事を描いている。筋の通った物語ではなく、架空の二層の世界で演じられる悪夢のようなエピソードであり、そのルールはどこにも制定されておらず、理解不能である。人物、場所、ルールは、夢の中のように流動的で変化する。
このプロダクションでは、妻が夫に隷属することを賛美し、美化するような筋書きのない終幕のフィナーレを排除し、代わりに元の第2幕のシーンを最後に置く皮肉な場面で終わる。」

まさにこの前置き通りの想定でオペラは進行した。
常套的なカットをいれても3時間の作品が、今回は2時間40分に短縮。

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前の一覧にある通り、最終場面などはまったく演奏されず、幕という枠も排除し、場をばらばらにして交互にしたりして入れ替えてしまった。
夫婦を入れ違えてめでたく子ができたのもつかの間、暴力的な死の横溢するシーンで幕となった。

ちなみに、この演出でのエンディングシーンとなった2幕のラストは、わたくしは最初に影のない女を聴き馴染んだころ、めちゃくちゃ気にいって、初めて聴きエアチェックした75年のベームのザルツブルク上演を何度も聴いて、この激しくもダイナミックなシーンを指揮真似しながら興奮して楽しんだものだ。

しかし、今回の上演では、わたくしは意識することなく、このエンディングで幕が降りた瞬間「ブー」と叫んでいた。

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前段のバルツさんの書いたこの書き換えの意図を読んでみた。
正直、なにいってやがんだ・・という思いです。

「影のない女」の内容を家父長思考賛美、女性蔑視と断じ、「読み替えなしという選択肢はありえなかった。今日のわれわれが、道徳的に納得できる上演は読み替えによってよってのみ可能となる」としている。
「演出する私たちは、当時の男女の関係や問題を反映している芸術的な内容の部分を明らかにするために、このように手を加えることが必要だと考えている。この作品がなぜ、そんな手入れを必要とするほど、救いがたい出来損ないになってしまったかを検討してみたい」と書いている。
なぜに出来損ないなのか?
ホフマンスタールの台本が1911~19年にわたって何度も書き換えられ、「意味不明な童話的要素に満ちた悪趣味な混ぜ物になった。」
この作品は「子を産めない、あるいは産みたくないすべての女を。役立たずで下等な人間のくずと貶めるのが狙いだ」とホフマンスタールを断じている。
被害者はここに登場する作者さえ同情を寄せない女性の3人、加害者(男×2)は文字通り賛美される。
さらにバラクの弟たち、いまでは禁句となった障碍ある3人でさえ、男性であることからバラクの妻を蔑視していると。
こんな風に長々と書かれていて、しまいに、シュトラウスは「音楽と俳優のバランス」と言ったとおり、「歌手でなく俳優」と意識していた。
音楽ばかりでなく「演劇」もみたかったのだとシュトラウスの音楽をいじくったことの弁明をしているように感じた。

好意的にこの解釈を理解した人々からは、子供を産んでも断ざれてしまう女性ふたり、そのエンディングは、いまだに変わらない女性の立ち位置に対する猛烈な皮肉だったと評するだろう。

まあこういった議論がでて、賛否両論を呼ぶこと自体がコンヴィチュニー演出の意図でもあろう。
しかし、今回は、コンヴィチュニーがこのバルツ氏の書き換えた台本に乗ってしまったことは失敗だったと思う。
ここは日本だよ、ドイツじゃないし、男女は大昔から平等だし、ジェンダー指数なんて表面的なウソっぱちだい!
もう一回、この素晴らしいキャストとオケで、ちゃんとした演出で、演奏会形式でもいいからやり直して欲しい。
バラクの日本語のアドリブセリフ「ちゃんと台本通りやろうよ」だよう。

こんなところに不平等を見つけ出し、問題の顕在化をしてみせて、結果としてシュトラウスの素晴らしい音楽の一部を失くしてしまい、それを楽しみにしていた聴き手の心も消沈させてしまった。
始終、日本で上演されていて何度も接するオペラならまだしも、10年に1度クラスの上演機会のオペラで、これをやっちゃオシマイだよという気分です。
繰り返しますが読み替え演出は、わたしはぜんぜんOKだし、今回のピストルドンパチ、立ちんぼ、性描写などもがっかりはしても否定はしません。

舞台の詳しい様子は、今後書く気になったら記憶のある限り補足します。

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出演者の皆様を讃える大きな拍手とブラボー。
幕が降りた瞬間のブーのみで、わたくしは盛大な拍手をいたしました。
演出陣が出てきたらかましてやろうと待ってましたが出て来ず残念でした・・・・

こちらの歌手たちの皆さんについては、賛美しても尽くせない素晴らしさでした。

まず、皇后と乳母のふたり。
冨平さんはエンヒェンもルルもよかったが、今回は、あの演出でありながら、完全に役柄に没頭しての歌と演技。
その歌は涼やかな高音域が安定して美しかったし、音域の広い役柄なので、低い方の声にも哀しみが宿るような神々しさもありました。
二ールントの歌にもにたその歌唱、ドイツ語の発声も素敵でありました。
皇后との声の対比で万全だったのが乳母の藤井さん、明瞭ではっきりしたよく通る声で、一語一語がよく聴こえたし、ユーモラスな演技もその歌とともに印象的。
 バラクの妻役の板波さんの力ある声も際立っていて、バラクの大沼さんとの夫婦漫才のようなやり取りも楽しかったです。
その大沼さんのバラクの人の好さそうな声質の暖かなバリトンも実によかった。
かなフィルのサロメでのヨカナーンは歌う位置で損をしたイメージがあったけれど、背中でも演技するステキな、(うらやましい)役柄でしたねぇ。
 皇帝の伊達さんは、このヒロイックな役柄には軽すぎ・きれいごとすぎるように感じた。
確かに美声でクセのない声は素晴らしいが、今回の演出でのダーティに過ぎる存在もマイナスになってしまったのかもですが、ちょっと残念。
それにしても、なんであんな悪いヤツに仕立ててしまったんだろ・・・・
 伝令を歌った、前のコンヴィチュニー・サロメでヨカナーン役の友清さんを見出したのもうれしかった。
あと登場場面の多かった、まるきり鷹じゃない、可愛い夜鷹(?)となった宮地さんもリリカルなお声がよかったです。

ペレスの指揮する東京交響楽団は、この日ピットでシュトラウスの音楽の神髄を、クソみたいな演出にもかかわらずしっかり聴かせてくれた感謝すべき存在だと思うし、大々絶賛されていい。
ノット監督のもと、シュトラウスオペラを順次演奏してきている経験値や近世の音楽の演奏履歴などを経て、どんな大音響でも混濁せずに聴かせてしまうオケ。
さらに各奏者たちの能動的な演奏姿勢が有機的なサウンドを産み出すというシュトラウスにとってなくてはならない能力も兼ね備える。
ヴァイオリンとチェロ、ふたりのソロも最高でした。
 アルゼンチン出身のオペラ指揮者ペレス氏は、魔弾の射手に次いで2度目ですが、だれることのないスピード感あるテンポ設定と、抒情的な場面では美しく各パートを際立たせるような繊細な音楽造りもありました。
良い指揮者です。

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もやもやする。

ジェイムズ・キングの皇帝を聴き、あの嫌なヤツとなった姿の皇帝をリセットし、聴けなかった皇后の3幕をリザネックとニールントで補完する日曜でした。

最後にもう一言、入りはよくなかったけれど、怒りつつも楽しんだのも事実ですし、二期会さんには、今後も攻めのプロダクションをぜひともお願いします。

追記)
公演前に何種類も聴いた「影のない女」のオーケストラ編幻想曲をあらためて聴いた。
20数分の管弦楽曲ですが、ここでの最後は、オペラと同じく3幕の二組夫婦によるシーンで静かに終わっています。
この曲は、シュトラウス晩年の1846年に、作者自らが選んで編曲した作品です。
シュトラウス晩年の思いも宿っているのではないでしょうか。。。

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2024年10月25日 (金)

R・シュトラウス 「影のない女」交響的幻想曲

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秦野の街を見下ろす小高い山から。

弘法山、浅間山、権現山と3連の山、ここから本当は富士山がきれいに見えるのですが、この日は雲に隠れてました。

奥の山々は丹沢山脈です。
こうして山々に囲まれた神奈川県唯一の盆地の町が秦野です。

秦野はミュージシャンや俳優も多数輩出してまして、ルナシーとか、吉田栄作のほか、俳優やスポーツ選手もたくさん。
あとなんといっても、山田和樹も秦野の出身で、いまや世界のヤマカズとなりつつあります。

ちなみに、吉田栄作の実家は、もとは卸屋さんをやっていて、母の実家は隣町でお店をやっていたので、少年時代の吉田栄作も父親に連れられてしょっちゅう卸しに来ていたそうな。

余談が過ぎましたが、二期会の「影のない女」を観劇に行きます。

まいど大胆な解釈で驚かせてくれるコンヴィチュニーの新演出が目玉ですが、事前に発表されたカットや入替、大胆な設定替えなどを確認するにつけ・・・・・
ま、あしたのお楽しみということで。

今週は前夜祭ということで本編そのものを聴く時間はなかったので、オーケストラ編をいろいろ聴きました。

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  R・シュトラウス 「影のない女」 交響的幻想曲

1917年に完成、1919年に初演のシュトラウスの傑作オペラ「影のない女」。
近年、ヨーロッパでは上演頻度が高くなっていて、その都度、ネットでも聴くことができるので、私のCDと録音ライブラリーも充実の極みとなっております。

1946年にシュトラウス自身の手で、オペラの主要部分やおもなライトモティーフを用いて22分ぐらいの交響的作品が作られました。
こちらの幻想曲も、最近はコンサートで取り上げられることが多くなっていてシュトラウスのもう一つのオーケストラ作品として、たいへん好まれる存在になりつつあります。

第1幕の超カッコいい前奏そのものから開始し、バラク夫妻の優しい旋律に切り替わり、次いで乳母がバラクの妻に見せる黄金やかしずく女たち、若い男の場面となりキラキラする。
かいがいしく働くバラク、そのあとはバラクの優しい愛の歌となり、トロンボーンが歌い、バラクの妻もその思いを今さら知ることになる。
離れ離れのバラク夫妻、声に呼ばれ登っていく、皇帝と皇后も救われ、音楽は感謝と歓喜に包まれる。
ここでは、このオペラのいろんなモティーフがモザイクのように出てきて絡み合うが、さすがの練達のシュトラウスと感じさせる。
やがて、子供たちの声を思わせる柔和な雰囲気がうまく漂いだして、オペラの最後の場面となる。

手持ちの音源

・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(1970)
・メータ指揮  ベルリン・フィルハーモニー(1990)
・J.テイト指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー(1991)
・シノーポリ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ(1995)
・ティーレマン指揮 ウィーンフィルハーモニー(2002)

エアチェック音源

・シュタイン指揮  NHK交響楽団(1987)
・ネルソンス指揮 ケルン放送響(2014)
・ペルトコスキ指揮 フランクフルトhr響(2023)
・ケレム・ハサン指揮 BBCフィルハーモニック(2024)
・ファヴィアン・ガベル指揮 トーンキュンストラ管(2024)
・ウェルザー=メスト指揮 ウィーンフィルハーモニー(2024)

正規音源としては、録音も含めてティーレマンが圧倒的な演奏。
それと美しくしなやかなのがテイトの演奏で、オペラの舞台も感じさせる豊かさがある。
スウィトナーも雰囲気豊かな、まさに晩年の作者とも近かった往年の指揮者ならではの味わいあり

エアチェックでは、シュタインの熱い演奏と、最新のメストとウィーンフィルの豪華な響きが眩い。
今後活躍しそうな若きペルトコスキの演奏も興味深く23歳の青年とは思えない選曲であり、演奏でありました。

曲は、平和に調和のとれたエンディングで静かに終わるが、明日のコンヴィチュニー演出の幕閉めはとんでもないことになるんだそうな・・・

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2023年9月25日 (月)

ヴィオッティ&東京交響楽団演奏会

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休日の土曜、14時でもなく、19時でもなく、18時の開演で間違えそうになったサントリーホール。

「英雄」とタイトルされたふたつの作品の重厚プログラムで、ホールはほぼ満席。

Tso-01 

ひときわ目立つ華麗な花飾りには、ブルガリからの指揮者ヴィオッティへのメッセージ。

そう、イケメンのヴィオッティはブルガリの公式モデルをしているのです。

この日、それ風の外国人美女がチラホラいましたので、そうした関係なのかもしれません。

でも、ヴィオッティはそうした外面的な存在だけではありません、将来を嘱望される本格派指揮者なのです。

2世指揮者で、父親は早逝してしまったオペラの名手、マルチェロ・ヴィオッティ(1954~2005)で、ローザンヌ生まれのスイス人です。
母親もヴァイオリニスト、姉もメゾソプラノ歌手(マリーナ・ヴィオッテイ、美人さん)という音楽一家で、音楽家になるべくして育ったロレンツォ君は、自身も打楽器奏者からスタートしている。
現在はネザーランド・フィル、オランダオペラの首席指揮者として活動中で、ヨーロッパの名だたるオーケストラにも客演を続けている。
海外のネット放送でも、ヴィオッテイを聴く機会が多く、私が聴いたのは、ツェムリンスキーのオペラ「こびと」、「人魚姫」、コルンゴルト「シンフォニエッタ」、ヴェルディ「聖歌四篇」、チャイコフスキー「悲愴」、ドビュッシー「夜想曲」、ウィーンでのマーラーなどなど。
このレパートリー的に、私の好むエリアを得意としそうな気がして、ずっと着目していたところだ。

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  ベートーヴェン   交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」

  R・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

    ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

     ソロ・コンサートマスター:グレブ・ニキティン

          (2023.9.23 @サントリーホール)

イタリア語由来の「英雄」はエロイカ。
ドイツ語で「英雄の生涯」は、ヘルデン・レーベン。
英雄的テノールということで、ヘルデンテノールがある。
これが英語では、「ヒーロー」になる。

こんな風に「英雄」由来の2作品を並べた果敢なプログラムを組んだ東響とヴィオッテイにまずは賛辞を捧げたい。

冒頭に置いたエロイカ、若いヴィオッテイならガツンと勢いよく、意気込んでくるだろうと思ったら、まったく違って、肩すかしをくった。
軽いタッチで、スピーディーに、サクっと始まったし、そのあとも滑らかに、流れのいいスムースな演奏に終始。
角の取れたソフィスティケートなエロイカは、わたしにはまったく予想もしなかった新鮮なものに感じられた。
くり返しもしっかり行いつつ、力強さとはほど遠い流麗さで終始した1楽章。
音が薄すぎるという点もあったが、わたしは美しい演奏だと思った。
その思いは、デリケートな2楽章に至って、さらに募った。
弱音を意識しつつ、間が静寂ともとれる葬送行進曲は、2階席で急病の方が出たらしいが、見事な集中力でもって聴かせてくれた。
ホルンが実に見事だった3楽章では、若々しいヴィオッテイのリズムの良さが際立ち、ホルンも完璧!
ギャラントな雰囲気をかもし出した終楽章。
メイン主題が木管で出る前、弦4部のソロが四重奏を軽やかに奏でたが、これが実に効果的で、指揮者は棒を振らずに4人のカルテットを楽しむの図で、そのあとに主旋律がサラッと入ってくるもんだから感動したのなんの。
エンディングも勇ましさとは無縁にさらりと終わってしまう。
アンチヒーローとも呼ぶべき美しくも、しなやかなエロイカだった。

後期ロマン派系の音楽を得意にするヴィオッテイのベートーヴェンはこうなるのか、と思いました。

さて、シュトラウスの方のヘルデンは。

これはもう掛け地なしで誰もが認める抜群のシュトラウスサウンド満載の好演。
すべての楽器が鳴りきり、思いの丈をぶつけてくるくらいに、ヴィオッテイはオーケストラを解放してしまった。
エロイカでの爆発不足を補うかのような爽快かつヒロイックな冒頭。
あとなんたってベテランのニキティンの自在なソロにみちびかれ、陶酔境に誘われた甘味なる伴侶とのシーンは、ヴィオッテイの歌心が満載で、これもまた美しすぎた。
闘いにそなえ、準備万端盛り上がっていくオーケストラを抑制しつつ着実にクライマックスに持っていく手腕も大したものだ。
ステージから裏に回るトランペット奏者たち、また帰ってきて大咆哮に参加し、打楽器がいろんなことをし、木管も金管もめまぐるしく活躍し、弦楽器も力を込めてフルに弾く、そんな姿を眺めつつ聴くのがこの作品のライブの楽しみだ。
その頂点に輝かしい勝利の雄たけびがある。
感動のあまり打ち震えてしまう自分が、この日もありました。
 その後の回顧シーン、さまざまな過去作の旋律をいかにうまく浮かびあがらせたり、明滅させたりとするかは、シュトラウス指揮者の肝であろう。
以前聴いた、ノットの演奏がこの点すばらしくて、移り行くオペラのひとコマを見ているかのようだった。
シュトラウスサウンドを持っている同じ東響の見事な木管もあり、ヴィオッテイのこのシーンも実に細部に目の行き届いた鮮やかなもので、過去作メロディ探しも自分的に楽しかった。
このあとの隠遁生活をむかえるしみじみ感は、さすがに老練さはないものの、テンポを思いのほか落として、でもだれることなくストレートな解釈で、まだまだこの先も続くシュトラウスに人生を見越したかのような明るい、ポジティブなさわやかな結末を導きだしたのでした。
すべての音がなり終わっても拍手は起こらず、静寂につつまれたサントリーホール。
ヴィオッテイが静かに腕をおろして、そのあと間をおいてブラボーとともに、大きな拍手で満たされたのでした。

俊英ヴィオッテイの力量と魅力を認めることのできたコンサート。
東響との相性もよく、もちろんシュトラウスは東響と思わせる一夜でした。



OKでたので撮影、喝采に応えて、最後はシュトラウスのスコアをかかげるヴィオッテイ。

おまけ、ブルガリのヴィオッティ。



イケメンもほどほどにして欲しいが、引く手あまたの人気者。
東響の「ポスト・ノット」をウルバンスキとともに目されるヴィオッテイ。
オランダの忙しいポスト次第かと。
そのオランダでは、初ワーグナー、ローエングリンを振るそうだ。

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ふつうのイケてないオジサンは、新橋で焼き鳥をテイクアウトして、東海道線の車内を炭火臭でぷんぷんにさせながら帰ってきて、ビールをプシュッ🍺

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2023年6月25日 (日)

R・シュトラウス 「サロメ」  神奈川フィル演奏会

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音楽監督、沼尻竜典と神奈川フィルハーモニーとのドラマテック・シリーズ第1弾「サロメ」。

みなとみいらいでの神奈川フィルは、実に7年ぶり。

桜木町からの道のりは、変わったようでいて、変わってない。
ロープウェイが出来たことぐらいかもですが、やはり観光客主体に人はとても多い。

昨年11月に世界1のサロメ、グリゴリアンが歌うノット&東響演奏会を聴き、今年4月は、「平和の日」日本初演を観劇し、さらに5月には、世界最高峰のエレクトラ、ガーキーの歌うエレクトラをこれまたノット&東響で聴いた。
そして、これらのシュトラウスサウンドが、まだ耳に残るなか、神奈川フィルのサロメ。
シュトラウス好きとして、こんな贅沢ないですね。

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  R・シュトラウス 楽劇「サロメ」

   サロメ:田崎 尚美      
   ヘロデ:高橋 淳
   ヘロディアス:谷口 睦美   
   ヨカナーン:大沼 徹
   ナラボート:清水 徹太郎 ヘロディアスの小姓:山下 裕賀
     ユダヤ人:小堀 勇介      ユダヤ人:新海 康仁
   ユダヤ人:山本 康寛  ユダヤ人:澤武 紀行
   ユダヤ人:加藤 宏隆   カッパドキア人:大山 大輔
   ナザレ人:大山 大輔    ナザレ人:大川 信之      
   兵士  :大塚 博章    兵士  :斉木 建司
   奴隷  :松下 奈美子

  沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

    首席ソロ・コンサートマスター:石田 泰尚
         コンサートマスター:大江 馨

     (2023.6.23 @みなとみらいホール)

    ※救世観音菩薩 九千房 政光

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ご覧のように、オーケストラを舞台の奥にぎっしりと引き詰め、その前のスペースで歌手たちが歌い演じるセミステージ上演。
P席と舞台袖の左右の座席も空席に。
ヨカナーンは、P席の左手を井戸の中に想定して、そこで歌うから音像が遠くから響くことで効果は出ていた。
字幕もP席に据えられているので全席から見通しがよい。
ステージ照明は間奏や7つのベールの踊りのシーン以外は、暗めに落とされ、左右からのブルーや赤、黄色のカラーで場面の状況に合わせて変化させていたほか、パイプオルガンのあたりには、丸いスポットライトもときに当てられたりして、雰囲気がとてもよろしく、舞台上演でなくてもかなりの効果を上げられたのではないかと思います。

今後予定されているドラマテック・シリーズはこうした設定が基本になるのだろう。
すべての客席から、前面の歌手エリアがよく見えるようになることを併せて願います。

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①この日、もっとも素晴らしかったのはオーケストラだと思う。
神奈フィルをずっと聴いてきて、途中、移動や仕事の不芳などもあり遠ざかった時期があり、本拠地での演奏体験は久方ぶりだった。
お馴染みの楽員さんたちも多数、そして若い楽員さんたちも多数。
ほんとうに巧いオーケストラになったものだと、今日ほど実感したことはありません。
華奢すぎる感のあったかつての神奈フィルは、それが個性で、横浜の街を体現したかのような洒落たオーケストラだった。
現田さんとシュナイト師によって培われた、美音極まりない音色はずっとそのままに、オペラの人、沼尻さんの就任によって、本来もってた神奈フィルの自発的な開放的な歌心あるサウンドが導き出されたと思う。

細部まで緻密に書かれたシュトラウスのスコアは、物語の進行とともに、微細に反応しつつ、リアルに描きつくしてやまない。
ヘロデがサロメの気を引こうと、宝石やクジャクなどの希少な動物をあげると提案すると、音楽はまるで宝石さながら、美しい動物の様子さながらのサウンドに一変する。
私の好きな、サロメとヨカナーンのシーンで、サロメが欲求を募らせていくシーンでも、音楽は禍々しさとヨカナーンの高貴さが交錯。
ガリラヤにいるイエスを予見させるヨカナーンの言葉は、清涼かつ神聖な音楽に一変してしまう。
それでも、サロメはさらなる欲望を口走り、ヨカナーンは強烈な最後通告を行う。
このあたりの音楽の変転と強烈さ、演奏する側は、その急転直下の描き分けを心情的な理解とともに描き分けなくてはならないと思う。
 沼尻さん率いる神奈川フィルは、このあたりがまったく見事で、目もくらむばかりの進行に感銘を覚えたものだ。

このようなシーンに代表されるように、シュトラウスの万華鏡のようなスコアを手中に収め、指揮をした沼尻さんと、それを完璧に再現した神奈川フィルは、ふたたび言うが素晴らしかった。

②日本人でサロメを上演するなら最強のメンバー
田崎さんのサロメは、剛毅さよりさ、繊細な歌いまわしで、シュトラウス自身が「16歳の少女の姿とイゾルデの声のその両方を要求する方が間違っている」と、自分に皮肉を述べたくらいに矛盾に満ちたサロメ役を、無理せず女性らしさを前面に打ち立てた、われわれ日本人にとって等身大的な「サロメ」を歌ってみせた感じに思った。
そんななかでも、数回にわたる首のおねだりの歌いまわしの変化は見事で、ラストの強烈な要求は完璧に決まった感じだ!
長大なモノローグも美しい歌唱で、このシーンでは恋するサロメの純なる心情吐露なので、沼尻指揮する極美で抑制されたオーケストラを背景に、煌めくような歌声だった。

田崎さんとともに、先月のエレクトラで待女役のひとりだった谷口さん。
わたしの好きな歌手のおひとりで、ソロアルバムもかつて本blogで取り上げてます。
アリアドネ、カプリッチョなど、おもにシュトラス諸役で彼女のオペラ出演を聴いてきましたが、こんかいのヘロディアスも硬質でキリリとした彼女の声がばっちりはまりました!ステキでした!
谷口さんのCDに、神奈フィルのクラリネット奏者の斎藤さんが出ておりますのも嬉しい発見でした。→過去記事

福井 敬さんの代役で急遽出演した高橋さんは、ヘロデを持ち役にしているし、キャラクターテノールとしての役柄で聴いた経験も多い歌手。
役柄になりきったような明快な歌唱と、その所作はベテランならではで、舞台が引き締まりましたね!

P席から歌った大沼さんのヨカナーンは、高貴な雰囲気がその声とともに相応しかったが、井戸から出されて、舞台前面でサロメと対峙するとなると、声がこちらの耳には届きにくかった。
また井戸に召喚されると、またよく通る。輝かしいバリトンのお声なのに、ホールによっては難しいものだ。

気の毒なナラボート役の清水さん、恋する小姓役の山下さん、よいです!
ほかのお馴染みの名前やお顔のそろった二期会の層の厚さにも感謝です。

③この1か月の間に、ミューザとみなとみらいで、ふたつのシュトラウスオペラを聴いた。
どちらも響きのいいホール。
その響きが混ぜ物なくストレートに耳に届く「ミューザ」。
その響きそのものが音楽と溶け合ってしまうかのような「みなといらい」。
どちらも長らく聴いてきて好きなホールだけれども、いまは「ミューザ」の方が好きかも。
でも「みなといらい」にはいろんな思い出もあり、脳内であの響きが再生可能なところも愛おしい。

ノットの次のシュトラスは「ばらの騎士」のはず。
神奈川フィルは、次は・・・。
勝手に予想、フィガロ、オランダ人、トスカ、夕鶴・・・、な~んてね。

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終演後は西の空が美しく染まってました。

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久しぶりだったので、パシャリと1枚。

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野毛に出向いてひとり居酒屋をやるつもりだったけど、いい時間だったし、もうそんな若さもないので、サロメで乾いた喉は、お家に帰ってから潤しました。

【サロメ過去記事】

「サロメ 聴きまくり・観まくり」

「グリゴリアン&ノット、東響」

「二期会 コンヴィチュニー演出 2011」

「ドホナーニ指揮 CD」

「ラインスドルフ指揮 CD」

「新国立劇場 エヴァーディンク演出 2008」

「ショルティ指揮 CD」

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