カテゴリー「R・シュトラウス」の記事

2024年12月21日 (土)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 ノット&東響

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サントリーホール、カラヤン広場のクリスマスツリー。

この日は、ジョナサン・ノットと東京交響楽団のR・シュトラウスのオペラシリーズ第3弾にして最終回、「ばらの騎士」を観劇。

17時に開演して、20分休憩を2回はさんで、再びこのツリーの横を通ってホールを出たのは21時30分になってました。
カットなしの完全版で、コンサート形式での簡易なオペラ上演は、これまでの2作と同じくして、サー・トーマス・サレンの演出監修によるもの。

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これまでの2作もタイトルロールに世界ナンバーワンの歌手を据え、他役も超一流で固めた、まさにノット監督の人脈をフルに活かした配役による上演でした。
サロメにグリゴリアン、エレクトラにガーキーと、いずれもいまでもその歌声は耳にこびりついている。
今回の配役も実に素晴らしい布陣です。

結論から申しますと、多く観劇してきた「ばらの騎士」の上演・演奏のなかで、いちばん鮮烈な感銘を受けることとなりました。

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 R・シュトラウス 「ばらの騎士」

  マルシャリン:ミア・パーション 
  オクタヴィアン:カトリオーナ・モリソン
  ゾフィー:エルザ・ブノワ         
  オックス男爵 :アルベルト・ペーゼンドルファー
  ファーニナル:マルクス・アイヒェ 
  マリアンネ、帽子屋:渡邊 仁美
  ヴァルツァッキ:澤武 紀行
  アンニーナ:中島 郁子

  ヴァルツァッキ:デイヴィツト・ソー    
  歌手:村上 公太

    警部、公証人:河野 鉄平
  執事(元帥家)、料理屋の主人:高梨 英次郎
  動物売り、執事(ファーニナル家):下村 将太
  3人の孤児:田崎 美香、松本 真代、田村 由貴絵
  モハメッド役:越津 克充

 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団

   演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2024.12.13 @サントリーホール)
  

満席のホール、いつものように颯爽とあらわれ、さっと指揮を始めると、高揚感たっぷりのホルンで素晴らしい音楽ドラマの幕が開く。
左手に二人掛けソファ、右手はテーブルに2脚の椅子、ステージ右奥には衝立。
これだけが舞台装置で、歌手たちはこれらの椅子に腰かけつつも、基本はほとんど立ちながらの演技で歌う。

「ばらの騎士」は、あらゆるオペラの中で、5指に入るくらいに好きで、その舞台もたくさん見ておりますが久々の実演。
かつて「ばら戦争」といわれ、短期間に「ばらの騎士」がいくつも上演されたときがあり、まだ若かった自分、いろんな意味でのゆとりもあり、そのほとんどを観劇し、来る日も来る日も「ばらの騎士」の音楽が頭のなかを渦巻いていたものでした。
2007年のこと、あれからもう17年が経過し、脳裏を「ばらの騎士」がよぎり続ける日々がまた再び来ようとは・・・・

素晴らしいオーケストラ、素晴らしい歌手たち、集中力の高い聴衆、これらすべてが完璧に決まりました。

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サロメとエレクトラで、巨大編成のオーケストラを存分に鳴らしまくり、ワーグナーの延長とその先にあるシュトラウス・サウンドを堪能させてくれたノットと東響。
エレクトラからわずか2年後の1910年の「ばらの騎士」は、歴史絵巻の素材から、18世紀に時代を移し、音楽は、軽やかで透明感あふれるモーツァルトを意識した世界へと変貌。
ホフマンスタールとの膨大な往復書簡のなかで述べているように、「フィガロの結婚」を前提としても書いている。
そのホフマンスタールも、メロディによる台本の拘束は、モーツァルト的なものとして好ましく、我慢しがたいワーグナー流の際限のない、愛の咆哮からの離脱を見る思い、だと書いてました。
ワーグナー好きの自分からすると、なにもそこまで言わなくても、とホフマンスタールに言いたくはなりますがね・・・
しかしシュトラウスは台本に熱中し、台本が完成するより先に作曲を進めてしまったくらいに打込んだ。

モーツァルトの時代には存在しなかったワルツが随所に散りばめられ、それはこのオペラの大衆性をも呼び起こすことにもなりますが、その数々のワルツをふるいつきたくなるくらいに、まるで羽毛のように軽やかに演奏したのがクライバー、ゴージャスに演奏したのがカラヤン。
しかし、ノットはワルツでもそのように、ワルツばかりが突出してしまうことを避けるかのように、シュトラウスが緻密に張り巡らせた音楽の流れのなかのひとコマとして指揮していたように思う。
うつろいゆくシュトラウスの音楽の流れをあくまで自然体で、流れるように聴かせてくれ、近くで歌う歌手たちとのコンタクトもとりつつ、歌い手にとっても呼吸感ゆたかな安心できるオーケストラ。
シュトラウスの千変万化する音楽の表情を、ノットは巧まずして押さえ、東響から導きだしていたと思う。
その東京交響楽団が、先日の影のない女でも痛感したように、シュトラウスの煌めくサウンドと名技性とを完璧に演奏しきっていて、我が国最高のシュトラウスオケと確信。
是非にもCD化して世界に広めて欲しい。
 多くの聴き手と同じように、3幕での3重唱の高揚感と美しさには、美音が降りそそぐようで、あまりの素晴らしさに涙が頬を伝うのを止められず・・・
音源で聴いていると、女声3人の歌声でスピーカーがビリついてしまう録音もあるくらいだが、ライブでの演奏ではそんな不安はこれっぽちもなく、まさに心の底から堪能しました。

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5人の主要歌手たち、脇を固めた日本人歌手たち、いずれの皆様、賛辞の言葉を尽くしてもやむことができないほどに素晴らしかった。

驚きの素敵な歌唱とその立ち居振る舞いをみせてくれたミア・パーションのマルシャリン。
モーツァルト歌手としての実績のみが頭にあり、こんなに大人のそして優しさと哀しみを表出できる歌手だったとは!
声量も充分で、ホールに響き渡るその澄み切った声は、北欧の歌手ならではで、クセのない揺れのほとんどないクリアボイスで歌われる1幕のモノローグには、もう涙を禁じえなかった。
これでドイツ語のディクションにさらなる厳しさも加わったらより完璧。
いまこれを書きつつ、外をみると風に散る枯葉が舞ってました。
彼女の歌とノットの作りだしたあの儚い場面を思い出し、そしてこれまで観てきたマルシャリンたちの1幕の幕切れのシーンをも回顧して、なんとも言えない気持ちになってきたのでした。。。
ゾフィーが持ち役だった彼女が、こうしてマルシャリンに成長してきたその姿は、まるでかつてのルチア・ポップを思い起こす。
もしかしたら、きっとマドレーヌも素晴らしく歌ってくれるのでは・・・

会場を驚かせた歌手、オクタヴィアンのモリソンは、この日がオクタヴィアンの初ロールだということ。
豊かな声量と安定感あるメゾの領域は、これまた驚きの連続でした。
これで軽やかさが加わったたら最強のオクタヴィアンになるかもです。
気になって手持ちの録音音源を調べたら、ピッツバーグでモツレク、BBCでスマイスのミサ曲などを歌ってました。
フリッカも歌い始めたようなので、マーラーの諸曲も含めて、今後期待大の歌手です。

対するゾフィーのフランスのソプラノ、ブノワも実にステキでして、そのリリカルな声は、薔薇の献呈の場では陶酔境に誘われるほど。
まさにこれが決り、最終シーンでもうっとりさせていただきました。
一方で、現代っ娘的な意思の強さも歌いだす強い声もあり、幅広いレパートリーをもつこともうなづけます。
オクタヴィアンとゾフィーの2幕におけるヴァルツァッキ達の踏込み前までの2重唱、このオペラでもっとも好きな音楽のひとつですが、これもまた天国級の美しさなのでした。

大柄なオーストリアのバス、存在感たっぷりのペーゼンドルファー。
ハーゲン役として音源や映像でいくつか聴いていたが、初の実演は、深いバスでありながら小回りの利く小気味よさもありつつ、上から下までよく伸びるその声、実に美声で破綻なく安心の2幕のエンディングでしたね。

多くの録音やバイロイトのライブでもおなじみのアイフェのファーニナル。
暖かく人のよさのにじみ出たアイフェのバリトンは、現在、最高のウォルフラムやグンターだと思いますが、貪欲な市民階級の役柄を歌わせても、どこか憎めず、いい人オジサンにしてしまう。
性急なまでに貴族へのステップアップを狙い、一目を気にする小人物であるが、憎めない、最後は娘の幸せを願う父親に。
そんなファーニナルを見事に歌い演じるアイフェでした。

せんだって、ヴェルデイのレクイエムで見事なソロを聴いた中島さんのアンニーナ、ここでも充分に存在感を示してまして、小回り効く澤武さんのヴァルツァッキとともに、狂言回しとして、このオペラになくてはならない役柄であることを認識できました。
テノール歌手の村上さんも、驚きの渾身の美声で、ステージ上の登場人物たちもまさに聞惚れるほど。
刑事コロンボのようなコートをまとった警部の河野さんも、役柄にはまった歌唱と演技で、オクタヴィアンの投げる衣装を受け取る姿もまた楽しい場面でした。
そしてもったいないくらいの渡邊仁美さんのマリアンネも、舞台を引き締める役割をそのお姿でも担いました。

モーツァルトシリーズからシュトラウスまで、演技指導の名歌手トーマス・アレン卿の手際のいい仕事は、制約の多いコンサートスタイルにおいても、簡潔で納得感あるものです。
これだけ有名なオペラになると、大方の場面は、こちらの想像力で補うことができるからこれでいいのです。
3幕の悪戯の仕掛けなど、客席も使ってみた方がおもしろいかも、とは思ったりもしましたが、登場人物たちが、指揮者やオケの奏者たちに絡んだりする場面などユーモアたっぷり。
モハメド君のハンカチ拾いも、定番通りでよかったです。

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歳を経た自分が、元帥夫人に共感し、思い入れも以前にもまして深めてしいます。
日々揺れ動く気持ち。
自分を見つめることで、いまさらに時間の経過に気付く。
自戒と諦念、そして、まだまだだと、あらたな道へと踏み出す勇気を持つべしとも思う自分。


こんな儚い気持ちを感じさせてくれるドラマに、シュトラウスはなんてすばらしい音楽をつけてくれたものだろうか。
シュトラウス晩年の「カプリッチョ」にも人生の岐路に差し掛かった自分は、格段に思い入れを感じる今日この頃。。。

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過去記事 舞台観劇

 「新国立劇場 シュナイダー指揮」

 「チューリヒ歌劇場 W・メスト指揮」

 「ドレスデン国立劇場 ルイージ指揮」

 「県民ホール 神奈川フィル 沼尻 竜典指揮」

 「新日フィル コンサート形式 アルミンク指揮」

 「二期会 ヴァイグレ指揮」

過去記事 音源・映像

 「バーンスタイン&ウィーンフィル」
 
 「ドホナーニ&ウィーンフィル」

 「クライバー&バイエルン国立歌劇場」

 「ギブソン&スコティッシュ、デルネッシュ」

 「ビシュコフ&ウィーンフィル」

 「クライバー ミュンヘンDVD」

 「ラトル&メトロポリタンオペラ」

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手持ちの映像から、ガーシントン・オペラでのパーションの元帥夫人。
この演出がお洒落でセンスあふれるものでした。
数回目のシュトラウスのオペラ全作シリーズ、次は「ばらの騎士」を予定してまして、そこで音源や映像の数々をレビューしたいと思います。

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2024年11月 6日 (水)

R・シュトラウス 「インテルメッツォ」交響的間奏曲

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文化の日は、ニッポンの「菊」がお似合い。

亡父が菊や盆栽に、かなり凝っていくつもの鉢植えを作成せいていたけれど、無精なワタクシは、それをまとも受けつぐことができず、ことごとく枯らしてしまいました・・・・

いまとなっては虚しい数十年であります。

R・シュトラウスの数回目のオペラ全曲聴き、ブログ化としては2度目のものが進行中ですが、次は「ばらの騎士」で止まってます。
年末のノット&東響をひとつのピークに致したく、そのときにまとめ上げたいと考えてます。

「インテルメッツォ」を取り上げるのはまだ先のことになりますが、夫婦や家庭のことを描いたシュトラスお得意のモティーフとなるこのオペラ。
先日に観劇した「影のない女」(1917)の次のオペラ作品にあたりますが、「インテルメッツォ」は、1923年で、少し間があきます。
このふたつのオペラには、夫婦愛にまつわる内容で、さらにインテルメッツォではすでに成した子供が可愛い役回りを演じてます。

いまだにモヤモヤ感を引きずる「コンヴィチュニーとバルツの影のない女」。
その気分を明るくするためにも、「インテルメッツォ」の素敵な間奏曲を集めた幻想曲を秋晴れのもと聴きます。

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 R・シュトラウス 「インテルメッツォ」交響的間奏曲

   ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団

            (1961 @ミュンヘン)

全2幕のオペラに散りばめられた前奏曲と間奏曲。
これらを抜き出し、4つの交響的な作品に仕立てたもの。
オペラの副題には、「交響的間奏曲付きの2幕の市民喜劇」と書かれていて、オペラ全体そのものがシンフォニックな作りとも目されます。

シュトラウス自身の家庭をありのままに描いたようなオペラで、家庭交響曲と同じくするものです。
主人公が楽長さんで、作曲者そのもの。
嫉妬深いその妻は、シュトラウスの妻パウリーネ。
パパの擁護者、可愛い息子は、そのままシュトラウスの愛息フランツ。


口うるさく、姐御肌だった妻パウリーネ。
よく悪妻ともいわれるが、ただでさえ、勤勉で日々同じペースの生活をし、かつ天才肌だったシュトラウスの尻をたたいたので、こんなにシュトラウスは多作だったとも冗談のように言われたりもしますね。

しかしシュトラウスは、その反動で、妻や家庭も音楽として風刺して描くことができた、そんなしたたかさもあり、なんでも音楽にできちゃうというシュトラウスならではなのです。
妻にない多彩な女性の姿を台本作者と手を携えて描きつくすというシュトラウスのオペラの素材選びと音楽造り。
いろんな女性を描きたかったシュトラウスにとって妻のパウリーネの存在は思いのほか大きかったと思います。


この「インテルメッツォ」は、主人公が楽長で、作曲者そのもの。嫉妬深い妻は、パウリーネ。パパの擁護者、可愛い息子は、そのままシュトラウスの愛息フランツ。

全曲盤の細かく刻まれたトラックを見てみると、めまぐるしく変わる場のつなぎに、9つのオーケストラ間奏があります。
その間奏を見事につなぎ合わせて4つの部分に作り上げています。

 ①出発前の騒動とワルツの情景

 ②暖炉の前の夢

 ③カードゲームのテーブルで

 ④更に元気な決断


かまびすしい前奏曲、瀟洒なワルツや、静かで感動的な平和な家庭の雰囲気、明るく楽しく快活な大団円。
シュトラウス好きを決して裏切らない素敵な作品です。

今日は往年のカイルベルト盤を聴きましたが、61年録音とは思えない録音のよさ、暖かな音色のオーケストラで木質を感じさせる抜群のシュトラウスサウンドです。
この2年後にカイルベルトは「影のない女」と「マイスタージンガー」でシュターツオーパーの再開上演を指揮しました。
さらに同年63年に、ウィーンで「インテルメッツォ」を指揮していて、そのときのライブも聴くことができます。
次のオペラでのインテルメッツォ記事は、サヴァリッシュ盤をすでに取り上げたので、このカイルベルト盤にしようかと思います。

こちらの交響的間奏曲の音源はたくさん持ってます。
メータ、テイト、プレヴィン、ヤンソンス、ウェルザー・メスト、A・デイヴィスなどなど。

ともかく、聴いて幸せな気分になれる晴朗なシュトラウスの音楽はステキなのであります。

やっぱり、「コンヴィチュニー&バルツの影のない女」はいかんな!

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2024年10月28日 (月)

R・シュトラウス 「影のない女」 二期会公演

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2022年に予定されながら、流行り病の影響で流れた二期会の「影のない女」
クラウドファンディングや関係者の尽力の積み重ねで、ついに上演のはこびに。

その全オペラを楽しみ、愛するわたくし、シュトラウスの初オペラ体験がこの「影のない女」でした。
忘れもしない、ハンブルク国立歌劇場の来日公演。
1984年の5月7日、日本初演の初日から3日後で、このオペラはその2回のみの上演でした。
場所は同じく東京文化会館で、大切にしているチケットを確認したら、1階10列24番。
今回の二期会上演の席は、よく見たらその席のほぼすぐ近く。

40年を経過し、ワタクシも歳を経ましたが、あのときの感動はいまでも鮮やかに覚えてます。
ドホナーニの指揮、皇后:リザネック、皇帝:R・シェンク、乳母:デルネッシュ、バラクの妻:G・ジョーンズ、バラク:ネンドヴィヒ、、こんなキラ星のようなキャストで、その素晴らしい声の饗宴に痺れまくり。
なかでも3幕で、きらめく泉が皇后の顔にあたり、その頬が光るなか、「Ich will nicht・・・」と苦しみつつも発するリザネックに背筋がゾクゾクするような感動を覚えました。

このオペラのひとつの聴きどころ・見どころであるそのシーンは、今回どうなるのか・・・

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  R・シュトラウス 「影のない女」

     皇帝 :伊達 達人         
     皇后 :冨平 安希子

         乳母 :藤井 麻美     
              伝令使:友清 崇
      〃 :高田 智士
      〃 :宮城島 康
     若い男:高柳 圭
         鷹の声:宮地 江奈
     バラク:大沼 徹
     バラクの妻:板波 利加 
             バラクの兄弟:児玉 和弘
                      〃        岩田 健示
         〃     水島 正樹


    アレホ・ペレス指揮 東京交響楽団
             二期会合唱団
  
   演出:ペーター・コンヴィチュニー
   舞台美術:ヨハネス・ライアカー
   照明:グゥイド・ペツォルト
   ドラマトゥルク:ベッティーナ・バルツ

     (2024.10.26 @東京文化会館)

コンヴィチュニーだから、普通の演出じゃなくて、いろんな仕掛けをかましてくるだろうなと思っていたし、これまで観劇してきたコンヴィチュニー演出は4作あり、正直いずれも楽しんだし、面白かった。
また20年前ぐらい、まだ読み替え演出に嫌悪感のあった自分に、その楽しみを植え付けてくれたのもコンヴィチュニー演出なのだ。

しかし、今回はどうしたものだろう。

できるだけ情報をシャットアウトして、公演に挑むのが常であるが、二期会のSNSや出演者たちの「X」が目に入るようになり、気になって公式HPにアクセスして確認してみた。
カットと筋立ての読み替え、場の入替えなどがあらかじめ、あらすじ概要とともに書かれていた。
それを読んだとき、カットがあることに正直がっかりしたし、筋の内容も読んで暗澹たる気分になった。
でも実際の舞台に接すれば、コンヴィチュニー演出のことだ、面白いし納得感もあるに違いないという思いで上野に向かった。

今回のコンヴィチュニーの「影のない女」は、これまで好意的だった私としては、「No」と言っておきたい。
読み替え自体はそれは問題ではなく、でも今回のは好きじゃなかったけれど、やはりシュトラウス&ホフマンスタールの「原作」と「音楽」にあまりに手を入れすぎで、それはもう私には冒涜クラスのものに思われた。
「原作」の最終場面は正直言って取ってつけたようなエンディングで、アリアドネにもそんな風に感じることもあるが、長いオペラをずっと聴いてきて訪れる予定調和の平和は、なによりも安心感や安らぎを与えるのだ。
さらに、私がいつもこのオペラでこの皇后はどう歌うんだろうと注目する「否定」の場面。
あそこを冨平さんの皇后で聴きたかったし、観たかった。
そんな風な楽しみを奪われたと思う観客は多かったのではないだろうか。

忘れないうちに、どこをカットされたか、どうつながれたかを自分でまとめて、こんなの作りました。
クリックすると別画面で拡大表示します。
間違っていたらすいません。
背景は、上野駅で見かけたパンダの絵です。
たぶん夫婦のパンダですwww

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こうなったらユーモアで封じるしかないか。

「影」は北欧伝説によると「多産」の象徴、すなわち「子」を意味し、霊魂の影じたいが肉体とも結びつくとされ、影を売る行為は、魂を売り渡してしまうという意味にも通じる。(ハンブルクオペラのときのパンフから)。
しかし、そんな高尚なところはみじんもなく、二組の夫婦の子をめぐる思いと抗争のみがここにあり。
夫婦は相手を入れ替えたらめでたく子ができてしまった。

子ができなかったのは、夫婦どっちが悪い?
「種のない男」「豊かな畑のない女」どっちだ・・・いやどっちでもなく、なんのことはない、相手を変えたらできちゃった。
こんなインモラルなのありか、会場には中学生ぐらいの女子もいたぞ。

この書き換え構想を担ったドラマトゥルクのベッティーナ・バルツの書いた前置き、二期会HPでも読めます。

このオペラは現実の物語ではなく、象徴的な出来事を描いている。筋の通った物語ではなく、架空の二層の世界で演じられる悪夢のようなエピソードであり、そのルールはどこにも制定されておらず、理解不能である。人物、場所、ルールは、夢の中のように流動的で変化する。
このプロダクションでは、妻が夫に隷属することを賛美し、美化するような筋書きのない終幕のフィナーレを排除し、代わりに元の第2幕のシーンを最後に置く皮肉な場面で終わる。」

まさにこの前置き通りの想定でオペラは進行した。
常套的なカットをいれても3時間の作品が、今回は2時間40分に短縮。

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前の一覧にある通り、最終場面などはまったく演奏されず、幕という枠も排除し、場をばらばらにして交互にしたりして入れ替えてしまった。
夫婦を入れ違えてめでたく子ができたのもつかの間、暴力的な死の横溢するシーンで幕となった。

ちなみに、この演出でのエンディングシーンとなった2幕のラストは、わたくしは最初に影のない女を聴き馴染んだころ、めちゃくちゃ気にいって、初めて聴きエアチェックした75年のベームのザルツブルク上演を何度も聴いて、この激しくもダイナミックなシーンを指揮真似しながら興奮して楽しんだものだ。

しかし、今回の上演では、わたくしは意識することなく、このエンディングで幕が降りた瞬間「ブー」と叫んでいた。

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前段のバルツさんの書いたこの書き換えの意図を読んでみた。
正直、なにいってやがんだ・・という思いです。

「影のない女」の内容を家父長思考賛美、女性蔑視と断じ、「読み替えなしという選択肢はありえなかった。今日のわれわれが、道徳的に納得できる上演は読み替えによってよってのみ可能となる」としている。
「演出する私たちは、当時の男女の関係や問題を反映している芸術的な内容の部分を明らかにするために、このように手を加えることが必要だと考えている。この作品がなぜ、そんな手入れを必要とするほど、救いがたい出来損ないになってしまったかを検討してみたい」と書いている。
なぜに出来損ないなのか?
ホフマンスタールの台本が1911~19年にわたって何度も書き換えられ、「意味不明な童話的要素に満ちた悪趣味な混ぜ物になった。」
この作品は「子を産めない、あるいは産みたくないすべての女を。役立たずで下等な人間のくずと貶めるのが狙いだ」とホフマンスタールを断じている。
被害者はここに登場する作者さえ同情を寄せない女性の3人、加害者(男×2)は文字通り賛美される。
さらにバラクの弟たち、いまでは禁句となった障碍ある3人でさえ、男性であることからバラクの妻を蔑視していると。
こんな風に長々と書かれていて、しまいに、シュトラウスは「音楽と俳優のバランス」と言ったとおり、「歌手でなく俳優」と意識していた。
音楽ばかりでなく「演劇」もみたかったのだとシュトラウスの音楽をいじくったことの弁明をしているように感じた。

好意的にこの解釈を理解した人々からは、子供を産んでも断ざれてしまう女性ふたり、そのエンディングは、いまだに変わらない女性の立ち位置に対する猛烈な皮肉だったと評するだろう。

まあこういった議論がでて、賛否両論を呼ぶこと自体がコンヴィチュニー演出の意図でもあろう。
しかし、今回は、コンヴィチュニーがこのバルツ氏の書き換えた台本に乗ってしまったことは失敗だったと思う。
ここは日本だよ、ドイツじゃないし、男女は大昔から平等だし、ジェンダー指数なんて表面的なウソっぱちだい!
もう一回、この素晴らしいキャストとオケで、ちゃんとした演出で、演奏会形式でもいいからやり直して欲しい。
バラクの日本語のアドリブセリフ「ちゃんと台本通りやろうよ」だよう。

こんなところに不平等を見つけ出し、問題の顕在化をしてみせて、結果としてシュトラウスの素晴らしい音楽の一部を失くしてしまい、それを楽しみにしていた聴き手の心も消沈させてしまった。
始終、日本で上演されていて何度も接するオペラならまだしも、10年に1度クラスの上演機会のオペラで、これをやっちゃオシマイだよという気分です。
繰り返しますが読み替え演出は、わたしはぜんぜんOKだし、今回のピストルドンパチ、立ちんぼ、性描写などもがっかりはしても否定はしません。

舞台の詳しい様子は、今後書く気になったら記憶のある限り補足します。

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出演者の皆様を讃える大きな拍手とブラボー。
幕が降りた瞬間のブーのみで、わたくしは盛大な拍手をいたしました。
演出陣が出てきたらかましてやろうと待ってましたが出て来ず残念でした・・・・

こちらの歌手たちの皆さんについては、賛美しても尽くせない素晴らしさでした。

まず、皇后と乳母のふたり。
冨平さんはエンヒェンもルルもよかったが、今回は、あの演出でありながら、完全に役柄に没頭しての歌と演技。
その歌は涼やかな高音域が安定して美しかったし、音域の広い役柄なので、低い方の声にも哀しみが宿るような神々しさもありました。
二ールントの歌にもにたその歌唱、ドイツ語の発声も素敵でありました。
皇后との声の対比で万全だったのが乳母の藤井さん、明瞭ではっきりしたよく通る声で、一語一語がよく聴こえたし、ユーモラスな演技もその歌とともに印象的。
 バラクの妻役の板波さんの力ある声も際立っていて、バラクの大沼さんとの夫婦漫才のようなやり取りも楽しかったです。
その大沼さんのバラクの人の好さそうな声質の暖かなバリトンも実によかった。
かなフィルのサロメでのヨカナーンは歌う位置で損をしたイメージがあったけれど、背中でも演技するステキな、(うらやましい)役柄でしたねぇ。
 皇帝の伊達さんは、このヒロイックな役柄には軽すぎ・きれいごとすぎるように感じた。
確かに美声でクセのない声は素晴らしいが、今回の演出でのダーティに過ぎる存在もマイナスになってしまったのかもですが、ちょっと残念。
それにしても、なんであんな悪いヤツに仕立ててしまったんだろ・・・・
 伝令を歌った、前のコンヴィチュニー・サロメでヨカナーン役の友清さんを見出したのもうれしかった。
あと登場場面の多かった、まるきり鷹じゃない、可愛い夜鷹(?)となった宮地さんもリリカルなお声がよかったです。

ペレスの指揮する東京交響楽団は、この日ピットでシュトラウスの音楽の神髄を、クソみたいな演出にもかかわらずしっかり聴かせてくれた感謝すべき存在だと思うし、大々絶賛されていい。
ノット監督のもと、シュトラウスオペラを順次演奏してきている経験値や近世の音楽の演奏履歴などを経て、どんな大音響でも混濁せずに聴かせてしまうオケ。
さらに各奏者たちの能動的な演奏姿勢が有機的なサウンドを産み出すというシュトラウスにとってなくてはならない能力も兼ね備える。
ヴァイオリンとチェロ、ふたりのソロも最高でした。
 アルゼンチン出身のオペラ指揮者ペレス氏は、魔弾の射手に次いで2度目ですが、だれることのないスピード感あるテンポ設定と、抒情的な場面では美しく各パートを際立たせるような繊細な音楽造りもありました。
良い指揮者です。

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もやもやする。

ジェイムズ・キングの皇帝を聴き、あの嫌なヤツとなった姿の皇帝をリセットし、聴けなかった皇后の3幕をリザネックとニールントで補完する日曜でした。

最後にもう一言、入りはよくなかったけれど、怒りつつも楽しんだのも事実ですし、二期会さんには、今後も攻めのプロダクションをぜひともお願いします。

追記)
公演前に何種類も聴いた「影のない女」のオーケストラ編幻想曲をあらためて聴いた。
20数分の管弦楽曲ですが、ここでの最後は、オペラと同じく3幕の二組夫婦によるシーンで静かに終わっています。
この曲は、シュトラウス晩年の1846年に、作者自らが選んで編曲した作品です。
シュトラウス晩年の思いも宿っているのではないでしょうか。。。

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2024年10月25日 (金)

R・シュトラウス 「影のない女」交響的幻想曲

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秦野の街を見下ろす小高い山から。

弘法山、浅間山、権現山と3連の山、ここから本当は富士山がきれいに見えるのですが、この日は雲に隠れてました。

奥の山々は丹沢山脈です。
こうして山々に囲まれた神奈川県唯一の盆地の町が秦野です。

秦野はミュージシャンや俳優も多数輩出してまして、ルナシーとか、吉田栄作のほか、俳優やスポーツ選手もたくさん。
あとなんといっても、山田和樹も秦野の出身で、いまや世界のヤマカズとなりつつあります。

ちなみに、吉田栄作の実家は、もとは卸屋さんをやっていて、母の実家は隣町でお店をやっていたので、少年時代の吉田栄作も父親に連れられてしょっちゅう卸しに来ていたそうな。

余談が過ぎましたが、二期会の「影のない女」を観劇に行きます。

まいど大胆な解釈で驚かせてくれるコンヴィチュニーの新演出が目玉ですが、事前に発表されたカットや入替、大胆な設定替えなどを確認するにつけ・・・・・
ま、あしたのお楽しみということで。

今週は前夜祭ということで本編そのものを聴く時間はなかったので、オーケストラ編をいろいろ聴きました。

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  R・シュトラウス 「影のない女」 交響的幻想曲

1917年に完成、1919年に初演のシュトラウスの傑作オペラ「影のない女」。
近年、ヨーロッパでは上演頻度が高くなっていて、その都度、ネットでも聴くことができるので、私のCDと録音ライブラリーも充実の極みとなっております。

1946年にシュトラウス自身の手で、オペラの主要部分やおもなライトモティーフを用いて22分ぐらいの交響的作品が作られました。
こちらの幻想曲も、最近はコンサートで取り上げられることが多くなっていてシュトラウスのもう一つのオーケストラ作品として、たいへん好まれる存在になりつつあります。

第1幕の超カッコいい前奏そのものから開始し、バラク夫妻の優しい旋律に切り替わり、次いで乳母がバラクの妻に見せる黄金やかしずく女たち、若い男の場面となりキラキラする。
かいがいしく働くバラク、そのあとはバラクの優しい愛の歌となり、トロンボーンが歌い、バラクの妻もその思いを今さら知ることになる。
離れ離れのバラク夫妻、声に呼ばれ登っていく、皇帝と皇后も救われ、音楽は感謝と歓喜に包まれる。
ここでは、このオペラのいろんなモティーフがモザイクのように出てきて絡み合うが、さすがの練達のシュトラウスと感じさせる。
やがて、子供たちの声を思わせる柔和な雰囲気がうまく漂いだして、オペラの最後の場面となる。

手持ちの音源

・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団(1970)
・メータ指揮  ベルリン・フィルハーモニー(1990)
・J.テイト指揮 ロッテルダム・フィルハーモニー(1991)
・シノーポリ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ(1995)
・ティーレマン指揮 ウィーンフィルハーモニー(2002)

エアチェック音源

・シュタイン指揮  NHK交響楽団(1987)
・ネルソンス指揮 ケルン放送響(2014)
・ペルトコスキ指揮 フランクフルトhr響(2023)
・ケレム・ハサン指揮 BBCフィルハーモニック(2024)
・ファヴィアン・ガベル指揮 トーンキュンストラ管(2024)
・ウェルザー=メスト指揮 ウィーンフィルハーモニー(2024)

正規音源としては、録音も含めてティーレマンが圧倒的な演奏。
それと美しくしなやかなのがテイトの演奏で、オペラの舞台も感じさせる豊かさがある。
スウィトナーも雰囲気豊かな、まさに晩年の作者とも近かった往年の指揮者ならではの味わいあり

エアチェックでは、シュタインの熱い演奏と、最新のメストとウィーンフィルの豪華な響きが眩い。
今後活躍しそうな若きペルトコスキの演奏も興味深く23歳の青年とは思えない選曲であり、演奏でありました。

曲は、平和に調和のとれたエンディングで静かに終わるが、明日のコンヴィチュニー演出の幕閉めはとんでもないことになるんだそうな・・・

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2023年9月25日 (月)

ヴィオッティ&東京交響楽団演奏会

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休日の土曜、14時でもなく、19時でもなく、18時の開演で間違えそうになったサントリーホール。

「英雄」とタイトルされたふたつの作品の重厚プログラムで、ホールはほぼ満席。

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ひときわ目立つ華麗な花飾りには、ブルガリからの指揮者ヴィオッティへのメッセージ。

そう、イケメンのヴィオッティはブルガリの公式モデルをしているのです。

この日、それ風の外国人美女がチラホラいましたので、そうした関係なのかもしれません。

でも、ヴィオッティはそうした外面的な存在だけではありません、将来を嘱望される本格派指揮者なのです。

2世指揮者で、父親は早逝してしまったオペラの名手、マルチェロ・ヴィオッティ(1954~2005)で、ローザンヌ生まれのスイス人です。
母親もヴァイオリニスト、姉もメゾソプラノ歌手(マリーナ・ヴィオッテイ、美人さん)という音楽一家で、音楽家になるべくして育ったロレンツォ君は、自身も打楽器奏者からスタートしている。
現在はネザーランド・フィル、オランダオペラの首席指揮者として活動中で、ヨーロッパの名だたるオーケストラにも客演を続けている。
海外のネット放送でも、ヴィオッテイを聴く機会が多く、私が聴いたのは、ツェムリンスキーのオペラ「こびと」、「人魚姫」、コルンゴルト「シンフォニエッタ」、ヴェルディ「聖歌四篇」、チャイコフスキー「悲愴」、ドビュッシー「夜想曲」、ウィーンでのマーラーなどなど。
このレパートリー的に、私の好むエリアを得意としそうな気がして、ずっと着目していたところだ。

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  ベートーヴェン   交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」

  R・シュトラウス 交響詩「英雄の生涯」

    ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

     ソロ・コンサートマスター:グレブ・ニキティン

          (2023.9.23 @サントリーホール)

イタリア語由来の「英雄」はエロイカ。
ドイツ語で「英雄の生涯」は、ヘルデン・レーベン。
英雄的テノールということで、ヘルデンテノールがある。
これが英語では、「ヒーロー」になる。

こんな風に「英雄」由来の2作品を並べた果敢なプログラムを組んだ東響とヴィオッテイにまずは賛辞を捧げたい。

冒頭に置いたエロイカ、若いヴィオッテイならガツンと勢いよく、意気込んでくるだろうと思ったら、まったく違って、肩すかしをくった。
軽いタッチで、スピーディーに、サクっと始まったし、そのあとも滑らかに、流れのいいスムースな演奏に終始。
角の取れたソフィスティケートなエロイカは、わたしにはまったく予想もしなかった新鮮なものに感じられた。
くり返しもしっかり行いつつ、力強さとはほど遠い流麗さで終始した1楽章。
音が薄すぎるという点もあったが、わたしは美しい演奏だと思った。
その思いは、デリケートな2楽章に至って、さらに募った。
弱音を意識しつつ、間が静寂ともとれる葬送行進曲は、2階席で急病の方が出たらしいが、見事な集中力でもって聴かせてくれた。
ホルンが実に見事だった3楽章では、若々しいヴィオッテイのリズムの良さが際立ち、ホルンも完璧!
ギャラントな雰囲気をかもし出した終楽章。
メイン主題が木管で出る前、弦4部のソロが四重奏を軽やかに奏でたが、これが実に効果的で、指揮者は棒を振らずに4人のカルテットを楽しむの図で、そのあとに主旋律がサラッと入ってくるもんだから感動したのなんの。
エンディングも勇ましさとは無縁にさらりと終わってしまう。
アンチヒーローとも呼ぶべき美しくも、しなやかなエロイカだった。

後期ロマン派系の音楽を得意にするヴィオッテイのベートーヴェンはこうなるのか、と思いました。

さて、シュトラウスの方のヘルデンは。

これはもう掛け地なしで誰もが認める抜群のシュトラウスサウンド満載の好演。
すべての楽器が鳴りきり、思いの丈をぶつけてくるくらいに、ヴィオッテイはオーケストラを解放してしまった。
エロイカでの爆発不足を補うかのような爽快かつヒロイックな冒頭。
あとなんたってベテランのニキティンの自在なソロにみちびかれ、陶酔境に誘われた甘味なる伴侶とのシーンは、ヴィオッテイの歌心が満載で、これもまた美しすぎた。
闘いにそなえ、準備万端盛り上がっていくオーケストラを抑制しつつ着実にクライマックスに持っていく手腕も大したものだ。
ステージから裏に回るトランペット奏者たち、また帰ってきて大咆哮に参加し、打楽器がいろんなことをし、木管も金管もめまぐるしく活躍し、弦楽器も力を込めてフルに弾く、そんな姿を眺めつつ聴くのがこの作品のライブの楽しみだ。
その頂点に輝かしい勝利の雄たけびがある。
感動のあまり打ち震えてしまう自分が、この日もありました。
 その後の回顧シーン、さまざまな過去作の旋律をいかにうまく浮かびあがらせたり、明滅させたりとするかは、シュトラウス指揮者の肝であろう。
以前聴いた、ノットの演奏がこの点すばらしくて、移り行くオペラのひとコマを見ているかのようだった。
シュトラウスサウンドを持っている同じ東響の見事な木管もあり、ヴィオッテイのこのシーンも実に細部に目の行き届いた鮮やかなもので、過去作メロディ探しも自分的に楽しかった。
このあとの隠遁生活をむかえるしみじみ感は、さすがに老練さはないものの、テンポを思いのほか落として、でもだれることなくストレートな解釈で、まだまだこの先も続くシュトラウスに人生を見越したかのような明るい、ポジティブなさわやかな結末を導きだしたのでした。
すべての音がなり終わっても拍手は起こらず、静寂につつまれたサントリーホール。
ヴィオッテイが静かに腕をおろして、そのあと間をおいてブラボーとともに、大きな拍手で満たされたのでした。

俊英ヴィオッテイの力量と魅力を認めることのできたコンサート。
東響との相性もよく、もちろんシュトラウスは東響と思わせる一夜でした。



OKでたので撮影、喝采に応えて、最後はシュトラウスのスコアをかかげるヴィオッテイ。

おまけ、ブルガリのヴィオッティ。



イケメンもほどほどにして欲しいが、引く手あまたの人気者。
東響の「ポスト・ノット」をウルバンスキとともに目されるヴィオッテイ。
オランダの忙しいポスト次第かと。
そのオランダでは、初ワーグナー、ローエングリンを振るそうだ。

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ふつうのイケてないオジサンは、新橋で焼き鳥をテイクアウトして、東海道線の車内を炭火臭でぷんぷんにさせながら帰ってきて、ビールをプシュッ🍺

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2023年6月25日 (日)

R・シュトラウス 「サロメ」  神奈川フィル演奏会

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音楽監督、沼尻竜典と神奈川フィルハーモニーとのドラマテック・シリーズ第1弾「サロメ」。

みなとみいらいでの神奈川フィルは、実に7年ぶり。

桜木町からの道のりは、変わったようでいて、変わってない。
ロープウェイが出来たことぐらいかもですが、やはり観光客主体に人はとても多い。

昨年11月に世界1のサロメ、グリゴリアンが歌うノット&東響演奏会を聴き、今年4月は、「平和の日」日本初演を観劇し、さらに5月には、世界最高峰のエレクトラ、ガーキーの歌うエレクトラをこれまたノット&東響で聴いた。
そして、これらのシュトラウスサウンドが、まだ耳に残るなか、神奈川フィルのサロメ。
シュトラウス好きとして、こんな贅沢ないですね。

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  R・シュトラウス 楽劇「サロメ」

   サロメ:田崎 尚美      
   ヘロデ:高橋 淳
   ヘロディアス:谷口 睦美   
   ヨカナーン:大沼 徹
   ナラボート:清水 徹太郎 ヘロディアスの小姓:山下 裕賀
     ユダヤ人:小堀 勇介      ユダヤ人:新海 康仁
   ユダヤ人:山本 康寛  ユダヤ人:澤武 紀行
   ユダヤ人:加藤 宏隆   カッパドキア人:大山 大輔
   ナザレ人:大山 大輔    ナザレ人:大川 信之      
   兵士  :大塚 博章    兵士  :斉木 建司
   奴隷  :松下 奈美子

  沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

    首席ソロ・コンサートマスター:石田 泰尚
         コンサートマスター:大江 馨

     (2023.6.23 @みなとみらいホール)

    ※救世観音菩薩 九千房 政光

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ご覧のように、オーケストラを舞台の奥にぎっしりと引き詰め、その前のスペースで歌手たちが歌い演じるセミステージ上演。
P席と舞台袖の左右の座席も空席に。
ヨカナーンは、P席の左手を井戸の中に想定して、そこで歌うから音像が遠くから響くことで効果は出ていた。
字幕もP席に据えられているので全席から見通しがよい。
ステージ照明は間奏や7つのベールの踊りのシーン以外は、暗めに落とされ、左右からのブルーや赤、黄色のカラーで場面の状況に合わせて変化させていたほか、パイプオルガンのあたりには、丸いスポットライトもときに当てられたりして、雰囲気がとてもよろしく、舞台上演でなくてもかなりの効果を上げられたのではないかと思います。

今後予定されているドラマテック・シリーズはこうした設定が基本になるのだろう。
すべての客席から、前面の歌手エリアがよく見えるようになることを併せて願います。

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①この日、もっとも素晴らしかったのはオーケストラだと思う。
神奈フィルをずっと聴いてきて、途中、移動や仕事の不芳などもあり遠ざかった時期があり、本拠地での演奏体験は久方ぶりだった。
お馴染みの楽員さんたちも多数、そして若い楽員さんたちも多数。
ほんとうに巧いオーケストラになったものだと、今日ほど実感したことはありません。
華奢すぎる感のあったかつての神奈フィルは、それが個性で、横浜の街を体現したかのような洒落たオーケストラだった。
現田さんとシュナイト師によって培われた、美音極まりない音色はずっとそのままに、オペラの人、沼尻さんの就任によって、本来もってた神奈フィルの自発的な開放的な歌心あるサウンドが導き出されたと思う。

細部まで緻密に書かれたシュトラウスのスコアは、物語の進行とともに、微細に反応しつつ、リアルに描きつくしてやまない。
ヘロデがサロメの気を引こうと、宝石やクジャクなどの希少な動物をあげると提案すると、音楽はまるで宝石さながら、美しい動物の様子さながらのサウンドに一変する。
私の好きな、サロメとヨカナーンのシーンで、サロメが欲求を募らせていくシーンでも、音楽は禍々しさとヨカナーンの高貴さが交錯。
ガリラヤにいるイエスを予見させるヨカナーンの言葉は、清涼かつ神聖な音楽に一変してしまう。
それでも、サロメはさらなる欲望を口走り、ヨカナーンは強烈な最後通告を行う。
このあたりの音楽の変転と強烈さ、演奏する側は、その急転直下の描き分けを心情的な理解とともに描き分けなくてはならないと思う。
 沼尻さん率いる神奈川フィルは、このあたりがまったく見事で、目もくらむばかりの進行に感銘を覚えたものだ。

このようなシーンに代表されるように、シュトラウスの万華鏡のようなスコアを手中に収め、指揮をした沼尻さんと、それを完璧に再現した神奈川フィルは、ふたたび言うが素晴らしかった。

②日本人でサロメを上演するなら最強のメンバー
田崎さんのサロメは、剛毅さよりさ、繊細な歌いまわしで、シュトラウス自身が「16歳の少女の姿とイゾルデの声のその両方を要求する方が間違っている」と、自分に皮肉を述べたくらいに矛盾に満ちたサロメ役を、無理せず女性らしさを前面に打ち立てた、われわれ日本人にとって等身大的な「サロメ」を歌ってみせた感じに思った。
そんななかでも、数回にわたる首のおねだりの歌いまわしの変化は見事で、ラストの強烈な要求は完璧に決まった感じだ!
長大なモノローグも美しい歌唱で、このシーンでは恋するサロメの純なる心情吐露なので、沼尻指揮する極美で抑制されたオーケストラを背景に、煌めくような歌声だった。

田崎さんとともに、先月のエレクトラで待女役のひとりだった谷口さん。
わたしの好きな歌手のおひとりで、ソロアルバムもかつて本blogで取り上げてます。
アリアドネ、カプリッチョなど、おもにシュトラス諸役で彼女のオペラ出演を聴いてきましたが、こんかいのヘロディアスも硬質でキリリとした彼女の声がばっちりはまりました!ステキでした!
谷口さんのCDに、神奈フィルのクラリネット奏者の斎藤さんが出ておりますのも嬉しい発見でした。→過去記事

福井 敬さんの代役で急遽出演した高橋さんは、ヘロデを持ち役にしているし、キャラクターテノールとしての役柄で聴いた経験も多い歌手。
役柄になりきったような明快な歌唱と、その所作はベテランならではで、舞台が引き締まりましたね!

P席から歌った大沼さんのヨカナーンは、高貴な雰囲気がその声とともに相応しかったが、井戸から出されて、舞台前面でサロメと対峙するとなると、声がこちらの耳には届きにくかった。
また井戸に召喚されると、またよく通る。輝かしいバリトンのお声なのに、ホールによっては難しいものだ。

気の毒なナラボート役の清水さん、恋する小姓役の山下さん、よいです!
ほかのお馴染みの名前やお顔のそろった二期会の層の厚さにも感謝です。

③この1か月の間に、ミューザとみなとみらいで、ふたつのシュトラウスオペラを聴いた。
どちらも響きのいいホール。
その響きが混ぜ物なくストレートに耳に届く「ミューザ」。
その響きそのものが音楽と溶け合ってしまうかのような「みなといらい」。
どちらも長らく聴いてきて好きなホールだけれども、いまは「ミューザ」の方が好きかも。
でも「みなといらい」にはいろんな思い出もあり、脳内であの響きが再生可能なところも愛おしい。

ノットの次のシュトラスは「ばらの騎士」のはず。
神奈川フィルは、次は・・・。
勝手に予想、フィガロ、オランダ人、トスカ、夕鶴・・・、な~んてね。

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終演後は西の空が美しく染まってました。

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久しぶりだったので、パシャリと1枚。

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野毛に出向いてひとり居酒屋をやるつもりだったけど、いい時間だったし、もうそんな若さもないので、サロメで乾いた喉は、お家に帰ってから潤しました。

【サロメ過去記事】

「サロメ 聴きまくり・観まくり」

「グリゴリアン&ノット、東響」

「二期会 コンヴィチュニー演出 2011」

「ドホナーニ指揮 CD」

「ラインスドルフ指揮 CD」

「新国立劇場 エヴァーディンク演出 2008」

「ショルティ指揮 CD」

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2023年5月23日 (火)

R・シュトラウス 「エレクトラ」

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今年の花の巡りはとても早くて、ここ南関東ではツツジは連休前には咲き乱れて終わってしまいました。

加えて、真夏のような暑さも連休明けからあったりして、はやくもぐったり。

爽やかなな晩春~初夏の趣きはなくなってしまった。

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でも、今年のツツジの色は濃く、鮮やかだった。

3月から、先だってのノット&東響の実演まで、「エレクトラ」を数々聴きまくりました。

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本blog2度目のシュトラウスのオペラ全曲シリーズ。
4作目の「エレクトラ」。
シュトラウス44歳、1908年の完成。
「サロメ」と連続して書かれ、オーケストラ作品では、「家庭交響曲」と「アルプス交響曲」の間にある。

ギリシア三大悲劇詩人ソフォクレスの「エレクトラ」を演劇化したホフマンスタールの台本によるもので、ここからホフマンスタールとの完璧なるコラボが生まれ、名作を次々と編み出すことになる。
サロメは旧約聖書、エレクトラはギリシア悲劇、ともに不貞の肉親が絡み、殺害もある。

モーツァルトの「イドメネオ」に出てくる、いつも怒っているのが「エレクトラ」は同じ人物。
ミケーネ王である父アガメムノンを、その妻クリテムネストラと不倫を結んだエギストらに殺された、長女エレクトラが父の敵を討つという復讐劇と。
気が弱く女性的な妹クリソテミスと、復讐の実行犯になる姿を隠してを帰還する弟オレスト、エキセントリックで夢見心地のエレクトラ3姉弟の対比も鮮やか。
サロメより舞台に出ずっぱりで、しかもよりドラマテックな強い声を要すエレクトラ役はオペラの難役のひとつでしょう。

サロメより不協和音や激しい響きに満ちていて、甘い旋律や、陶酔感に満ちた響きも次々に現れるから、ワーグナーの延長、さらにはマーラーやシェーンベルクなどを聴き慣れた現代の聴き手からすると聴きにくい音楽ではない。

116名の巨大な編成を要するオーケストラは、サロメに続いて当時、いろんな比喩やカリカチュアを生んでいる。

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サロメに続いて似たような題材をあえて選択したシュトラウスは、明朗・晴朗なギリシャの世界ではないものをここに描きたかった。
緻密な作風はさらに進化し、ライトモティーフも複雑極まりなく、ときに音楽はエキセントリックで禍々しく、強烈極まりない。
一方で、情熱的な高揚感はサロメの比でなく、その意味ではシュトラウスの音楽のなかで最高に熱いものだと思う。
ここしばらく、エレクトラを聴きまくり、その思いはとどめになったノット&東響の演奏会で決定的となりました。

 シュトラウスは、ワーグナーを信望しつつ、その作風はワーグナーと違う次元に、このエレクトラで立ったと語っている。
不協和音の多用と無調に至るすれすれの音楽。
さらには歌唱も、まるでオーケストラの一員のようにレシタティーボ的に存在しなくてはならないし、一方オーケストラと対比しつつ、装飾的な存在とオーケストラの伴奏を受ける際立つ存在となるように書かれている。
 だから、シュトラウスは、サロメとエレクトラは、メンデルスゾーンの妖精の音楽のように軽やかに演奏しなくてはならないと、若い指揮者に向けて極めて実現の難しい金言を残している。
この言葉を実際の演奏で実現したのは、ミトロプーロスとベーム、サヴァリッシュ、アバド、そしてウェルザー・メストだと思います。

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ソフォクレスの原作悲劇にある、このオペラの前段のなかには、オペラで触れられてないこともあります。

クリテムネストラには前夫がいて、その美貌にほれ込んだアガメンノンにより前夫は戦死に追い込まれる。
さらに長男も復讐を恐れたアガメンノンに殺害される。
母クリテムネストラとその夫アガメンノンの従弟エギストは、かねてより不倫関係だった。
クリテムネストラにはほかに娘もいたが、アガメンノンの戦争必勝祈願の生贄にされてしまう。
こうしたくだりが、クリテムネストラがアガメンノンを憎悪して、ことに及んだ動機でもある・・・・

こうしたエピソード活かした舞台が、2020年のザルツブルク、ワリコフスキ演出だと思う。
オペラが始まるまえ、クリテムネストラ滔々と怒りを込めて語るシーンがある。

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「エレクトラ」は1幕ものですが、7つの場面からなりたってます。
さらにこの7つは、大きな単一楽章とみることで、シンメトリー的なシンフォニックな存在として、起承転結の4つの楽章としても捉えることができます。
このあたりは以前読んだ、金子健志さんのプログラムノートの受け売りです。

Ⅰ ①待女たちによる前段の説明、プロローグ
  ②エレクトラの父への思い、回想、仇討ちの決意
  ③エレクトラとクリソテミスと対話

Ⅱ ④生贄の行進、クリテムネストラとエレクトラの対話、
   母の悩み、
エレクトラの夢判断と母娘の決裂

Ⅲ ⑤オレストの訃報とエレクトラの決意
   クリソテミスへのダメだし

  ⑥エレクトラとオレストの邂逅

Ⅳ ⑦クリテムネストラ、エギストの殺害、姉妹の勝利
   エレクトラの歓喜の踊り

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【聴きどころ】

待女たちはクリテムネストラの配下だから、エレクトラをくさすわけだが、なかにひとり、エレクトラを讃える待女がいる。
その同情あふれる歌とオーケストラの音色の変化を確認。

有名な「Allein」で始まる長大なモノローグ。
だれも、いない、ひとりっきりだ・・・
この楽劇の全貌をこのシーンが要約している。
アガメンノーーン、父の殺害の回顧と妹弟と3人でこの恨みを晴らして、最後は勝利の踊りをしましょうぞ!

姉と妹の性格の違いの際立つシーン。
なんといっても、クリソテミスが子供を産んで普通の女性として暮らしたい、という歌唱シーンがすばらしすぎで大好き。

禍々しい生贄行進の音楽。ベームの映像を観ると、リアルすぎてキモイが・・・
クリテムネストラは呪いや魔除けの宝飾をたくさんつけていて、音楽もそんな雰囲気を醸し出し、さすがシュトラウス。
苦悩のクリテムネストラの独白~エレクトラが相談に応じ、徐々に核心に迫る~エレクトラはついに殺害されるだろうと予告
この3つシーンの流れにおける音楽の推移もまったく見事で、心理描写にぴったりと付随していて、音楽は新ウィーン楽派の領域にも通じたものを感じる。
エレクトラの爆発はここでも強烈だ。(それに反比例する弟の死を聞いた母の不気味な高笑い)

意図的にまかれたオレストの訃報に、いよいよ自分たちでやらねばと妹に迫るエレクトラは、決心できない妹に呪われよ!と絶叫。
どのシーンでも最後には怒って、すごんでしまうが、ほんと歌手はたいへんだ。

オレストとの再会は、その名を3度呼ぶが、いずれもその表現が変わる。
強かったエレクトラが女性らしさも見せるステキなシーンだ。
ロマンティックな音楽は、のちのシュトラウスのオペラの前触れで、ばらの騎士やアリアドネ、アラベラにも通じるものと思う。

クリテムネストラは今度は笑いでなく、断末魔の叫びを2発!
サロメのヘロデ王のような、すっとこどっこいじゃないけれど、なにもしらないエギストはやはり間抜けな存在として、妙に軽いタッチの音楽になっていて、殺られちゃうのに気の毒なくらい。
性格テノールからヘルデンまでがエギストを歌うが、もう少し聞かせどころが欲しかったと思うのは私だけ?
しかし、この場面の音楽は「ばらの騎士」のオクタヴィアンとオックスのやり取りを想起させたりもする。

 同時に起きた政権転覆の騒ぎに、姉妹は興奮。
その歓喜の爆発を維持しつつ、オーケストラはエレクトラの踊りで熱狂的となり、これまた聴き手は、シュトラウス・サウンドを聴く喜びの頂点を味わうことになる!
最後は楽劇冒頭のアガメンノンの動機が投げつけられるようにして愕然と終了!
サロメと同じく、急転直下のエンディングのかっこよさ!

【CD編】

①ショルテイ&ウィーンフィル(1966~7)

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 カルショウのプロデュース、リングのあとにエレクトラ。
 さらにこの翌年からばらの騎士を録音。
 サロメよりも、いっそう切れ味と爆発力の増したショルテイ。
 ウィーンフィルの音色は刺激臭なく見事に緩和。
 サロメと同じく、ニルソンの声で刷りこまれたエレクトラ。
 怜悧たる声とレンジの広さ、安定感など、ニルソンの代表的な録音だろう。
 ジャケットも怖いが、これが刷りこみイメージに。
 ニルソン、コリアー、レズニック、シュトルツェ、クラウセ

②ベーム&ドレスデン(1960)
 エレクトラを生涯、指揮し続けたベーム。
 録音はさすがに古くなったが、刺激的な表現はなく音楽的で純度高い。
 ドレスデンの古風な音色も悪くない。
 さらに素晴らしいのがボルクの声。
 少しも古めかしくなく、いまでも全然新鮮だし。
 alleinの登場時から漂う大女優のような品もある雰囲気は好き。
 マデイラの妹は可愛い、画像調べたら美人すぎてびっくりした。
 ボルク、マデイラ、シエヒ、ウール、Fディースカウ

③ベーム&ウィーン国立歌劇場(1967)
 モントリオール万博へのウィーンの引っ越し公演のライブ。
 大阪万博の3年前、やはり外来の音楽イベントはたくさんあった様子。
 モノラルだし、舞台の声の音像は遠い。
 そんな状態でもニルソンの強靭な声はよく通って聴こえる。
 ライブならではで、燃えるベームも最終場面では興奮状態に陥る。
 ニルソン、リザネック、レズニック、ウール、ニーンシュテット

④ベーム&メトロポリタン(1971)
 メトにたびたび来演していたベーム。
   アーカイブ見てたら1957年にドン・ジョヴァンニでMETデビュー。
 78年まで、毎年のように客演して様々なオペラを指揮してます。
 マイスタージンガーやローエングリンも、ヴォツェックも普通にやってる。
 驚きはオテロまで振ってる。
 こちらはモノながら録音もよく、歌手もオケも実によく聞き取れる。
 金管はアメリカンで、明るく野放図だがベームも思い切り鳴らしている。
 ここでもニルソンの声は際立ち、オケを圧してしまうその声がよくわかる。
 リザネックの優しいクリテムネストラもよくて理想的。
 マデイラがクリソテミスなのも豪華。
 まさにMETならでは。
 ニルソン、リザネック、マデイラ、ナギー、ステュワート

⑤小澤征爾&ボストン響(1998)
 われらが小澤さんのボストン時代の代表作のひとつ。
 エレクトラを得意にした小澤さん、新日フィルで1986年に聴きました。
 その後も、オペラの森、ウィーン時代もシュターツオパーで上演してる。
 オケがさすがに巧いのとライブだが、録音の良さにも安心感あり。
 重さや刺激臭少なめ、ついでに毒気なしの洗練されたシュトラウスサウンド。
 さすがに小澤さん。
 ベーレンスの烈女というより、意志を持ったひとりの女性といった表現。
 新鮮でユニークで聴き疲れない。
 ルートヴィヒの存在感も貴重な録音。
 ベーレンス、セクンデ、ルートヴィヒ、ウルフング、ヒュンニネン

⑥バレンボイム&ベルリン・シュターツオパー(1995)
 バレンボイムの演奏には、強烈さはなし。
 オーケストラの響きは見事にコントロールされ、耳に心地よく明るい。
 かつても克明なベルリン・シュターツカペレの姿はもうない。
 95年には、新鋭だった歌手ばかりだが、その後大成していったメンバー。
 ポラスキのタイトルロール、マークのクリソテミス。
 シュトルクマンのオレストと、さらにボータのエギストらがそれにあたる。
 バイロイトで活躍した故ヴォトリヒまでちょい役で登場。
 みんな素晴らしい。そして要が、マイアーのクリテムネストラのすごさ。
 (過去記事より)

⑦シノーポリ&ウィーンフィル(1995)
 
Elektra-sinopoli
 
 ウィーンフィルの絶叫しない音色を自在に操る。
 そして見事なまでのクライマックスと熱狂を導き出す。
 エギストが現れてからの後半の盛上げ方なんぞ素晴らしいの一言につきる。
 義父・母が逝ってしまってからの熱狂と、最後の強烈なエンディング!! 
 ウィーンフィル最高。
 スターを揃えたキャストに文句なし。
 圧倒的なパワーとキレのよさを聴かせるマークのエレクトラ。
 同様にドラマテックだが、優しい声の持主ヴォイト
 このアメリカン巨大コンビは、ちょいと聴きもの。
 さらに、マッチョな
レミーのエギストも、シリアスすぎて怖いくらい。
 シュヴァルツイェルサレムの唯一ドイツ・コンビ。
 生真面目に歌っていて、不可思議ないやらしさが出ているように思う。


【録音篇】

①スウィトナー&ベルリン国立歌劇場(1967)
 youtubeから発掘、音悪くない。
 旧東側のベルリンサウンド、スウィトナーの顔が浮かぶ
 スティーガー、ドヴォルジャコヴァ、メードル、スウォルク、グルーバー

②シュタイン&ウィーン国立歌劇場(1977)
 ウィーンでの日常の上演のひとコマ。
 ベームのようなシュタインの熱い指揮。
 80年に日本に持ってきたW・ワーグナーのプロダクションか。
 シュレーダーファイネン、ジョーンズ、ルートヴィヒ、バイラー、アダム
 配役が素敵だ。

③ウェルザー・メスト&クリーヴランド(2004)
 快速メストの20年前のエレクトラ。
 優秀なオーケストラを得て、解像度も抜群でスコアも浮き彫りに
 クリーヴランドのシェフも長く、コンサートオペラも毎年。
 ブリューワー、ガスティーーン、パーマー、ローヴェ、ヘルト

④マゼール&ニューヨークフィル(2008)
 youtubeからの贈り物。
 NYPOが音源を無償で解放していた時期のものか?
 テンション高し、粘り多し、おもろい。
 さすがはマゼールで、オケも抜群に巧く、CD化希望。
 ポラスキ、シュヴァンネヴィルムス、ヘンシェル
 マージソン、トーヴェイ

⑤ネルソンス&ロイヤルオペラ(2013)
 ダイナミズムを活かし、局面の各所では大見えを切るネルソンス!
 構えの大きさ、腰の低いところでの重厚さはシュトラウスの明澄さ不足。
 なれど、音楽の迫真さと引き込む力は強し。
 ガーキーの同役を聴いた一号。
 強烈さはあるも、発声が好きになれなかった。
 ガーキー、ピエチョンカ、シュスター、ディディク、ペテルソン

⑥ビシュコフ&BBCso(2014)
 
Goerke

 プロムスでのコンサート形式。
 テンション高し、ビシュコフとBBCの相性よし、観衆の反応よし。
 ガーキーもめちゃ拍手を浴びていて、アルバートホールをうならせた。
 パワーに依存し、やはり喉を揺らすような声が時おりでる。
 効果のための表現と、自分には感じたアメリカン的なわかりやすい歌唱。
 ガーキー、バークミン。パーマー、クーンツェル、ロイター

⑦サロネン&メトロポリタン(2016)
 映像分に同じく、そちらでコメント

⑧ビシュコフ&ウィーン国立歌劇場(2020)
 
 Elektra-wien

 2015年に始まったラウフェンベルクの演出。
 コロナ禍のストリーミングで視聴したが、演出は好きになれない。
  エレベーターで上下する地下に押しこめられたエレクトラ。
 上階の連中との対比。
 エギストの殺害はエレベーター内で丸見え。
 殺害されたクリソテミスが血みどろでエレベーターを上下する。
 こんな気分悪い演出は、2020年に取下げられた。
 いまはアバドのときのクプファー演出がウィーンのエレクトラ。
 ここでもウィーンフィルの魅力。
 ビシュコフのまっしぐらな指揮もよし。
 ガーキーもウィーンで成功、パワー頼みだけど、細やかな歌唱も目立つ。
 過剰な表現は収まりつつあることを確認できた。
 ガーキー、シモーネ・シュナイダー、マイヤー、フォレ、エルンスト

⑨ウェルザー・メスト指揮ウィーンフィル(2020)
 映像分に同じく、そちらでコメント

【映像篇】 

①ベーム&ウィーンフィル(1981)

Elektra-bohm

 ベームの白鳥の歌はエレクトラだった。
 シネマとしてのG・フリードリヒ演出は、最大公約数を描いたもの。
 亡くなる直前のベームの指揮は、優秀な音質にして出して欲しい。
 最後の演奏が、なぜにウィーンとエレクトラだったかを音で確認したい。
 リザネック、リゲンツァ、ヴァルナイ、FD、バイラー
 リザネックの迫真の歌唱と演技。
 みんな大好き、音源少ないリゲンツァの動く姿。 
 超レジェンドのヴァルナイの禍々しさと、バイラーの老いたヘルデン。
 ぎらぎら・びんびんのFD。
 なにもかも貴重な記録なエレクトラ。

②アバド&ウィーン国立歌劇場(1989)
 
Elektra_abbado

 アバドの唯一のシュトラウスオペラとなった。
 オケを抑えて音量も色彩もあえて控えめにしたアバド。
 それに対するウィーンの観客の評価は、クプファー演出とともに厳しかった。
 アバドらしい演奏だし、音源だけでの復刻もして欲しい。
 95年のベルリンフィルとの演奏も出て来ないものかな。
 アガメンノンの顔らしきものを舞台にしたクプファー演出は暗い。
 歌手は豪華だが、ベルリンのときのポラスキで聴きたい。
 マルトン、ステューダー、ファスベンダー、グルントヘーパー、キング
 ステューダーが断然すばらしい。

③ガッティ&ウィーンフィル(2010)
 ここでもウィーンフィル、ウィーンフィルだらけなのだ。
 ガッティの適度に荒れて、力強さとスマートさもある指揮がいい。
 顔のドアップばかりで、全体像のつかみにくい映像にフラストレーション。
 みんな顔がすごいんだよ。
 とくにテオリンさま。
 そのテオリン、言葉が不明瞭だが、やはり威力は満点。
 ここでもマイヤーが味がある。
 レーンホフの演出は、いつものようにダークな感じで、得意の白塗りも。
 ラストのクリテムネストラの宙づり遺体には興ざめだな。
 テオリン、ウェストブロック、マイヤー、ガンビル、パペ
 
④サロネン&メトロポリタン(2016)
 
Elektra-met-2

 サロネンのクールかつ激熱なオーケストラが素晴らしい。
 故シェローの演出は、ビジュアル的には渋く静的な感じ。
 極めて演劇的で、個々の歌手たちに求められる演技力。
 指一本に至るまで厳しい指導があったものと思われる。
 悪の権化みたいな母と、娘エレクトラの母娘の情も。

 これを表出した秀逸な解釈。
 他の多くの出演者も、みんな演者として細かに機能してる感じ。
 バイロイトのリングで革命的な演出をなしたシェローの行き着いた先。
 それはもしかしたら、歌舞伎や能の世界かもしらん、しらんけど。
 マイヤーさんと、シュティンメさんが素敵すぎました。
 ピエチョンカ、ウルリヒ、オーウェンス

⑤ウェルザー・メスト&ウィーンフィル(2020)

Elektra-most

 ワリコフスキの驚きの演出、しかし納得感あり。
 生贄感を漂わせる実験病棟のような空間が舞台。
 そこで足を清め、殺菌したりするような足湯が中央に。
 エレクトラは花柄ワンピース、妹はピンク皮のミニスカスーツ
 ちょっと病んでる感じの姉に、不満で一杯、積極的な妹
 姉と妹が、その行動も、ともに入れ替わっている。
 義理父は本気で殺され、実母は足を清め、丁寧に弔う。
 実行犯を見た弟は、頭を叩かれおかしくなってしまう・・・
 いやはや、驚きの演出だった。
  でもね、ホフマンスタールとシュトラウスはそこは採用しなかった。
 そこを持ちこんだことは賛否あるし、ここまで手を突っ込んでいいのか
 そんな風にも思うが・・・でも新鮮ではあった。

Elektra-salz

 メストとウィーンフィルの俊敏で繊細なオケ。
 ストゥーンディテの没頭感あるエレクトラ。
 歌も演技も本物、オケを突き抜けるグリゴリアン。
 エグいけど、母親らしいバウムガルトナー。
 ローレンツ、ウェルトンの男声もよい

⑥ノット&スイス・ロマンド(2022)
 ジュネーヴ大劇場のピットに入るスイス・ロマンド。
 おのずとその首席もピットに立つ。
 ノットはジュネーヴで実際の上演をしてから東京に来る
 今年12月には「ばらの騎士」が予定されている。
 ここでのノットの指揮は、かなり抑制的だったが、テンポは速い。
 だが、緊張感や迫力は東響の方が上だ。

Elektra-nott-01

 ウルリヒ・ラッシュという人のヘンテコな演出というか装置。
 土星のような巨大な輪っかが常に回っていて、歌手はそこで歌う。
 命綱もついていて、正直歌手はたいへんだと思う。
 黒づくめのダーティな舞台でわけわからなかった。
 ちゃんとした舞台でやって欲しかったいい歌手たち。
 スウェーデンのブリンベリはよきドラマティックソプラノ。
 ミンコフスキのオランダ人でゼンタを歌ってる。
 ヤクビアク、バウムガルトナーの女声もよい。
 ロウレンツ、シェミレディの男声は渋い。

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2022年2月の上演。

今年2023年の春には「パルジファル」をやったみたいです。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

たくさんのエレクトラを視聴し、歩いていてもエレクトラの色んな旋律が頭をめぐるようになりました。
この作品から2年後には「ばらの騎士」が生まれるなんて、信じられないと以前は思っていたけれど、こんだけエレクトラを聴くと、各処にばら騎士の萌芽を確認することもできました。

再びシュトラウスのオペラの私の作成した一覧を。
われながら、時おり見返しては視聴の参考にしてる。
わかること、それはホフマンスタールは偉大だったし、最高のコンビだったということ。

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次のシュトラウスは、もう何度も登場、「ばらの騎士」です。

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2023年5月14日 (日)

R・シュトラウス 「エレクトラ」ノット&東響

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ジョナサン・ノットと東京交響楽団のシュトラウス・オペラシリーズ第2弾、「エレクトラ」。

サロメの時と同じく、2公演の一夜目、ミューザ川崎にて観劇。

翌々日のサントリーホールは完売とのこと。

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 R・シュトラウス 楽劇「エレクトラ」

    エレクトラ:クリスティーン・ガーキー
    クリソテミス:シネイド・キャンベル=ウォレス
    クリテムネストラ:ハンナ・シュヴァルツ
    エギスト:フランク・ファン・アーケン
    オレスト:ジェームス・アトキンソン
        オレストの養育者:山下 浩司
    若い召使 :伊達 達人
    老いた召使:鹿野 由之
    監視の女  :増田 のり子
    第1の待女:金子 美香
    第2の待女:谷口 睦美
    第3の待女:池田 香織
    第4の待女:高橋 絵里
    第5の待女:田崎 尚美

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
              二期会合唱団

    演出監修:サー・トーマス・アレン

       (2023.5.12 @ミューザ川崎シンフォニーホール

前作サロメに比べると、日本では格段に上演頻度が下がるエレクトラ。
サロメ以上に、オーケストラメンバーを要してさらに大編成となり、歌手陣も女声ばかり、多くなった。
加えて、劇中の肉親への殺害シーンがあるので、似た筋建てのサロメよりはより残虐になってしまった。

エレクトラの日本初演は、1980年のウィーン国立歌劇場の来演。
そのあと、1986年の小澤征爾指揮で新日フィルのコンサート形式上演、1995年のシノーポリとドレスデンのコンサート形式。
若杉弘&都響(1997)、デュトワ&N響(2003)とコンサート形式演奏が続き、2004年の新国立劇場、2005年の小澤のオペラの森上演。
16年ぶり演奏が、このたびのノット&東響です。
こうしてみると、8回の演奏機会のうち、舞台上演は日本では3度だけなのですね。
今回、最高の演奏を聴くことができて、舞台にぜひとも接したいと思う次第です。
ちなみに、わたくし、小澤さんの新日での演奏を聴いてまして、簡単な舞台を据えての日本語訳上演だったと記憶しますが、小澤さんの抑えに抑えた抑制された指揮ぶりが思い起こせます。

このたびのエレクトラ、なんといってもいまエレクトラ歌手としては、世界一とも言われるクリスティーン・ガーキー。
その圧倒的な声と歌唱に驚かされ、会場の聴衆のまさに息をのむような瞬間が続出しました。
連続する7つの場面の、最初の待女たちによる物語の前段以外、ずっと舞台に立ち続け、歌い続けなくてはならないエレクトラ。
咆哮するオーケストラに対峙するように、その上をいくように声をホールに響かせなくてはならない難役、しかもオーケストラはピットでなく、舞台の上。
昨年のグリゴリアンのサロメもオケに負けない声を飛ばす能力にあふれていたが、ガーキーのエレクトラはまさに、パワーそのもの。
エレクトラが決意を歌い上げたり、母を攻めたり、妹に復讐を迫ったり、弟と歓喜を分かち合ったり、最後には念願成就で爆発したりと、都合5回もエレクトラには絶唱部分があり、それらがみんな鳥肌ものの歌唱だったのがガーキーさんだ。
ガーキーのエレクトラは、海外の放送をいくつも聴いており、2013、2014、2020年のものがある。
これらと比べ、さらにはメットでのブリュンヒルデも含め、私は彼女の発声、とくに喉の奥を揺らすような独特のビブラートがあまり好きではなかった。
その特徴は、ルネ・フレミングにも通じていた雰囲気だ。
しかし、実演を聴いて、ガーキーの声からそうした揺らしは霧消したように感じ、声はよりストレートになったやに感じましたがいかに。
アメリカンな体形の彼女だけれど、その眼力を伴った演技もなかなかで、トーマス・アレン卿のシンプルで的確な演出に味わいを添えてました。
ちなみに、ガーキーさん、滞在中に千葉の震度5の地震を体験してしまい恐怖を味わってしまった様子。
彼女のSNSでは「WHOOP WHOOP WHOOP EARTHQUAKE」と驚愕されてました!

ダークグリーンのドレスのエレクトラ、それに対比して鮮やかなレッドのドレスの妹。
クリソテミスのキャンベル=ウォレスの素晴らしい声にも驚いた。
まっすぐな声で、こちらも耳にビンビン届くし、情熱的な表現も申し分なく、この役の女性らしさもいじらしく、平凡な生活を送りたいと願う場面では感動のあまり涙ぐんでしまった。
このあたりのシュトラウスの音楽は実に見事なものだ。
彼女のジークリンデあたりを聴いてみたい。

レジェンド級のメゾ、ハンナ・シュヴァルツのクリテムネストラは、79歳という年齢を感じさせない彼女の健在ぶりに舌を巻き、逆に苦悩に沈む姿を淡々と歌い、その味わい深さは忘れがたいものとなった。
憎々しい役柄だけど、母の姿も見せなくてはならないが、老いた母の娘の言葉にすがる様子は素晴らしく、ガーキーとの静かな対話が感動的。
シュヴァルツさんは、数々のフリッカ役、ブランゲーネ、アバドとのマーラーなど、いずれも私も若き日々から聴いてきた歌手。
これだけでも忘れがたい一夜になったと思ってる。

ヘロデ王にも通じる素っ頓狂なロール、エギストだけれど、もっと歌ってもらいたいと思ったのがファン・アーケンの声。
トリスタンもレパートリーに持つアーケンさん、バイロイトでタンホイザーを歌っていたようで、調べたら私も録音して持ってました。
エギストの断末魔は、コンサート舞台だと、袖から出たり入ったりでやや滑稽だったがしょうがないですね、すぐに死んでしまう風に書かれてないので。

若いアトキンソンのオレスト、美声だけれど、オケにやや埋もれがちだった。
この声で、英国歌曲などを静かに味わいたいものです。

5人の待女に、日本のオペラ界の実績あるスターが勢ぞろいした贅沢ぶり。
禍々しいオペラのプロローグが引き締まりましたし、エレクトラに唯一同情的な第5の待女の存在も、これでよくわかりました。
いろんなオペラで必ず接しているのは、男声陣も同じくで、安心感ありました。

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ノットと巨大編成の東京交響楽団。
サロメ以上の大音響を一点の曇りもなく、クリアーの聴かせることでは抜群。
場をつなぐ、いくつかのシーンでは、リミッター解除ともいう感じで、ガンガン鳴らしてまして、これまさにシュトラウスサウンドを聴く喜びを恍惚ととにに味わいました。
一方、緻密で精妙だったのがエレクトラとクリテムネストラとの会話で、シュヴァルツの老練な歌いぶりに合わせたもので、耳がそば立ちましたね。
あと、感情的な爆発のシーンも思い切りオーケストラを歌わせ、そのピークのひとつ、姉と弟の邂逅のシーンでの陶酔感は鳥肌ものでした。
コンマスのひとり、ニキティンさんを第2ヴァイオリントップに据えたことも、ソロや分奏が多くあるシュトラウスのスコアを反映してのもので、オケがいろんなことをしているのを見つつ、歌手と字幕を目まぐるしく見渡すことに忙しさと快感を覚えました。
ヴィオラが2度ほどヴァイオリンを持ち換えで弾くシーンがあると事前に読んでいたが、実はそれはわかりませんでした。
ちょっと気になる。

ということで、このコンサートに備え、昨年のサロメいらい、手持ちのエレクトラ音源と映像20種以上をずっと確認してました。
そのあたりの仕上げを次回はしようと考えてます。
しばらく、頭の中がエレクトラだらけとなります。

次のシュトラウスシリーズは、何になるのかな?
無難に順番的に「ばらの騎士」か?
いきなり、「影のない女」を期待したいがいかに。



大喝采のミューザの模様。
youtubeに動画をあげました。

満員の東海道線に乗り帰宅。
乾いた喉をビールで潤し、狂暴なまでに空いたお腹をラーメンで満たし、エレクトラをまた聴きました。

Elektra-03

若い頃なら終演後は、街へ繰り出し一杯やったものですが、もう若くない自分はもうこれで十分。
耳もお腹もご馳走さまでした。

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2023年4月14日 (金)

R・シュトラウス 「平和の日」 二期会公演

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日曜の午後の渋谷。

信号が変わるたびに、この群集が渡る光景、駅へ向かう人以外はいったいどこへ?

わたしのいまいる小さな町の人口ぐらいの人数がここにあるくらいだ。

学生時代を過ごしたワタクシの昭和の渋谷は、もう見る影もない。

隅々まで知っていたのに、迷子になってしまう。

人をかき分けて、この日はオーチャードホールへ。
最愛の作曲家シュトラウスのオペラを観劇に、苦難をもろともせずに向かう。

この多くの人々は、平和と自由を享受し、危機と、もしかしたら来るかもしれない苦難という言葉は知らないようだ。

Friedenstag2023

       R・シュトラウス 「平和の日」

  司令官:小森 輝彦  マリア :渡邊 仁美
  衛兵 :大塚 博章  狙撃兵 :岸浪 愛学
      砲兵 :野村 光洋  マスケット銃兵:高崎 翔平
  ラッパ手:清水 宏樹 仕官  :杉浦 隆大
  前線の仕官:岩田 建志 ピエモンテ人:山本 耕平
  ホルシュタイン人 包囲軍司令官:狩野 賢一
  市長 :持齋 寛匡  司教  :寺西 一真
  女性の市民:中野 亜維里

 準・メルクル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
           二期会合唱団
       合唱指揮:大島 義彰
       舞台構成:太田 麻衣子
       (カヴァー マリア:冨平 安希子)

         (2023.4.9 @Bunkamura オーチャードホール)

日本初演、アジア圏初演、2日目に観劇してきました。

舞台にあがったオーケストラの前に、簡易な装置を据えたセミステージ上演。

わたしにとって、シュトラウスはヨハンでなくてリヒャルト、そしてリヒャルトはオペラ作曲家です。

15作あるオペラの12作目。
主要な管弦楽作品はとっくに書き終えていて、オペラ以外では、かの明朗なるオーボエ協奏曲や二重協奏曲、メタモルフォーゼンなどが残されているのみ。
オペラでは、タイトルとは裏腹な、言葉の洪水のような「無口な女」の半年あと、1936年6月の作曲が「平和の日」。
本作以降が「ダフネ」(1937)、「ダナエの愛」(1940)、「カプリッチョ」(1941)となります。

このシュトラウス作品の流れで「平和の日」を捉えてみると感じるのは、シュトラウスらしからぬ表層感といきなりの平和賛歌の唐突感。

もう15年も前の弊ブログ記事で、作品の成り立ちやドラマはご確認いただけましたら幸いです。

「平和の日 シノーポリ盤」

CD1枚サイズのオペラを本格舞台で上演するにはコスト的にも大変。
シュトラウスが想定した「ダフネ」とのダブルビルトも集客的にも難しい。
ということで、今回の二期会セミステージ上演はその点でまず大成功。

そして独語上演では歴史と伝統のある二期会の公演、スタッフも協力者もすべてにおいてシュトラウス演奏に適材適所の安心の布陣。
舞台奥に紗幕的なスクリーンを配置し、そこにドラマの進行にあわせてイメージ動画が流れる。
30年戦争当時の神聖ローマ帝国らしき地図や、戦端の模様、教会の鐘など、音楽とドラマに巧みにリンクしていてわかりやすかった。
ただ最後の地球は、正直、新味に乏しく、各国の平和の文字であふれるところもうーーむ、という感じだった。
思えば、地球で平和裏に終わる演出は、これまでいくつ見てきただろうか。
パルジファル、キャンディードなどが記憶にあり。

その紗幕の向こうに合唱が配置。
びっしり並んだオーケストラを指揮する準・メルクル氏に、歌手たちはその指揮者に背を向けて歌うわけで、オペラ上演と真反対。
舞台袖上部に指揮者を映すモニターが据えられていたし、メルクルさんは、巧みに歌手たちに見やすいように、そして的確に指揮しておりまして関心しました。

手持ちのCDはいずれも海外盤なので、今回字幕付きでじっくり堪能できたのは、ほんとにありがたかった。
これまでちょっと曖昧だった部分がすっきり解決、みたいな感じ。
市長などが司令官を訪れ、市民の疲弊の説明と講和を進めるが、頑なな司令官は午後に決定を知らせると話す。
その午後に教会の鐘が打ち鳴らされるわけだけど、宗教をひとつの理由とした戦渦で、久しく鐘は鳴ることがなく、それを司令官の意志と思った市長や市民たち、そんな平和の誤解がよく理解できた。
 頑迷な司令官はそんなの知らない、敵司令官の訪問にも頑なな態度を崩さなかった。
このあたりのいきさつが、今回とてもよく理解できた。
 あと司令官夫妻の二重唱では、熱烈な愛の二重唱だと思い込んでいたけれど、お互いの思いのすれ違う言葉の応酬だった。
それでもマリアのモノローグから、夫妻の二重唱、そのあとのオーケストラの間奏など、まさにシュトラウスの音楽の醍醐味を痺れるような感銘とともに味わうことができました。

フィデリオや第9みたいだと思いつつ、合唱幻想曲をも想起してしまう、そんな歓喜の爆発エンディングは、衣装をコンサートスタイルに変えた登場人物たちが舞台前面に並び立ち、割と前列だったワタクシは、思い切り皆さんの力のこもった力唱のシャワーを浴びることになり、興奮にも包まれたのでした。

1975年の若杉弘さんの指揮する「オテロ」が、わたくしの初オペラで、初二期会でした。
以来、二期会のオペラは多く観劇してきましたが、日本初演の上演も多数経験できました。
なかでも、「ジークフリート」「神々の黄昏(日本人初演)」は自分的に誇るべき体験でしたし、シュトラウスも多くの日本初演を二期会で体験できました。
そして今回の「平和の日」も忘れえぬモニュメントとなりそうです。

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ウォータンやシェーン博士など、いくつもの上演で聴いてきた小森さん。
やはり素晴らしい。
ドイツ語がまず美しいのと、歌としての自然さがまったく違和感なくなめらか。
独白的な場面も、めちゃくちゃ説得力があって、渋い演技とともに堅物の司令官の姿を見事に描ききってました。

あと驚きは渡邊さんのマリアで、あの長大なモノローグを情熱的に見事に歌ってのけて、女声好きのシュトラウスの残した聴かせどころを大いなる共感とともに表現してました。
この場面では、後期のシュトラウスの透明感と諦念のような作風も感じるので、思わず涙ぐんでしまった。
今後の二期会のシュトラウス上演に渡邊さんと、今回カヴァーに入っていた富安さんは欠かせない存在となりそうです。
あのモノローグをいま聴きながら書いてますが、いろんな要素が詰まってますね。

大塚さんの衛兵、深いバスは、かなり前にグルネマンツを聴いたことを思い出しました。
ほかの諸役も、二期会のオペラでお馴染みの方ばかりですが、よくよくおひとりひとり見て聴いていると、なんと難しい歌唱なのかと痛感。
シュトラウスの楽譜は、きっと歌手も楽器もおんなじ扱いで、高難度で、よくぞこんなの暗譜して歌えるなと感心してしまうことしきり。
これら諸役で、案外の決め手役は、イタリア歌手としてのピエモンテ人で、ドイツ人のなかにあるイタリア人的な輝きと明るさが特異な役柄。
しかも今回は、演出で司令官の意図を察して行動する役柄だけど、つねにその行動に不安と疑問を持っている。
ルルでのアルヴァ役が記憶にある山本さん、いい声響かせてました。

先に触れたオペラ指揮者としてのメルクルさんの手練れぶり。
「ダナエの愛」を聴き逃したのは痛恨ですが、新国のリング以来のメルクルさんでした。
なによりも大編成のオーケストラを過不足なく響かせつつ、歌手の声もホールに明瞭に届けなくてはならない。
その意味で、オーケストラをコントロールしながらも、斬新なシュトラウスサウンドを堪能させてくれた。
もっと大胆に、豪放にやることもできたかもしれないが、東フィルから繊細かつスマートな音響を引き出してました。
久々の東フィルも実にうまい!

二期会の積極的なネットでの広報や、専門家や出演者による解説など、事前のお勉強にとても役立ちました。
加えて最後にお願い、というか提案。
このような珍しいオペラはリブレットの理解が必須で、国内盤もないなか、海外盤に頼らざるをえない。
広瀬大介さんの素晴らしい翻訳は、当日販売するとか、有料配信するとかできないものか。
有名オペラ以外は、こうした手段も取って欲しいと思います。

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1月末に営業終了した東急百貨店。
連結するBunkamuraも、このオペラ上演翌日より、一体再開発のため長期休館となりました。
オーチャードホールは、日曜のみ開館するようですが、1989年のオープニングを思い出します。
シノーポリ率いるバイロイト音楽祭の引っ越し公演でこけら落とし。
結婚したばかりで余裕のなかった当時のワタクシ、泣く泣くこの上演は見送りましたことも懐かしい思い出です。

変貌に次ぐ変貌をとげる渋谷の街。
「私の昭和の渋谷」は遠い過去のものになってしまった。
地下に潜ると迷子になってしまうし、地上も景色が変わってしまわからない。
途切れることのない人の流れに戸惑うワタクシ、まさに「さまよえるオジサン」でした。

昼食を取ろうにもラーメン屋や行列店ばかり。
外人さんだらけ。
大人の残された空間のようなお寿司屋さんをみつけ、すべりこんで一息つきました。

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人ごみに流されたあとの一杯は極上でございました。

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お手頃ランチ握りも極上。

静かな店内をひとたび外へ出るとまたあの雑踏。

東京一極集中は、日本にとってほんとによろしくないな。

でもオペラは楽しい。

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2022年11月19日 (土)

R・シュトラウス 「サロメ」 グリゴリアン、ノット&東響

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ジョナサン・ノットと東京交響楽団によるコンサート・オペラ、R・シュトラウス・シリーズ第1弾。
「サロメ」を聴いてきました。
コロナ前に、モーツァルトのダ・ポンテ三部作も同じく手掛けたコンビ。
衣装は通常のドレスで、椅子を据えただけで、簡潔な演技でオーケストラの前や後で歌う形式。
演出監修は、サー・トーマス・アレンです。

なんたって、いま、サロメを歌い演じたら世界一とも思われるアスミク・グリゴリアンの日本デビューでもありました。
ミューザとサントリー、どちらに行こうかと悩んだが自身のスケジュールからミューザに。
ほんとは両方とも聴きたかった。

 R・シュトラウス 楽劇「サロメ」

   サロメ:アスミク・グリゴリアン      
   ヘロデ:ミカエル・ヴェイニウス
   ヘロディアス:ターニャ・アリアーネ・バウムガルトナー    
   ヨカナーン:トマス・トマッソン
   ナラボート:岸浪 愛学 ヘロディアスの小姓:杉山 由紀
     ユダヤ人:升島 唯博      ユダヤ人:吉田 連
   ユダヤ人:高柳 圭   ユダヤ人:新津 耕平
   ユダヤ人:松井 永太郎  カッパドキア人:高田 智士
   ナザレ人:大川 博    ナザレ人:岸波 愛学      
   兵士  :大川 博    兵士  :狩野 賢一

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

    演出監修:サー・トーマス・アレン

     (2022.11.18 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

100分間、金縛りあったように、まんじりとせずに聴き入り、そしてステージでのグリコリアンに釘付けとなりました。
黒いタイトなドレスをまとったグレゴリアンのサロメ。
椅子に腰かけながら歌う場面がなくても舞台の進行のなかでも放つ存在感。
それは気品をまといつつ、または不安を覚えるようでもあり、足を組みつつ尊大であったりと歌わなくてもサロメを演じてました。
そしてひとたび声を発すれば、ホールを圧し、ホールの隅々までに届く強靭さを示す。
登場してナラボートにすがりつつ欲求を満たさんとする少女のサロメも、ヨカナーンを見て欲望の虜になっていくサロメも、ここでは恋をしたような恋情も感じさせた、こんなサロメの揺れ動きを歌でもって見事に表出。
ビビりまくりの義父へダンスの報酬を要求する「ヨカナーンの首を」という数度の返答も、たくみに歌いわけ、最後通告ではしびれるほどに強く、有無を言わせぬ強烈さがあった。
そしてもちろん、最後の長大なモノローグでは繊細なまでにヨカナーンへの恋情を切々と歌い、しかも熱狂の虜となってしまったように、狂える達成感を歌い上げてみてホール全体を熱く、熱くしてしまった!
強大なほどの声のレンジを感じさせ、どんなにノットがオーケストラを煽っても、それをも超えて響いてくるグリコリアンの声。
強さと繊細さ、声による巧みな表現能力。
ここまでやられちゃうと、受け取る側も疲弊してしまう。
そんなにまですごかったグリコリアン様でした。

2018年のザルツブルグ音楽祭でのサロメを視聴して彼女の特異な才能と美貌に魅入られた次第。
その後、さかのぼって「エウゲニ・オネーギン」のタチァーナ、「エレクトラ」のクリソテミス、「イエヌーファ」「オランダ人」のゼンタ、「賭博者」のポリーナ、「三部作」の3人のヒロインなどを聴いてきた。
やはり、一途な思いの役柄が得意なようで、感情移入が巧みな彼女ならではの歌と演技が、いずれも素晴らしいと思った。
リトアニア出身でご亭主はロシア出身の演出家ヴァシリー・バルハトフ 。
初来日の彼女、日本を好きになっていただいたようで、彼女のサイトを見てみたら「I Love Japan」と書かれていて、抹茶アイスの写真などが添えられてました。
カーテンコールでも、人をたてつつ、でしゃばらず、ステージマナーの所作もステキな彼女でした。

グリゴリアンとジュネーヴで共演歴のあるノット監督率いる東京交響楽団。
日本のオケがこんなに輝かしく、分厚い音と繊細な音色でもって、シュトラウスの万華鏡のような変幻自在の音楽を巧みに表出できるなんて!
ノットの指揮する東響もほんとに素晴らしかった。
歌手たちと事前に細密に打ち合わせてのことだろうが、しかしこの日のノットは思い切りオケを鳴らしていた。
それに負けない歌手たちだろうと踏んでのことだろうし、上に響くバランスのいいミューザのホールの特性も頭にいれてのことだろう。
サントリーでの公演はまた違ったアプローチをするかもしれない。
ピットの中では見ることのできない巨大編成のオーケストラが、分奏したり、打楽器がそんなところで、とか、ともかくコンサート形式のオペラでのビジュアルの喜びも堪能。
スコアで確認したい、ヨカナーンの首を落とすところは、オケ団員が床を踏んで鳴らしていた。

驚きの太っちょヘルデン、ヴェイニウス。
大きなお腹にもかかわらず、思いのほかスマートですっきりとした明快なヘルデン。
すっとこどっこいぶりは薄めだけれど、この必死なヘロデの声は思いのほか力強く耳に届いた。
ワーグナー諸役を持ち役にしているようで、新国あたりでうまく起用したらいいかと思った。

トマッソンのヨカナーンは、P席の横で、オケの上、斜め右で歌った。
ここからの声がホールを圧するすごさで、ブリリアント。
そう輝かしいヨカナーンだった。
オケのステージに降りると、グレゴリアンの声は通るのに、トマッソン氏の声がオケに混濁してしまうこともあった。
聴く位置にもよるかもしれないが、それだけグリコリアンの声がすごかった。
トマッソンは、バレンボイム・ベルリン・チェルニアコフ「パルジファル」でユニークな心優しいバーコード頭のクリングゾルを歌ってます。

バウムガルトナー、たぶん初聴きですが、この人の声もよく耳に届き、凛とした真っ直ぐな声のメゾでした。
ワーグナー諸役ではフリッカとオルトルートを得意役としているようで、こうした歌手はほんとに貴重だし、好きですね!

がんばった日本の歌手たち。
直前にナザレ人からナラボートにまわった岸浪さん、リリカルなお声だったけど、ナラボートの必死さをよく歌ってましたし、ほかの諸役、いずれも安心して聴けるレヴェルです。
こうしたみなさんが、日本のオペラをしっかり支えてくださり、日本各地でクラシック音楽を広めてくださる。
裾野は広く、レヴェルはともかく高いと認識です。

トーマス・アレン卿の演技指導は、ともかく的確で余剰な動きなしで、音楽を阻害しないもの。
ヨカナーンをともかく遠くに置き、手の届かない存在に見せつつ、サロメが興味深々になると手が触れるくらいまでに近づける。
こうした空間の活用はうまいし、各人が椅子に座りながらも何気に表情や演技で歌以外でも参画しているのも、コンサートオペラが無味乾燥にならずに息づいて受け止められることで演出が関与する意味合いがあるというもの。
アレン卿、カーテンコールでグリコリアンに促されて出てきて、ダンスをするなど、相変わらずお茶目でした。

サロメをヘロデが断罪したあと、急転直下のエンディングとなりますが、その瞬間ホールの照明は落とされ、一瞬の暗闇となりました。
最後にも驚愕の感銘が。

Salome-5

アレン卿に、グリコリアン、きっとのノット監督の人脈でしょう。
ほんとにありがたいことです。
2023年5月は「エレクトラ」が予定されてます。

Salome-2_20221119164801

ミューザは音がいい。

この日、東海道線で事故があり、ミューザの最寄り駅の川崎駅では各線の混乱が生じた。

あと一本あとだったらたどり着かなかった。

このコンサートも10分遅れでスタート。

ともかく久しぶりの演奏会だし、無事に聴けたし、とんでもなく素晴らしい「サロメ」を堪能しました。

過去記事

 「サロメ」 視聴しまくり、聴きどころ、見どころ

 「サロメ」 二期会公演

 「サロメ」 新国立劇場

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