カテゴリー「マーラー」の記事

2026年5月19日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 ヴィオッテイ指揮

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気温も上がった5月の中盤。
サントリーホールのカラヤン広場も初夏の様相。

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創立80周年の東京交響楽団。
そして、新音楽監督ロレンツォ・ヴィオッテイを迎えての初定期演奏会
たくさんの花がロビーを飾ってました。

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      東京交響楽団 第740回 定期演奏会

 ベートーヴェン 交響曲第1番 ハ長調 op.21 

 マーラー    交響曲第1番 ニ長調 「巨人」

   ロレンツォ・ヴィオッテイ指揮 東京交響楽団

     コンサートマスター:景山 昌太朗

    (2026.5.16 @サントリーホール)

ファンと楽員さんとに大いに愛されたジョナサン・ノットに次ぐ第4代の東京交響楽団音楽監督に就任したヴィオッテイの就任披露。

90年の隔たりのあるふたつの1番という演目で、スタートに相応しいコンサートとなりましたが、そんな初々しい新コンビの幕開けは、めったに出会えないほどの熱気と興奮とに包まれる結果となりました。

スイス出身のロレンツォ・ヴィオッテイは、今年36歳。
2023年にこのコンビの「ダブル英雄」を聴いたおりの紹介文章を再度転記編集します。
 2世指揮者で、父親は早逝してしまったオペラの名手、マルチェロ・ヴィオッティ(1954~2005)。
母親もヴァイオリニスト、姉もメゾソプラノ歌手(マリーナ・ヴィオッテイ、美人さん)という音楽一家で、音楽家になるべくして育ったロレンツォ君は、自身も打楽器奏者からスタートしている。
指揮者として初のプロオーケストラ指揮が日本での2014年の東京交響楽団への代役出演、新国でもトスカを振っており、ともかく日本、なによりも東響と結びつきの深いロレンツォなのでした。
グシュルバウアーやコルボでお馴染みだったリスボンのグルベンキアン管弦楽団の指揮者、そしてネザーランド・フィル、オランダオペラの首席指揮者としてすでに活動してきて、ウィーンのすべてのオケ、ベルリンフィルなど、ヨーロッパの名だたるオーケストラにも客演を続けている。
2028年からはノセダのあとのチューリヒ・オペラの音楽総監督に就任予定。

ノット監督のときは対向配置がほぼ常であったが、今回はチェロがいちばん右翼で、いわゆるかつてのストコフスキー型。
妙な話ですが、これからして新鮮だった。

これからも輝かしいキャリアを築き上げ続けるであろうヴィオッテイ。
長身、ともかく長い手と足、すっきりやせ型のスリムなスポーツマンタイプで、颯爽とそしてにこやかに登場。
爽やかにも思われる第1音は澄み切った美しい東響のハーモニーによる序奏、そのあとテンポをあげて主部に突入するが、リズムの刻みが鮮やかで弾むような躍動感あふれる楽章となりました。
極端にヴィブラートを抑えたりしていないのでゆとりあふれる愉悦感も漂い心地よいのだ。
2楽章では弱音への心配りが大きく、とても大切に響かせていて、強弱の対比、リズムと緩やかな旋律との対比も面白く、ベートーヴェンの緩徐楽章がいつも美しいということを認識させてくれるような演奏だった。面白かった。
一転、きっぱりとした3楽章はまさにスケルツォの先取りと感じる鮮やかさ。
そして最後の音が終わると同時にアタッカで終楽章へ突入。
これには驚かされた、そう来たか!と思いましたよ、目が覚めるほどの効果あり、まさにベートーヴェンの意欲がそんな一瞬にも吹き出して見えた。
その終楽章がスピード感と躍動感あふれる俊敏な演奏で、これまた最高ときた。
古典の域を脱することなく感じてるベートーヴェンの1番が、こんなに作曲者のやる気の詰まった意欲作に聴こえたのが驚きの演奏。
かつて神奈川フィルで大家シュナイトさんのこの1番を聴いたことがあるが、そのときは、びっくりするくらいの大交響曲に聴こえた大人(たいじん)の演奏だった。
今宵のヴィオッテイの1番は、駆け抜ける若さと青竹のようなきっぱり感、そして音楽表現への強い気持ちを感じる、そんな前向きな演奏なのでありました。
早くもブラボー飛んでましたよ。

ベートーヴェンが1800年30歳、マーラーが1888年28歳、ともに壮年期に差し掛かったこの先やったるぜ、と意欲満々の時期の1番。
年月の経過は、通常版による4管編成でずらりと勢ぞろいしたオーケストラを眺めるだけで実感できる。
1楽章の冒頭、同じ序奏を持つ曲ながら、ヴィオッテイはこの序奏を極めて抑えて細心の注意をもって聴きとるべきような弱音で開始したので、聴き慣れてルーティン化した思いでいどんだワタクシは、緊張しつつもものすごく集中して聴くという術中にはまることになった。
ステージ外のトランペットの遠近感も見事。
そして徐々に雲間から明るさが兆すようにして、おもむろに登場するさすらう若人の歌のメロディと晴れやかさ。
冒頭からワクワクさせてくれるじゃないか。
しっかりくり返しも励行し、その後の不安の様相の中からまた起こるファンファーレは抑えめで、終楽章でのさらなる爆発を予見、楽しみにさせるもの。
かなりの猛ダッシュでラストを駆け抜けた1楽章。
 ともかくノリのよかった2楽章。
メリハリを思い切りつけるような指揮者の指示っぷりもあって、歯切れよい主部。
そして美しく愛らしくもあった中間部、優美な展開が主部の切れ味との対比で面白い。
このように、ヴィオッテイの指揮は各部のメリハリの付け方がうまく、それが嫌味やあざとさにつながらない自然さがあるというところがよい。
 コントラバスはトゥッティで一音も乱れることなく整然としていた3楽章。
ここでも強弱の対比、またシニカルさとシリアスさとの共存のマーラーの音楽の面白さもまた創出。
東響の各セクションの精度の高さも光りました。
 そしてシンバルの乾坤一擲とも呼びたくなるような一撃で始まった終楽章。
吹き荒れ具合も上々で、ヴィオッテイの大きな指揮ぶりに一糸乱れず東響もついてゆく。
それにしても、燕尾服の裏地のエンジ色が大きな動きをするたびに翻って見える。
お洒落だ。
カウスボタンのところもエンジ色で、これまたおしゃれ。
そして、これだけ指揮をしているのに、汗もあまりかかず、背中にも汗はまったく浮いてこない。
身体能力もほんとに高い人で、日々鍛えているんだろう。
 とつらつらと思っていたら、第2主題が弦によって連綿と、そしてそれが徐々に思いの丈をどんどんと込めていって情熱的になってゆく場面となっていった。
ここ、ほんとうに美しく、思い切り感動して、涙ぐんでしまった。
今宵いちばんのシーンだったと思う。
ずっと続いて欲しかった。
そして来たる第1の爆発のクライマックスはまだまだ余力を残しつつ冷静さを保つもの。
1楽章の序奏の再現ではまたあの静寂にも似たピアニシモが。
何度も書きますが、こうした場面の鮮やかな対比がマーラーの音楽の面白さを際立たせるととともに、ベートーヴェンから90年後のマーラーという作曲家の奇矯なところなのだろうし、時代の先駆けでもあったと痛感できる。
再びの美しいシーンもまたよかった。
ヴィオラ部による不穏な雰囲気の組成では、これから始まる大フィナーレを予見させ、嫌でも期待と興奮の高まりを味わう。
そして始まりましたよ、期待を裏切らないどころか、輝かしき勝利宣言のような鮮やかなクライマックスが。
オーケストラも指揮者も、新しき船出を自ら歓声を持って歌い上げるかのような眩しさ。
横一列に並んだ7つのホルンが一斉に起立し、われわれ聴衆の興奮もマックスに!
炸裂する打楽器陣、力を込め満身で弾き、奏する弦楽器に管。
眩しいエンディングにブラボーが飛び交う。
ワタシも一声参加!

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ノット前監督とはまた違ったある意味即興性にも富んだヴィオッテイの指揮。
しかし存外に緻密であることも確認できた。
マーラーの1番を実演で聴いて、こんなに心躍るような気持ちの高まりを味わったのは、ライブで初聴きの82年のドラティと読響、そして83年のアバドとロンドン響の演奏以来かもしれない。
それは東響とヴィオッテイに対する私の今現在の思いも加わってのことでもありますが。

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親譲りのオペラ指揮者としての才能を、全体の構成力と豊かな歌いまわし、聴かせ上手でもある音の鳴らし方や届け方などに大いに感じた。

ノット監督と同じように、コンサートオペラを毎年やって欲しい。
きっとやってくれるだろう。
古楽から現代まで広大なレパートリーを持つ姉とカルメンなんか話題になりそうだし、CDにしても世界展開できそう。
得意のコルンゴルトやツェムリンスキーのオペラもやって欲しい。

次のシュトラウスとラヴェルもめちゃくちゃ楽しみ

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ワタシ、お腹が空きました、このあとメシなww

おちゃめなロレンツォさんなのでした。

【過去記事】

「ヴィオッテイ&東響 英雄と英雄の生涯」

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2025年12月 4日 (木)

群馬交響楽団創立80周年 マーラー 千人の交響曲

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前から訪問してみたかった高崎芸術劇場。
駅からベストリアンデッキでつながり5分の好立地。
木質の響きのする音の溶け合いの実によいホールだと思いました。

群馬交響楽団の創立80周年を記念する演奏会。

8つながりはあるにしても、祝祭的な演目としては、いまやダントツの人気曲「千人の交響曲」。
近年、演奏機会が増えてますが、私はこれが5度目です。
初回は1985年のコシュラーと都響の創立20周年記念演奏会で、いまだに鮮明に覚えてますが、まさに1000人が文化会館のステージにギッシリ立ち並びました。

あれから40年。
自分も歳をとったし、その間のマーラーの音楽の受容は完全浸透し、日本のどこかで日々演奏されるようになりました。
ノット&東響の第9の残影がまだ耳に残るなか、高崎に向かいました。

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        群馬交響楽団 80周年記念特別演奏会

 菅野 祐悟 「祝祭」 (群響委嘱 世界初演)

 マーラー 交響曲第8番 変ホ長調 「千人の交響曲」

 S、罪深き女:小林 沙羅      S、贖罪の女:森谷 真理
 S、栄光の聖母:森野 美咲     Ms、サマリアの女:富岡 明子
 Ms、エジプトのマリア:十合 翔子   T、マリア崇拝の博士:宮里 直樹
 Br、法悦の神父:青山 貴       Bs、瞑想の神父:久保 和範

          飯森 範親 指揮 群馬交響楽団
             オーケストラ・アンサンブル金沢(共演)
              群馬交響楽団合唱団
              藤岡市立小野小学校 児童合唱団
        合唱指揮:阿部 純

        コンサートマスター:伊藤 文乃
            
            (2025.11.30 @高崎芸術劇場)

ガラス張りのロビーの遠景には赤城山(たぶん)などの山々が見渡せる、雰囲気豊かなホールに着いたときは、たくさんの花籠と多くの市民・県民の皆様で賑わってました。

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最初に演奏されたのは10分ほどの実に美しく、雰囲気豊かな作品。
作者の菅野氏は、アニメ、大河、シネマ、CM、さらには交響曲や協奏曲なども作曲しているマルチな方で、恥ずかしながら初めて聴くお名前とその作品ということになりました。
 プログラムにはご本人の思いと解説が綴られておりましたが、私の受けた印象はご本人の意図の通りに、祝祭という言葉の持つ晴れやかさはなく、何かが生まれさざめきにつながる様子や、森のささやき、遠くに響く祭りの様子など、どこかわれわれ日本人の心にある懐かしい心象風景のように感じました。
ステキな音楽、もう一度聴いてみたいな。

20分の休憩後、合唱の皆さんが続々と入場し、ホールの空気感も期待とワクワク感が高まります。
そして飯森さんの指揮棒が振り下ろされ、やや控えめなオルガンに続いて合唱が「Ve-ni」と第一声を上げる!
雑味のない大音響が見事に決まった。
定評ある7人のソロ歌手たちは、指揮者の前で歌い、合唱とオーケストラに埋もれることなく、見事な歌唱。
しかし、聴き進むうちに、合唱の声が団子状態に感じられ言葉も明瞭度不足。
でも、そのようなことはもういいや、と思い、この晴れやかな千人交響曲の1部を気持ちよく聴いた。
ひとつ言いえば、合唱は人数をもう少し刈り込んでしまってもよかったのかと。
賑々しさが近時やや苦手となってきた1部ですが、でも実演での大音響を心置きなく楽しめるのはよいこと。

この記念碑的な膨大な作品に果敢に挑み、加えて楽団の創立の周年記念を祝うと言うモニュメンタルな場に対し、このステージに立つすべての人、とくに合唱と少年少女たちは練習と努力を重ねてきたであろう。
こうした場に立てることへのうらやましさ、そして音楽行為への思いの清さ、私は最大限に評価したいと思います。
なんたって、ぐうたらな自分には絶対に出来ないんですから。

千人交響曲の核心はファウストに素材を求めた3つの部に細分される第2部にあり、いつも感動しっぱなしとなる。
緩徐楽章的なアダージョの精妙で神秘的な音楽は多くの人がステージに乗っているにもかかわらず、低弦にピチカート、荒涼とした雰囲気の木管など、実によく分離して耳に届いた。
このあたりがこのホールの音の良さ。
静けさの中でささやくように歌う合唱もここでは格段によかった。
そのあとホルンに導かれ、(そのホルンは、この日はすべてにわたって素晴らしくブリリアントだった)、感極まったバリトン独唱が入ってくるが、ここでも私は鳥肌。
この法悦の神父と深奥なる神父のふたりの歌が大好きなんです。
いつも聴いてる青山さんの気合の入った歌は素晴らしかったが、ベテランの久保さんはちょっと厳しかった。
これまでのライブ経験でも、この歌は激するオケに埋没してしまうケースが高かった。
飯森さんは、オケを抑える指揮ぶりをしたものの、難しいものである。
久保さんは、若杉弘の指揮した「ダナエの愛」でのユピテル役を聴いて以来、幾度となく接してきたバスバリトンですし、藤沢の千人では、法悦の神父の方を歌っていましたことも懐かしい思い出です。

第2の場面、天上から舞い降りるような無垢の児童合唱、女声合唱も素敵だった。
富岡さんの深みのあるメゾに次いで、
主役ともいうべきテノールの宮里さんがすくっと立ち上がり歌い始めると、恍惚としつつもハリのある声による高域も見事に決まり引き締まった。
さらに進んで、オルガンとハープにのったヴァイオリンの極めて美しい旋律が、とても繊細に優しく演奏され、ここで私は涙ぐんだ。
泣けた!
マーラーの8番のいいところはこうしたところにあり、巨大なサウンドばかりじゃないんだ。
飯森&群響は、こうした静かな場所やちょっとしたチェレスタやピアノを含んだ近未来的な音のシーンを丁寧に優しく演奏していて際立っていたと思う。

小林さん、富岡さん、十合さんと、S→MS→MSと続いてゆくそれぞれの歌唱、声の違いを聴き分け楽しめたのも目視できるライブならでは。
罪を重ねた聖書上の女性たち3人の重唱では、その抜群のハーモニー、声の溶け合いも堪能、木管も愉悦に満ちてました。
そこにヒロインともいえるグレートヒェンの森谷さんが歌い継ぎ、児童合唱を交え透明感を増しながら音楽は進んでゆくし、マンドリンも晴朗な雰囲気。
マンドリンはマーラーでは欠かせない青山さんのお姿をしっかり確認してます。
そして左手奥に聖母の清らかな歌、森野さん、最高にステキだった!

テノールのマリアを讃える学者が「Blicket auf」と入ってくるが、ほかにも記したが、ここはワーグナーのオペラのヘルデン役のソロにも匹敵するくらいに好きだし夢中になってしまう歌で、宮里さんヒロイックになりすぎずに抒情味も出しつつ素晴らしかった。
ジワジワと来るその後の展開。
今回、超集中して聴いていたが、のちのシュレーカーやツェムリンスキー、コルンゴルトにも通じる美的かつヒンヤリしたものを感じ取り、鳥肌物で感動し、そして「神秘の合唱」を迎えた。
もうワナワナしてきて、目頭が熱くなる。
ふたりのソプラノがお互いに聴き合いながら、高まりゆく雰囲気に花を添えるような歌声を聴かせ、ついに全ソロ、全合唱による渾身のフィナーレとなり、バンダも加わり輝かしく、眩しい、壮麗なるラストとなったのでした。

もちろんブラボー一声献上!

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わかっちゃいたけど、めちゃくちゃ感動したし、気分の高揚することいちじるしい。
マーラーのこの壮大な音楽は、7番までの作品と違った、ある意味客観性のある音楽なのではないかと思った。
没頭感でなく、曲と必死に格闘しながらも、存外に冷静にコントロールできていた演奏ではなかったかと。
その意味で、熱量と鋭い切り込み具合はやや弱めだったかもしれない。

しかし、なによりも群響の記念碑的な演奏会にこのオーケストラを愛する地元のみなさまとともに立ち会えたことが、なによりも嬉しくありがたかった。

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群響のプログラムは興味深いものばかりで、また聴きに行きたいものです。

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高崎は江戸っ子だった伯父が、仕事のために家族とともに移住し、長く住んだ町。
わたしも何度も訪問しましたが、無類の猫好きだったので、家にはたくさんの猫がいました。
仕事を手伝っていた従姉が急逝し、そのあとすぐに伯父も亡くなり、伯母も数年前に去ってしまいました。
いまでは観音様の麓にあるお墓にお詣りをすることでしか高崎には来なくなりました。

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劇場とは反対側の駅前ではステキなイルミネーション。

若い人たちがたくさん、活気ある町ですね。

ほんとは食事でもして帰りたかったけれど、そうもいかず、取り急ぎ登利平の鳥めし弁当を買って帰りました。

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2025年11月24日 (月)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮 マーラー 第9

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18時開演の演奏会、家を出るときはまだ明るいけれど、17時前にはもう暗い。

街はイルミネーションが灯り、クリスマスシーズンの到来を告げてます。

そんななか、ジョナサン・ノット音楽監督最後の東響定期演奏会でした。

万感迫る思いをいだきつつホールの前に立つわたくし。

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   東京交響楽団 第736回 定期演奏会

       武満 徹  セレモニアル~秋の頌歌

       笙:宮田 まゆみ

  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

    ジョナサン・ノット指揮  東京交響楽団

      コンサートマスター:小林 壱成

        (2025.11.22 @サントリーホール)

2014年4月、ジョナサン・ノットが東京交響楽団の音楽監督となったときの就任記念演奏会のプログラムが、今宵の2曲。
音楽監督の任期最後のシーズンの自身の最終定期演奏会のプログラムにも選ばれ、終わりは始まりともいえる見事な円環の完結をなす生涯忘れえぬほどの感銘をもたらす一夜となったのです。

武満作品のセレモニアルは、案外と多く聴いていて、98年と07年にプレヴィンとN響、そして06年にノットとバンベルク響で聴いている。
もちろん、それらのときもすべて宮田まゆみさんの笙でした。
バンベルクのときのプログラムは、セレモニアルに次いで「未完成」で遅めに30分かけた演奏。
後半はベートーヴェン7番で爆発的な演奏、ということで静と動を際立たせたプログラムであり演奏でったと記憶する(ブログあり)
アンコールがリゲティのルーマニア協奏曲という、これまたノットらしい刺激的なコンサートだった。

典礼楽とも呼ぶべき静謐な空間の支配する音楽、セレモニアル。
笙はオーケストラと並ばずに、P席の最上段で演奏し、左右・後方と三方にフルートとオーボエを対にしたペアを配置。
まさに、こだまのように音がどこからともなく響き合う様は空間の音楽でもあり、それはまさに日本のいま去り行く秋を思わせるもの。
宮田さんを聴く4度目、日本人だからわかるわれわれ体内にある音、それが10分間だけれども精妙極まりないノットと東響の響きとともに、とても心地よく聴いたのです。

休憩を入れずに、楽員の補充の間を置いて、ほどなくマーラー。

この日のために、「大地の歌」を何度も聴き、そのあと手持ちの「第9」も連日聴いてきた。
いままさに血肉と化したこの大作、いよいよ始まると思うと緊張でがんじがらめとなり、どこもかしこも聴き知ったように聴きつつも、最初から最後まで一音も逃すまいと体もこわばりカチンコチンだった。

ノットが事前に曲目解説を動画にて行っていて、そこで語っていた「あらゆる感情が表出、共有されています」。
まさにその言葉通り、この第9には、自身のこれまでの作品やほかの偉大な作品などからの引用もあったりで、それらがそうとわからなように、緻密なモザイクのように組み込まれ編まれているが、ノットの演奏はそれらを意識して聴くことで、それらがとても意味を持って奏されているように感じる。
実際に聴いたあとに、ネット配信されたミューザの演奏も何度も聴くことでそのように思うようになった。
ただ指揮者の思いや狙いがオーケストラにさらに如実に反映されるまで、あと何度かやったらと、。。願わぬ思いも抱いたりもしている。

 穏やかに始まる1楽章から美しさの極みだった。
ゆったりめのテンポで終始した1楽章は、その後のふたつの楽章との対比のうえでも効果的。
事前に何度も聴きまくっていたので、序奏から即刻うるうる、第2ヴァイオリンの第1主題でもはや涙ぐむという始末。
しかし、その後はもうそんな緩徐移入はなく、冷静にこの壮麗ともとれる1楽章を聴くことができた。
武満の世界から続く虚空感はここにも感じ、ウェーベルンの音楽も夢想することができた。
終楽章とともに、沈着に聴くことが望ましいと感じた次第だ。

レントラーの2楽章、ノット監督のリズム感の良さの光る演奏で揺れ動くグロテスク感も巧みに表出されていて、この奇矯なる舞踏の音楽をかくも面白く、そして眼前で展開する奏者と指揮姿の視覚的な要素も加わりともかく楽しんだ楽章。

快速で飛ばしまくった3楽章ロンド・ブルレスケの疾走感は、まさにノットならではで、東響もピタリと一糸乱れずについて行く。
飛ばしながらもあらゆるものがポンポン出てくるこの楽章をここまで明確に捉えることが出来たのも目視できるライブゆえかもしれないが、指揮者とオケの緊密さゆえだろう。
中間部のニ長調の抒情と平安のか所は、それはもう美しくも神々しく感じられたが、それは終末でないというこの演奏の在り方の先駆けだったのだろうか。
そんなこんなで熱狂と挑戦ともいえる楽章の終わりはアクセル全開、オケも聴衆も夢中だった。

ほんの少しの間で、サクっと始めたアダージョ4楽章。
ここへきて、もうダメだ、ヴァイオリンの主題が万感の調べを奏するとき涙腺が決壊しそうだった。
ここでもともかく美しく、音楽は慟哭することなく沈着に演奏することで、その持つ意味合いが自然と浮かび上がってくるという、そんな感じだった。
弦楽器主体に何度も繰り返される変奏曲的な仕組みが、その繰り返しとともに知らないうちに、さりげない別れへと誘われてゆく、そんな儚い旅路をこの楽章を通じて、そしてひるがえって1楽章の冒頭に遡るかのように始まりをも期待させるような演奏。
122小節目の弦による強く引き伸ばされるシーン、ノット監督のうなり声もマックスに。
その後の「控えめ・・・」という書き込みの通りに、そこから始まる静寂の描き方、会場も緊張が張り詰め、だれしも身じろぎできず固唾をのむ。
自分の育った家から見える夕焼けシーンと沈みゆく太陽のわずかな光、それが消えてゆく残像をいつも思いながら聴く。
そんな思いがピタリとあてはまる幽玄なるラストシーンだった。

指揮者も奏者もみんな止まった、聴衆も動けない、時間も停止したように感じられ、もうこのままでいいやとも思った。

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いくつかの瑕疵もあったものの、そんなことはもうどうでもいい。
東響のこの演奏にかける感情が随所に見て取れ、指揮者を見る眼差しの真剣さと刹那感も感じ取れた。
首席奏者たちのあまりに素晴らしいソロの数々は、ここではいちいち触れません。
まだ完成形でない、この先ももしかしたらもっと違う世界があるとも思わせる指揮者とオーケストラの関係。
それが別れの美しい姿ではないかとも思った。

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マーラーの第9への畏怖の思いを抱いて半世紀。
1970年のバーンスタインとニューヨークフィルの来日公演でこの作品が取り上げられ、真夏での真っ白いタキシード姿での演奏シーンをレコ芸で見てから、そして吉田秀和さんの論評を読んだ時からずっと気になっていた小学生の自分。
中学生になり、音のカタログで一部、念願の全曲を聴いたのがFM放送。
ずっと特別な作品であり続けた「マーラーの第9」。
いくつもの演奏会も経験したが、忘れえぬバーンスタインとイスラエルフィルの演奏から今年は40年。
その年に、モニュメンタルな感情も加味しても素晴らしい演奏に接することができた。

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ノットと東京交響楽団のコンビに感謝です。

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終演後の盛大なコールには、ありがとう!ノット監督の手ぬぐいを掲げた楽員のみなさんも登場し、会場全員でノット監督を讃えました!

ワタクシもてぬぐい購入しましたよ。

来年は都響に客演しケフェレックとの共演やブルックナーなどが予定されてます。

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2025年11月20日 (木)

マーラー 「大地の歌」 ヨッフム、オーマンディ

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急速に深まる秋は冬の気配にはやくも押されつつあります。

いつも行く秦野の丹沢方面も秋色に染まりました。

この前まで暑いと言ってたのに、この配色の景色に落ち着きと、寂しさも感じます。

「第9」の前に「大地の歌」を聴いておきたい。

それも60年代の渋いところで。

ジャケットはオリジナルを借り物しました。

  マーラー 交響曲「大地の歌」

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        A:ナン・メリマン
        T:エルンスト・ヘフリガー

 オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

        (1963 @コンセルトヘボウ)

ブルックナーの指揮者との認識の強いヨッフムの唯一のマーラー。
ハイティンクを補佐する感じでコンセルトヘボウをベイヌムのあと引き継いだヨッフム。
DGには当時珍しかったコンセルトヘボウの1963年の録音。
同時期にDGにブルックナーの録音を始め、ハイティンクのマーラーは1番のみがフィリップスに録音されたのみで、ハイティンクのマーラーシリーズは66年から本格始動していた、そんな時間軸です。
なぜに大地の歌だけしかやらなかったのか?なぜにフィリップスじゃなかったのか?
いまとなってはよくわかりませんが、ベームと同じくマーラーは声楽付き作品のみを指揮したところがマーラーをやらなかったヨッフムというところでしょうか。
しかし、マーラーオケでもあるコンセルトヘボウであることもあり、声に傾いた演奏ではなく、立派にマーラーの世紀末臭を漂わせた桂演となぅていて、寂寥感ただよう枯淡の演奏なのでありました。
ヘフリガーの声が立派だが、やや明るすぎて感じ浮いてしまうのは、この作品の難しいところだろう。
しかし、トスカニーニの元で多く歌った伝説級の歌手メリマンのやや古風ともとれる歌唱は、ヨッフムの描き出す侘び寂にも通じるモノトーンのマーラーにぴったりで、淡々としたなかに語り掛けるような歌は後ろ髪ひかれるような思いをいだきます。
60年代ならではのセピア調の演奏、加えてマーラーに同化しすぎない客観性を保った渋い演奏でありました。
しかしコンセルトヘボウならでは、時代性を感じさせる味のあるポルタメントなどが聴かれ、オーケストラに根付くマーラーの伝統を感じる。
バイエルン放送ともやったらどうだったろうか。
ちなみにクーベリックのDGのマーラーは1967年から録音が始まります。

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     A:リリ・チューカジアン
     T:リチャード・ルイス

  ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団

      (1966.2.9 @タウンホール、フィラデルフィア)   

オーマンディもマーラーと、そしてブルックナーも密接な関係とは言えなかった指揮者かもしれない。
しかし、アメリカで活動をしたオーマンディは、復活交響曲においては演奏とレコーディングのパイオニア的存在でもあった。
なによりも新しいものを積極的に紹介しようとする意欲はオーマンディならでは、第1交響曲は「花の章」付きだったし、10番のクック完成版の初録音もオーマンディだった。
1,2,大地、10番の4作品のみがオーマンディの正規マーラー録音であります。
進取の気象に富んだオーマンディらしいところでありますね。
CD時代になって、CBS時代のものを中心にオーマンディとフィラデルフィアのイメージは、自分的に大きく変わった。
レコードで聴いていた頃は、いわゆる華麗なるフィラデルフィアサウンドといううたい文句が先行して、それが音のイメージとして半ば刷り込こまれ、そんな耳で聞いてたのでキンキンキラキラしてた印象を持っていた。
しかし、CD化されたいくつもの音源を聴いてみて、RCA音源とともに、かなりそのイメージを刷新させられた。
シベリウスやチャイコフスキー、ベートーヴェン、シュトラウス、ラフマニノフ、レスピーギまでもがそうだった。
それは曲のあるがまま、柔軟性に富んだ実直な演奏と感じ、録音もキンキンしたかつての雰囲気とは様変わりして落ち着いた響きに聴こえたのだ。
このマーラーもそう。
各楽器がよく聴こえ鮮明さが行き渡っているのは録音の思いもよらぬ素晴らしさばかりではあるまい。
定評あるヴァイオリンを主体とする弦の美しい鳴らせ方に加え、フィラデルフィアの優秀なブラスも突出せずバランスよく鳴り響く。
全体に思いのほか渋くまとまっていて、テンポ感は速めながら、そんな風には感じさせないし、むしろ淡々としすぎていて、もっと情念が欲しいとも思う。
でもこれがスコアどおりのお手本のような演奏なのだ。
当時、欧米で大活躍の2人の歌手も、歌い過ぎず抑制を保ちながらの歌唱で悪くない。
英国のルイスのテノールは、EMIを始めとするレーベルにかなりの録音があり、バルビローリのゲロンティアスの夢が最高に感動的だった人、
ヒロイックにならないところが好ましかった。
アルメニア系アメリカ人のチューカシアンは録音には恵まれていないが、重なる病魔を克服しながらメットで活躍した大歌手で、そのドラマテックで音域の幅広い豊かな声はなかなか魅力的で、現在の歌手たちの歌に慣れた我々の今の耳でも十分に新鮮だ。
言葉がやや不明瞭であったことは否めない。
でも終楽章での神々しさはオーケストラの絶美な背景を得て素晴らしくも味わい深い歌だった。
ただ、曲の終結はややあっけなく、余韻は少なめか・・・

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「告別」のewig ewig。
これが第9交響曲につながる。

ノット監督最後の東響定期演奏会、マーラーの第9を控え、私は来たりくる感動の涙に震えつつある。

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2025年7月 6日 (日)

東京都交響楽団演奏会 カネラキス指揮

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梅雨明け間近の東京サントリーホール

涼しげなエントランスのグリーン、奥の水辺も夏は気持ちよい

不快指数高めの日々に、爽快な気分にさせてくれたコンサート

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人気のピアニスト、沙良=オットがソリストとあって、こんな素敵なスタンド花が。

華美にならない飾らない彼女のピアノにマッチした色合いかと。

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     「都響スペシャル」

  ラヴェル  ピアノ協奏曲 ト長調

  サティ   グノシエンヌ 第1番

    アリス・沙良=オット

  マーラー  交響曲第1番 ニ長調 「巨人」

   カリーナ・カネラキス指揮 東京都交響楽団

       コンサートマスター:水谷 晃

                        (2025.7.5 @サントリーホール)

前日の定期とともに、ソールドアウトのコンサート。
ふたりの女性、さらにはメインがマーラーということで人気を呼びました。
わたくしは、カネラキスを前々から海外オケの放送で聴き及んでいて、こんかいの初来日に即座にチケットゲット。
おまけに、ソロが沙良=オットというオマケつきで狂気したものです。
はいそうです、ワタクシはオジサンです。

カネラキスとほぼ同じ背格好、華奢で小柄な沙良=オットがステージに現れるだけで会場の空気が華やいだような気がした。
シルバーに近いドレスはシックで、この日のラヴェルの2楽章の落ち着いた美しさを早くも予見させる。
トレードマークともいえる素足で軽々と登場し、深々と一礼。
カネラキスと目を合わせすぐさまに軽やかに弾き始める、この流れるような一連の所作から、すべてが彼女の音楽だ。
彼女のピアノの音、その弾き姿、聴いて観て、すべてが音楽そのものに奉仕するように没頭感があり、それが嫌味にならず、聴き手の共感を呼ぶ客観性も帯びているところがよい。
 完璧な技巧を感じさせるが、それが強調されることなく、音楽を掘り下げて切りこんでゆく必死の姿をそこに感じ、聴き手も同感の思いで彼女の音楽に没頭することになる。
その点で、某YWさんとは大違い。
オーケストラをよく見ながら一緒になって楽しんでる様子も可愛く、正面から見える席だったので、足の指先まで音楽してる感じでよく動いてましたね。
 ともかくステキすぎたのが2楽章。
楚々たるオーケストラ、そしてコールアングレのソロとともに、透明感あふれるピアノは、天にも昇るばかり、シルクのようなしなやかさと、清流のような澄み切った透明感を感じさせるもので、ずっとずっと聴いていたい、続いて欲しいと思いつつ聴いた。
急転直下の3楽章では、オーケストラとの活発なやり取りが面白く、息つく間もない。
ふだん聴こえないような音がオーケストラに見出したのもカネラキスの目線か、次のマーラーでもそんなシーンはあった。

ステージから去る沙良=オットは、少し小走りに、ぴょんぴょんと跳ねるように楽屋へ向かいます。
そんな姿もオジサンは見逃しません。
何度かのコールで弾いてくれたのは、得意曲のサティ。
まさにアンニュイ感ただよう、儚さと切なさも味わうことができた一瞬でした。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

マーラーの1番は、カネラキスの得意曲のひとつ。
BBC響との2022年promsライブ録音も所持してまして、promsならではの活気あふれる演奏ですが、また彼女ならではの落ち着きも感じられるものでした。
欧米のメジャーオケをたくさん指揮し、オランダ放送フィルの首席、LPOの首席客演といった有力ポストにもあるカネラキス。
オランダ放送というレパートリーを磨くには好適の立場にあり、コンサートにオペラに、かなり通好みのプログラムを手掛けております。
海外の放送音源から、2018年あたりからカネラキスの名前を注目していて、相当数の音源を保有するに至りました。
そんななかで、いちばん気に入ってるのがラフマニノフのシンフォニック・ダンスと、トリスタンとイゾルデ、法悦の詩、ルトスワフスキ・オケコンなどです。
いまの指揮者にありがちな、後期ロマン派以降の作品に強く、古典系はまだまだ、というところではありますが、オペラでの活動も含めて、こんごともにカネラキスは目が離せない指揮者だと思います。

小柄な彼女ですが、指揮台のうえでは伸び上がったり、左右によく動いて、かなり綿密に指示を出します。
横顔を見ながらの位置でしたが、その眼力や表情の変化などもなかなかのもの。
左手での表情付け、タクトの明快さ、身体能力の高さがうかがえる柔軟性ある動きなど、拝見していてとても気持ちのいい指揮者でありました。
小柄でオット嬢にも負けないスリムなお姿とブロンドを束ねた可愛さ、でもどこからそんなパワーが出るのかと思うくらいに統率力があり、人を引き付ける後ろ姿でありました。

慎重すぎるきらいはあったが、盛り上げも充分なよく歌う1楽章、面白いフレーズが聴こえてくるのも発見だった。
緩急豊かでメリハリのよく効いた2楽章が面白かった。
リズム感のいい指揮に都響がよく反応し、こんなに楽しいスケルツォってないなと思いながら聴き、対するレントラーもよく歌いあげ気持ちが極めてよろしい。
ともかく明朗快活なカネラキスの指揮は2楽章で明確になった。
 都響の各奏者の巧さにも助けられ、重さや物憂ささよりは、明るい前向きな歩みを感じさせた3楽章。
このあたりに陰りや若さゆえのほろ苦さを今後、彼女は表現できるようになることだろう。
ちゃんとアタッカで緊張を止めることなく突入してくれた終楽章。
弦への指示も熱く、都響の分厚い弦楽器セクションも大いに荒れて興奮を呼び覚ます。
ヴァイオリン出身のカネラキスの指揮のこの日のハイライトは、このあと静まってからの第2主題。
静やかに、でも細心の丁寧さを持って歌われる弦によるこの美しい旋律、それが徐々に高まる情熱が加わり、気持ちを込めて指揮をするカネラキス、とても感動的なシーンがここで繰り広げられた。
 次いで出現する1回目のクライマックスとの対比も鮮やかに決まり、また静まってから第2主題が奏でられるが、ここでの静寂シーンでの緊張感はさらなる精度を求めたくもあり。
でも繰り返される波動のように徐々に迎えるクライマックスの前兆、このあたりはオケの見事さもあり聴きごたえあり。
テンポも少し早めつつ、やってきたコーダは若々しい情熱の発露のようであり、堂々たるフィナーレというよりは、明朗で爽快、一気に駆け抜ける早春譜のようでもあった。
こんな若々しいマーラー、久しぶりに聴いた。
聴き手によっては、もっと爆発的なフィナーレを期待したかもしれないが、わたしには、こんな健康的ヘルシー・マーラーは新鮮だったのです。

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女性指揮者と、いまや「女性」でくくることはナンセンスではありますが、しいていえば、若手女性指揮者のトップスリーは、グラジニーテ・ティーラとマルヴィッツ、そしてカネラキスと思ってます。
ミルガたん、カネラキスたん、なんて女の子みたいに呼んでた自分を恥じたい。

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また日本に来て欲しいし、オランダ放送、またはロンドンフィルとはガードナーと一緒にやってきて欲しいな。
アメリカのメジャーオケの指揮者になることもありうるな。

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鳴りやまぬ拍手に応えてひとり登場したカネラキス。

飾り気ないなかに、女性らしい優しい所作で感謝を表明。

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サントリーホールの裏にある庭園には桔梗が咲いてました。

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2024年5月14日 (火)

東京交響楽団 定期演奏会 ジョナサン・ノット指揮

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青く、めちゃくちゃ天気のよかった土曜日。

ミューザ川崎での東京交響楽団の演奏会に行ってきました。

ラゾーナ側から回り込んだので、ちょっと違うアングルのミューザ川崎です。

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  武満 徹   「鳥は星形の庭に降りる」(1977)

  ベルク   演奏会用アリア「ワイン」(1929)

             S:高橋 絵理

  マーラー   交響曲「大地の歌」 (1908)

    Ms:ドロティア・ラング

    T :ベンヤミン・ブルンス

  ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

    (2024.5.11  @ミューザ川崎シンフォニーホール)

2014年の音楽監督就任以来、当初より取り上げてきたこのコンビのマーラーの最終章。
大地の歌をもって、すべて取り上げたことになるそうです。
あと2年の任期がありますが、ずっと続いて欲しいというファンの思いもありつつ、こうしてひとつの節目とも呼ぶべき憂愁あふれるプログラムを体験すると、残りの任期をいとおしむことも、またありかな。
そんな思いに包まれた感動的なコンサートだった。

プログラムの選定のうまさは、知的な遊び心以上に、われわれ愛好家の心くすぐる演目ばかりであることからうかがえることばかりでした。
都内の保守的な聴き手の多いオケや、入りを気にしなくてはならない地方オケでは、絶対に出来ない演目ばかり並ぶノットのこれまでの演奏会。

今回は、時代をさかのぼる順番で、マーラーに端を発する音楽の流れを体感させてくれました。
もっとさかのぼると、トリスタンとパルジファルがあって、マーラーときて、新ウィーン楽派・ベルクときて、ドビュッシーにして武満です。
マーラーは終着ではなくて、通過点であり、その先の音楽の豊穣があることを確信させるような演奏、「Ewig・・・ewig」繰り返される「永遠に」の言葉が今宵ほど美しく、この先が明るく感じられる演奏はなかった・・・・

①「鳥は星形の庭に降りる」

 調べたら手持ち音源は、小澤、岩城、尾高と武満音楽を得意とする日本人指揮者の音盤をいずれも持っていた。
さらに記憶をたどると、岩城宏之指揮するN響のライブも聴いていた。
いずれも遠い彼方にある音楽だったが、今宵はドビュッシーとベルクの延長線上にもある武満音楽を我ながらすごい集中力で持って聴くことができた。
武満作品は、演奏会の冒頭に置かれることが多いので、どうしても後々の印象が薄くなったり、演奏に入りきれないまま終わってしまうケースが多いと思う。
今回は事前に、この日のプログラムを演奏順にCDで予習してきたので、後半に明らかにベルクを思わせるシーンを捉えていたので、まんじりとせず、耳をそばだてながら聴いた。
静謐さのなかに、鳥の舞い降りるイメージや音がホールの空間に溶けていってしまう様子など、ノットの共感に満ちた指揮ぶりを見ながら、音楽を感じ取ることができました。

②「ワイン」

 名品「初期の7つの歌」のオーケストラ編曲をした翌年、「ワイン」は「ルル」を書き始める前に書かれたコンサート・アリア。
3つの部分でなっていたり、シンメトリーが形成されていたり、イニシャルと音階への意味づけ、ダ・カーポ形式といういわば古い酒袋に十二音技法を詰め込んだような、そんなベルクらしいところが満載な音楽なんです。
アバドのCDと、ベームのライブなどを何度も聴いて、その芳醇な音楽とルルを思わせるシーンがいくつもあることなどで、大いに楽しみだった。
まず、ソプラノの高橋さんのぶれの一切ない強いストレートな声に驚いた。
リリックソプラノを想定したアリアだけれど、私の席に届いた声はもっと強靭にも感じた一方、タンゴの部分でのしゃれっ気ある身のこなし、軽やかな歌いこなしなど、表現の幅も広く、感心しながらも楽しみつつ拝聴。
ノットの指揮するオーケストラも、ベルクのロマン性と先進性をともに表出していて、ベルク好きの私を陶然とさせていただきました。

③「大地の歌」

 コンサートチラシにある言葉「人生此処にあり」
この言葉が意味するごとく、「生は暗く、死もまた暗し」・・・ではなくって、人生いろいろ、清も濁もみんなあり、みんな受け入れようじゃないか・・・そんな風に感じた、スマートかつスタイリッシュな「大地の歌」だったように思います。
ご一緒した音楽仲間がタイムを計測してまして、60分を切るトータルタイムだったと証言してます。
早い部類に属するかと思いますが、聴いてて絶対にそんな風に感じさせない個々のシーンの充実ぶりと、気持ちのこもった濃密さ。
概して明るめの基調だったわけですが、歌手の選択にもそれはいえて、ふたりの声の声質は明るめでした。

 テノールのブルンスは、出てきたときからどこかで見たお顔とずっと思い聴いてた。
帰って調べたら、バイロイトのティーレマン指揮のオランダ人(グルーガーの変な演出)のときに舵手を歌っていた人だった。
さらにみたら、バッハコレギウムでエヴァンゲリストも歌ってました。
だから声はリリカルで柔らかくもあり、強いテノールでもないが、張りのある声と言語の明瞭さが決してその声を軽く印象付けることがなかった。
聴いた瞬間に、タミーノを歌う歌手だなとおもったら、やはり重要なレパートリーのひとつだった。
3つの楽章、みんな明瞭かつ清々しい歌唱だったが、「春に酔った者たち」がマーラーの音楽と詩の内容とが巧みにクロスするさまも交えて、とても印象的だった。
ヒロイックでないところがいちばん!

 メゾのドロティア・ラングは、名前からするとドイツ系と思われたがハンガリー系とのこと。
Dorottya Láng = わからないけれど、ハンガリー風に呼ぶならば、ドロッテッヤ・ラーンクみないた感じじゃないかしら、しらんけど。
身振り手振りも豊かに、音楽と詩への共感とのめり込み具合が見て取れる。
オペラでの経験も豊富で、オクタヴィアンと青髭のユーディットなども持ち役で、ドラマチックな歌唱も得意とするところから、この大地の歌も表現の幅がとても広く、ビブラートのないこちらもストレートで透明感ある声と思った。
「告別」での感情移入はなみなみのものでなく、わずかに涙を湛えているかのように見えました。
それでも表現が過度にならないところは、ノットの指揮にも準じたところで、客観性もともないながら、音楽の持つある意味、天国的な彼岸の世界を明るく捉えていたのではないかと思う。
東響の素晴らしすぎる木管群に誘われ、ラングの歌は、どんどん清涼感と透明感を感じるようになり、聴くワタクシも知らずしらず、歩調をともにして、マーラーの音楽と呼吸が合うようになり、いつしか涙さえ流れてました・・・・
こんなに自然に音楽が自分に入り込んできて、気持ちが一体化してしまうなんて。
彼女のナチュラルな歌唱、ノットと東響のお互いを知り尽くした自然な音楽造りのなさせる技でありましょうか。
「永遠に・・・・」のあと、音楽が消えても静寂はずっとずっと続きました。

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アフターコンサートは久方ぶりに、気の置けないみなさまと一献

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コンサートの感動でほてった身体に、冷たいビールが染み入りました。

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つくね、ハイボールもどこまでも美味しかった。

この土曜日は首都圏のオーケストラでは、同時間にいくつもの魅力的な演奏会が行われました。

それぞれに、素晴らしかったとのコメントも諸所拝見しました。

こうして音楽を平和に楽しめること、そんな日本であること、いつまでも続きますことを切に願います。

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2024年2月24日 (土)

神奈川フィルハーモニー第392回定期演奏会 沼尻竜典指揮

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横浜みなとみらいの夜景。

この写真を撮るのも久しぶり。

目を凝らしてみると、かつてはなかったロープウェイも見えます。

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桜木町から、ランドマークタワーを抜けてのホールへのアプローチも久しぶりで、途中、神奈川フィルのポスターもあり、ますます期待が高まります。

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  グリーグ ピアノ協奏曲 イ短調

    ピアノ・ニュウニュウ

  マーラー 交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」

 沼尻 竜典 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

          コンサートマスター:大江 馨

        (2024.2.17 @みなとみらいホール)

マーラー7番だけで80分、これ一曲でも一夜のコンサートとなる。
1曲目にグリーグの協奏曲が演奏されるという極めて贅沢な美味しいプログラムでした。
プレトークでは、沼尻さんは、亡き小澤さんの思い出をお話しされ、またマーラーでの小澤さんのエピソードなども。

グリーグの協奏曲、はっきり言って、シューマンと並んで大好きです。
でも苦言を言わせていただければ、メインのマーラーとの兼合いでいけば、シューマンか、またはピアニストの徳性からいってリストでもよかったかな。
または、ラフマニノフでやってなかった1番とか・・・

自然を賛美、祖国の自然を歌いこんだグリーグの愛らしい協奏曲と、個人の感情の世界とドイツの自然と人間愛にどっぷり浸かったマーラー、この相いれないふたつの世界を一度にして味わえるという、これまた類まれなるプログラムなのでありました。

   ーーーーーーーーーーーーーーーー

幼い頃のニュウニュウ君の画像でしか認識のなかったが、ホールに颯爽と登場したニュー・ニュウニュウ君は、見事に背が高く、見栄えも抜群の今風の青年になってました。
自信にあふれた物腰は、かの国の芸術家に共通する物腰で、ひとたび鍵盤に向かうと没頭感あふれる演奏を披歴してくれます。
両端楽章でのダイナミックなか所では、文字通りバリバリと弾きまくり見ても聞いても快感呼ぶ演奏。
また、没頭の雰囲気は、音楽にすっかり入り込んで、フレーズのあと弾いた手と腕がそのまま宙を舞うような仕草をするし、へたすりゃ指揮までし兼ねないくらいに入り込んでる。
慎ましい日本人演奏家では絶対に見られないニュウニュウ君のお姿に、やはりかの国のピアニストを思ってしまった。
でも若いながらに、2楽章の抒情の輝きは見事でした。
ことにこの楽章での神奈川フィルの音色の美しさは、コンマスに組長なくとも、オケの特性として、みなとみらいホールの響きと同質化して、ずっと変わらぬものとして味わうことができましたね。

   ーーーーーーーーーーーーーーー

超大編成の80分が後半戦という、演奏のみなさんも、聴くこちらも、体力と集中力を試されるかのようなプログラム。

この日の満席の聴衆は、その集中力を緊張感とともに途切らすことなく聴きとおしたのだ。
オーケストラと聴き手の幸せな一体感は、かつてずっと聴いてきた神奈川フィルの演奏会、そしてみなとみらいホールの雰囲気ならではとも、久方ぶりに参加した自分にとって懐かしいものでもありました。
音楽に没頭させる、夢中にさせてしまう、マーラーの音楽がこれほどまでに、現代を生きる私たちにとって身近で大切なものになったとも感じました。

かつて、2011年、震災間もない4月に、マーラーチクルスをやっていた神奈川フィル、聖響さんの指揮で聴きました。
そのときは、若々しく素直な演奏で、横へ横へと流れるような流動的な棒さばきでありながら、時期が時期だけに、没頭的でなく、どこか遠くで醒めた目でマーラーを眺めたような感じだった。

そのときの流動的なマーラーとまったく違う、輪郭のはっきりとした明確かつ着実な足取りを感じさせた演奏が、今回の沼尻さんのマーラーだった。
数年前に聴いた、ノットと東響の演奏が、まさになにが起こるかわからない緊張感とライブ感にあふれた万華鏡のようなマーラーともまったく違う。
オペラ指揮に長けた沼尻さんならでは、全体の見通しのなかに、5つの楽章の特徴を鮮やかに描きわけ、最後の明るいエンディングですべてを解き放ってしまうような解放感を与えてくれた。
きっちりと振り分ける指揮姿も、後ろからみていて安心感もあり、オケへの指示も、さすがのオペラ指揮者を思わせる的確・明快な雰囲気でした。

テナーホルンの朗々たる響きで見事に決まった1楽章は、そのあとのゾクゾクするような7番の交響曲の一番カッコいいスタートシーンで、もうワタクシはこの演奏に夢中になりましたよ。
抒情的な第2主題では神奈フィルストリングスの美しさも堪能。
この主題と元気な第1主題とがからみあう、めくるめくような展開に、楽員さんみなさんをきょろきょろみながらチョー楽しい気分の私。

坂東さんの見事なホルンで始まる2楽章、コル・レーニョあり、カウベルあり、ティンパニの合いの手あり、哀愁と悲哀、そしてドイツの森の怪しさもあり、いろんなものが顔を出してはひっこむこの夜曲、楽しく拝聴し、オケがいろんなことやるのを見るのも楽しかったし。

7番で一番苦手な、影の存在3楽章。
音源だけだと、いつも捉えどころなく出ては消えで、いつの間にか終わってしまう楽章だけれど、視覚を伴いコンサートだと、楽しさも倍増。
弦の皆さんは、いろんな奏法を要求されるし、ほんと大変だな、マーラーさんも罪なお人だな、とか思いながら鑑賞。
ボヘミヤやドイツの森は、こんな風に深く怪しいのかなと思わせる演奏。

大好きな4楽章の夜曲。
以前から書いてますが、若い頃、明日からのブルーマンデーに備えて、日曜のアンニュイな気分を紛らわせるために、寝る前のナイトキャップとマーラー7番4楽章が定番だった。
望郷の思いと懐かしさ感じるこの楽章、ちょっとゾッとするような怪しい顔もかいまみせるが、そのあたりをムーディに聴かせるのでなく、リアルに、克明に聴かせてくれたこの日の演奏だった、
大江コンマスも素敵だったし、親子でマンドリンとギターで参加の青山さん、お二人の息のあった演奏もこの楽章の緩やかさを引き立ててました。
2011年も、お父さんの登場だったかな・・・?

急転直下の楽天的な5楽章。
ガンガン行くし、もう楽しい~って気分がいやでも盛り上がるし、よく言うワーグナーのマイスタージンガーの晴れやかさすら感じましたよ。
ハ調はやっぱり気分がいいねぇ~
なんども変転し繰り返される主題に、いろんな楽器がまとわりつく様は、下手な指揮とオケだときっとぐちゃぐちゃになってしまうだろう。
ここでも沼尻さんの打点の明快な指揮が、聴き手にも、それ以上に安心感を抱けるものです。
しかし、この楽章だけでも、泣いたり笑ったり、怒ったりしたような様々な表情をするマーラーの音楽は、ほんとうに面白い。
エンディングに向かうにつれ、わくわくドキドキが止まらなくなり、オケの皆さんを眩しい思いで拝見。
そして来ましたよ、すべてを吹き飛ばすような晴れやかなエンディングが、ジャーンと見事に決まりましたよ!
ブラボー攻撃に、わたしくも一声参加させていただきましたよ。

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終演後は、早めに帰らなくてはならなかったので、勝手に応援団の懐かしい仲間との大反省会には参加せず、遠来の音楽仲間の友人と桜木町駅近でサクっと1杯。
マーラー7番が大好きな方と、マニアックな話しをしつつ楽しい時間を過ごしました。
そのとき、お話しが出たのは、神奈川フィル聴衆も指揮者へのカーテンコールをしたらどうか、ということ。
たしかに、東響ではノット監督ばかりでなく、来演の指揮者に対してもとてもよかったときは、指揮者を呼び出すような熱心な拍手が継続しますね。
この日も、もっと頑張って粘りの拍手をすればよかったww

「何でもアリ」のマーラーの音楽が、いまこうして完全に受入れられる世の中になった。
やがて私の時代が来ると予見したマーラーさん。
人同士がリアルに交わらなくなくても生きていけるようになってしまった現代社会。
それでいいのだろうかと自問せざるを得ないが、その現代人にマーラーの音楽は、自己耽溺的に響くとともに、人間の姿と自然のあり様を見るのだろうか。

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2022年12月30日 (金)

交響曲第9番 ジュリーニ指揮

Fujimi

散歩してたら見つけた富士が紅葉ごしに見えるスポット。

まだ散る前で、完全に染まっていなかったけれど、満足のいく1枚。

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今年は生活環境がまったく変化したのだけれど、便利さは犠牲にしても、こんな光景がすぐ近くにあるという幸せ。

2022年もおしまいです。

ジュリーニの第9シリーズを振り返ります。

一部は過去記事を編集して再掲します。

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 ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

  S:カラン・アームストロング Ms:アンナ・レイノルズ
  T:ロバート・ティアー     Bs:ジョン・シャーリー・クヮーク

   カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ロンドン交響楽団/合唱団

          (1972.11 @キングスウェイホール)

70年代後半に、ジュリーニはさまざまな第9交響曲を取り上げ、録音しました。
ベートーヴェンも先駆けて録音しましたが、8番と同時に録音された2枚組のレコードは、EMIに継続していたベートーヴェンの交響曲の一環という意味あいの方が強かった。
EMIには、6~9番が録音されたわけですが、この第9はテンポをゆったりととる悠揚スタイルのコクのあるジュリーニと言う意味あいでは、次に来る第9シリーズと同様ですが、やや集中度も浅く、細部の克明さにも欠くように感じられる。
しかし3楽章の透明感と流動性は、ジュリーニならではで、1楽章の激遅と2楽章の超快速との対比が面白いし、終楽章の堂々たる歩みも数年後の超巨匠としての刻印を感じさせる。
オケはいいけど、合唱がいまいちかな。

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 ブルックナー 交響曲第9番 ニ短調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1976.12 @メディナ・テンプル シカゴ)

EMIへのベートーヴェン第9から4年、しかし、その間ジュリーニはウィーン交響楽団の首席指揮者になり、ウィーンにゆかりのある作曲家の作品を格段と指揮するようになった。
74年には、ウィーン響とブルックナーの2番を録音。
NHKFMでも大曲をさかんにとりあげるジュリーニとウィーン響の演奏が放送され、エアチェックにも暇がなかった。
いつしか気になるコンビになっていたジュリーニとウィーン響が日本にやってきた1975年秋、春に来たベーム・ウィーンフィルのチケットが落選となっていた腹いせもあり、東京公演を見事聴くことができた。
演目は、ウェーベルンのパッサカリア、モーツァルトの40番と、ブラームスの1番、アンコールに青きドナウ。
このときから、アバドの兄貴分、ジュリーニが好きになった。

その次の年から始まったジュリーニの「第9シリーズ」
録音順ではマーラーが先んじているが、これはDGの専属となる契約の関係上か。
後年のウィーンとの再録音よりも5分ほど速く、63分でのキリリと引き締まった、そして緊張感にあふれる演奏。
それでいて柔和な微笑みもある歌心にも欠けていないので、おおらかな気持ちにもさせてくれる。
シカゴのブラスの圧倒的な輝かしさは録音のせいもあるかもしれないが眩しすぎと感じるのもご愛敬か。
ウィーン盤とともに、この作品の代表的な1枚かと思いますね。

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 マーラー 交響曲第9番 ニ長調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1976.4 @メディナ・テンプル シカゴ)

ジュリーニとシカゴ響のマーラー第9のLPは、アバドの復活とともに、発売時に入手してマーラーにのめり込んでいく当時の自分の指標のような存在だった。
シカゴということもあり、明るい音色が基調となっていて歌に満ちあふれているが、しっかりした構成感の元、堅固な造型の中にあるので、全体像が実に引き締まっている。
テンポはゆったりと、沈着で、品格が漂い、緻密であり清澄。
音の重なり合いの美しさはジュリーニならではで、優秀なオーケストラがあってこそ保たれる緊張感のある美的な演奏だと思う。
久々に聴きなおして、このようにともかく美しいと思った。
若い頃のレコードで聴いていた時期は、音楽にまず平伏してしまって「マーラーの第9」は凄い、が真っ先にきてしまって、ジュリーニの音楽がこんなに美しく歌に満ちていたなんて思わなかった。
歳を経て、この思いはますます増してきた。

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 シューベルト 交響曲第9番 ハ長調

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1977.4 @オーケストラホール シカゴ)

これもまた学生時代に買ったレコードで、渋谷の東邦生命ビルにあったショップで購入したもの。
このジャケットにあるように指揮棒を握りしめるようにして、熱く歌うジュリーニの音楽。
遅いテンポで重々しい雰囲気を与えがちな晩年のものに比べ、テンポは遅めでも、どこか軽やかな足取りもあり、横へ横へと広がる豊かな歌謡性が実に心地よい。

2楽章のどこまでも続くような歌、また歌。いつまでも浸っていたい。
同じく3楽章の中間部も思わず、体がゆっくりと動いてしまうようなこれまた歌。
1楽章の主部へ入ってからのテヌートぶりも、いまや懐かしい。

レコードで聴いたときは、当時聴いてたワルターやベームとのあまりの違いにびっくりしたものだが、ジュリーニのこのやり方がすぐに好きになり、頭の中で反芻できるくらいになってしまった。
終楽章では、はちきれるほどの推進力で、シカゴのブラスの輝かしさを堪能できます。
現在、シューベルトは後期の番号でも、軽やかにキビキビと演奏するのが主流となりましたが、ジュリーニの堂々としながらも歌がみなぎる演奏は、極めて心地がよく清新なものでした。

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 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 「新世界から」

  カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴ交響楽団

     (1977.4 @オーケストラホール シカゴ)

シカゴ響から引き出したジュリーニの「新世界」の響きは、一点の曇りもなく、明晰でありながら、全体に荘重な建造物のごとくに立派なもの。
全曲に渡って指揮者の強い意志を感じさせ、聴きつくしたお馴染みの「新世界」がこんなに立派な音楽だったとは!と驚かせてくれる。
第2楽章ラルゴは、旋律線をじっくりと歌いむ一方、背景との溶け合いもが実に見事で、ほんとに美しいです。
終楽章も決してカッコいい描き方でなく、堅実にじっくりとまとめあげ、こうでなくてはならぬ的な決意に満ちた盛り上げやエンディングとなっている。

マルティノンの時代から、ジュリーニはシカゴへの客演が多く、EMIにも素敵な録音が60年代からなされていた。
ショルティがシカゴ響の音楽監督になるとき、ショルティが要望したことのひとつは、ジュリーニが主席客演指揮者となることだったらしい。
同時にアバドもシカゴとは相思相愛で、ショルティは後任にはアバドとの思いもあったくらい。

わたしはジュリーニは70年代が一番好きで、シカゴとロスフィル時代が併せて一番好きです。
へそまがりなので、CBSに移ってからの再録音の数々はほとんど聴いていない。

自身の指揮者としてのキャリアと歩みを確かめるようにして70年代に残した「第9シリーズ」。
シカゴという伴侶があってほんとうによかったと思うし、ジュリーニという指揮者の一番輝いていた時期を捉えてくれたことにも感謝したいです。

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季節外れの紅葉ですが、やはり日本の景色や風物には欠かせない美しさがあります。

2022年最後の記事となりますが、週1を目途としてきたblog更新。
blogはオワコンみたいに思われて久しいですが、一時休止はあったものの、こうして続けて、またあとで見返して、そのとき自分はどうだったか、どんな音楽を聴いていたのかなどという風に自分の記録を残すことが大切だから続けます。
オペラなどは念入りに調べてから文書を起こすので手間暇がかかりますが、自分の記事を読んで、またあとで聴くときの参考になったりもするし、よくこんなこと書けたな、と自分で驚いたりすることもあります(笑)。

来年もマイペースで、できれば更新頻度を上げたいな。

2023年もよろしくお願いいたします。

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2022年8月27日 (土)

マーラー 交響曲第3番 ベルティーニ指揮

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夏の野辺を飾る鮮やかで美しい花が、百日紅(さるすべり)。

大陸の期限の植物で、その幹がすべすべなので、お猿も滑り落ちるということからその名が付いたそうな。

百日紅という名前には、悲しい後付けの悲しい物語があるようですが、そんなのは気にせず、ともかく夏のこの時期に長く花をつけることから、百日、ということになったのでしょう。

ごもあれ、夏の花。

暑いけど、夏の終わりにマーラーの3番。

いまのように、パソコンなんてなく、インターネットなんて言葉すらなかった私の音楽の聴き始めの頃。
もちろん、CDなし、カセットテープもまだ出始めたばかり。
音楽を聴くには、生の演奏会か、レコードか、オープンリールテープか、ラジオ(テレビ)に限定。
音楽情報は書籍のみ。
マーラーの大作なんて聴くすべもなかったし、そもそもマーラーという作曲家のなんたるかも書籍でも紐解くことがなかなかできなかった。
音楽の友社の出していた名曲解説全集の交響曲編上下2冊と同じくオペラ上下が、中学・高校時代の愛読書で、交響曲は4つの楽章が基準なのに、このマーラーとかいう謎の作曲家は、5つも6つも楽章がある、いったいなんなのだ?
という疑問が先立つマーラーへの印象でした。

それがいまや、いくつもの全集をそろえ、日々、簡単に、どんなときでも聴くことができる、身近な作品たちにマーラーの音楽はなりました。
いまでも、名曲解説全集は手元にありますが、その版の一番最新の作品はショスタコーヴィチの10番までとなってます。

こんな時代を過ごしてきました。
でも不便だったし、音楽を聴くにもお金も手間暇もかかりましたが、ともかく貪欲に、まさにすり減るくらいに、徹底的にレコードを聴き、あらゆるジャンルの音楽をこの身に吸収していった幸せな時代だった。

いまはどうでしょうね。
音楽を消費するように聴いてないか、聴いたことを主張したくて聴いてないか?

不便だったあの時代の気持ちに立ち返って、慈しむように音楽を聴かなくてはと思う次第だ。

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  マーラー 交響曲第3番 ニ短調

     Ms:グウェンドリン・キレブリュー

  ガリ・ベルティーニ指揮 ケルン放送交響楽団
        西部ドイツ放送・バイエルン放送女声合唱団
        ボン・コレギウム・ヨゼフィーヌム児童合唱団

            (1985.3 @ケルン)

ベルティーニのマーラーをこのブログで取り上げるのは初めてかもしれない。
聴かなかったわけじゃありません、いつもアバドやハイティンクばかりを取り上げているので、ベルティーニの出番がなかっただけなのです。

ベルティーニのマーラーを初めて聴いたのは、ベルリンフィルに客演した1981年のFM放送を録音してから。
当時、奇矯なる作品だと7番を思っていた自分だが、この演奏でその美しさに目覚めた。
抜群の切れ味と響きの美しさ、オケのべらぼうな巧さなどに魅かれ何度も聴いた。
その後、ベルティーニのマーラーは、ウィーン響やドイツ各地の放送オケのFM放送で聴き、着目していた。

そして1985年、ベルティーニは都響に客演し、マーラーを4曲指揮して、私は、2、5,9番を聴くことができました。
さらに1987年には、N響との3番を聴きました。
いずれも、鮮やかかつ、くどいようですが、美しいマーラーで、小柄なベルティーニが眼光鋭く、きびきびした指揮ぶりで、オケを見事にコントロールしていたのが忘れられません。
しかし残念ながら、ケルン放送との来演でのマーラー・チクルス、都響音楽監督就任後のマーラー・チクルスはなぜか一度も聴くことはありませんでした。
公私ともに忙しくなった時期と、着目していたのに、みんながベルティーニのマーラーはいいよと絶賛しただしので、ちょっと天邪鬼のワタクシは足が遠のいたのかもしれませんね。
しかしこの1985年は、2月にベルティーニ、9月にバーンスタインとイスラエルの第9、10月にはコシュラー都響で千人。
翌86年には、小澤BSOで3番、ショルティ・シカゴで5番を聴いてました。
バブルにさしかかり、音楽聴き人間には、財布に厳しくもいい時代でしたね。

でもCDでのベルティーニ、マーラー・シリーズは求め続けました。
まだ欠番があって、全集を買い求めるかずっと検討中で、いまに至るです。

いちばんに求めたCDが3番。
それこそ、20年ぶりぐらい聴いた。
もう素晴らしくて、感動のしっぱなしで、夢中になって一気聴きの105分。
ベルティーニのマーラーは、総じてゆったり目で、細部に渡るまで目が行き届いていて、すべてにおいて精度が高い。
ネット情報や、のちのベルティーニのマーラーを聴いてる方の話だと、ベルティーニは歳を経ると早めのテンポを取るようになり、より厳しさも増して行ったとか。

でも、自分にはこのケルン盤が懐かしく一番、これでいいです。
磨き抜かれた音のひとつひとつは、繊細美的で、録音技術もあがったデジタル録音にもピタリと合う演奏でした。
細部にこだわりつつ、大きな流れも見失わず、でもそこにあるのは音を突き詰める厳しさと、そもそものマーラーへの音楽への愛情。
ほんとうに美しい演奏だと思う。
絵画でいうとフェルメールみたいに、遠近のたくみさ、光と影が、1枚の絵のなかにみんなちゃんと描かれている感じ。
大好きなアバドとウィーンのナチュラルで、純粋な眼差しと心情にあふれた演奏と双璧で好きな演奏ですよ。
あとハイティンクとシカゴ、バーンスタイン旧盤もですね。

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それにしても6楽章の折り目正しい歌い口はいかばかりだろうか。
26分あまりをかけて、じっくりと歌い上げるこの演奏に、夏の終わりの夕焼けが実に映えました。
なんどもいいます、美しい演奏です。
終楽章の最長の演奏はレヴァイン、アバドVPOも、ベルティーニと並んで長い。
逆に短いのが、テンシュテットとメータ。

暑かった夏。
でも、夏の終わりはいつも寂しいもの。
長いマーラーの3番で、行く夏を惜しみました。

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ベルティーニは優れたオペラ指揮者でもありました。
ベルカント系も録音があり、マーラー編のウェーバーのオペラもありました。
このあたりも、もう一度再評価していい指揮者だと思います。
気質的にワーグナーもよさそうでしたが、ユダヤ系だからどうでしたでしょうか。

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2022年1月20日 (木)

マーラー 交響曲第9番 アバド指揮

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晴れた冬の日の朝。

二宮町の吾妻山からの富士。

右手は丹沢連峰で、大山はもう少し右手。

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相模湾方面に目を転じれば、箱根の山と小田原の街。

ふもとの小学校時代から、ずっと登って親しんできた小さな山ですが、今年はとりわけきれいだった。

テレビやマスコミにもこの町の、都会に比べると何もないが自然があるという魅力が報じられるようになり、若い人たちの移住も増えてきた。

長寿の街に、若い息吹きを感じるこの頃です。

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  マーラー 交響曲第9番 ニ長調

   クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

        (2010.8 @コングレスザール、ルツェルン)

1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

2014年の今日、アバドは旅立ってしまいました。

享年80歳、いろんなプロジェクトをかかえ、まだまだ活動の幅を広げていた時分のアバドでした。

アバドの死を知ったときの驚愕の朝。

「さようならアバド」

アバドのもとに集まった、腕っこきの奏者たちによるスーパー・オーケストラ、ルツェルン祝祭管とのマーラー・シリーズの最後は第9。
翌2011年には、10番を取り上げましたがアダージョのみ。
8番を残して、マーラーシリーズは終わってしまいましたが、その8番は、後任のシャイーが2016年に取り上げ、ルツェルン祝祭管のマーラーは完結しました。

トスカニーニが始めたルツェルンのオーケストラ。
アバドはベルリンフィルを辞めるとき、このあとは何をするんですか?と聞かれ、すごいことを企画してるからお楽しみに~的な発言をしてまして、2003年にベルリンフィルのメンバーに、ヨーロッパのオーケストラの首席や名ソリスト、室内楽団などの奏者たちで創設された新ルツェルン祝祭管弦楽団をスタートさせました。
このスーパーオケに、アバドが育てたマーラー・チェンバーの若い奏者たちも加わり、2010年のこちらのDVDでは、若い顔がかなり目立ちます。

76年からスタートしたアバドのマーラー録音。
シカゴとウィーンとで順調に録音を重ねたが、8番と9番を前にしていったん停止。
8番はともかく、アバドは9番に対してとても慎重でした。
シカゴでなくウィーンを選んだのも、得意とする新ウィーン楽派を意識したものかもしれないが、ついに実現したアバドのマーラー9番に狂気乱舞したが、もう30年が経過した。
そのあと、ベルリンフィル、マーラー・ユーゲントとライブ録音を残し、ついにルツェルンで9番を指揮したのが11年前。

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テンポも年月とともに伸びました。
マーラー・ユーゲントとの演奏はローマでのライブで、若い奏者たちと聴衆たちの影響もあったのでしょうか、かなり自在な演奏にも聴こえますし、熱い演奏でした。
ウィーン、ベルリン、ルツェルンと名オーケストラとの演奏が残されたのはありがたいことです。
シカゴでも聴いてみたかった。

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ここでの演奏は、もう言葉にするのも無駄なことに思えるくらい、突き詰められた究極の演奏行為だ。
流れるようないつものアバドの流線形的な指揮は、つねにしなやかで、どんなフォルテでも柔らかく、どんなピアニシモでも歌は忘れない。
アバドの意志を100%理解し汲んだオーケストラは、アバドの指揮と音楽とに完全に没頭していて、それこそ食い入るように演奏している様が映像でよくわかる。
緻密で、それこそ新ウィーン楽派への橋渡しも感じられる1楽章。
にこやかな笑みすら浮かべながら指揮をする2楽章、オーケストラの驚異的な高性能ぶりが燦然と輝く3楽章、ここでもアバドはしなやかさの極致で微笑みも。
感動の極みを味わえる終楽章。
まったくさりげなく始まるが、分厚い弦に無常すら感じさせる管の名手たちの音色が乗り、音楽はどんどん無色透明になっていく感じ。
これまでの録音のなかで、一番テンポが遅くなり、音に込めた思いが強いはずながら、その音は繰り返しますが透明感が高い。
クライマックスの後の、弦の引き伸ばしも壮絶。
「死に絶えるように」のラストシーンは究極なまでの静けさに、息をするのもはばかれるような思いになります。
音が消えてもアバドが指揮棒を胸の前に握りしめて、オーケストラも動きを止め、聴衆も身じろぎもしない。
この静寂も音楽の一部であることを実感できる。

マーラー・ユーゲントとのDVDでも、ラストは照明を落とす演出がなされたが、このルツェルンでもあの時ほどではないが、会場は暗くなり、いやでも静寂を味わい噛みしめることを余儀なくされる。
2006年のこのコンビの来日公演での6番の終結でも、同じく静寂が訪れました。
あのときは、演奏のすごさ、すさまじさに唖然としてしまい、加えてオーケストラメンバーたちの感動もすべてを停止させてしまう伝播となりました。
6番のあとと、この9番のあとの静寂は意味合いが違うと思います。
音楽の持つ必然性をアバドが意識し、そして聴衆もすんなりと受け入れたのだろう。

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ともかく、この第9の映像を伴った演奏は、アバドのマーラーの到達点であるとともに、数あるマーラーの第9の演奏のなかでトップに位置するものだと思います。
このルツェルンの演奏会に一緒に渡航しませんか?とのお誘いもいただき、真剣に行きたかったけれど、資金的にも仕事的にもあきらめたことを覚えてます。
何をおいても行ってしまうんだった・・・
2013年の秋に、アバド&ルツェルンは再来日を予定されていましたが、アバドの体調悪化で中止となりました。
だから、私がアバドの指揮に出会えたのは、2006年が最後となりました。

Azumayama-b

クラウディオ・アバドの命日に、早い春の菜の花を手向けたいと思います。

いま吾妻山は菜の花が満開です。

 1月20日 過去記事

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」

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