カテゴリー「バルビローリ」の記事

2023年4月22日 (土)

バックス 「ファンドの園」 バルビローリ指揮

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ネモフィラと富士山。

秦野市の弘法山の中腹にある広場にて。

この日は黄砂の影響で、富士がやや霞んでしまったのが残念だけど、まるで楽園のような美しいブルー。

初夏のような日が連続して、桜も一気に咲き終わってしまいましたが、次々にいろんな花がはじけるように咲き誇り、忙しいです。

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わずかに残っていた牡丹桜とネモフィラ。

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  バックス 交響詩「ファンドの園」

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハレ管弦楽団

         (1956.6.10 @マンチェスター)

久々に取り出したバルビローリの懐かしの1枚。
英国パイレーベル原盤をテイチクがレコード時代には廉価盤で発売し、CD時代初期にも数枚がCD化された希少な国内盤。
今では外盤、ダットンレーベルあたりで出ているでしょうかね。

この1枚の白眉は、ディーリアスの悲しいぐらいに美しい「田園詩曲」で、もう15年も前に記事にしてました。
ほかの収録曲は、ディーリアスでは「かっこう」「楽園への道」「イルメリン」「フェニモアとゲルダ」などの定番。
あとこれまたステキな、バターワースの「シュロプシャーの若者」が入ってます。
そして私の好きなバックスも。

三浦淳史さんのCD解説をもとに。
サガ(北欧伝説)に基づくもので、祖国を守った英雄「ベール族のアキレス」が、大洋の支配者の娘「ファンド」の誘惑に負けてしまい、これまでの英雄的な行動を忘れてしまう、というもの。
 この伝説をバックス流に、「ファンドの園」を「海」にたとえ、ファンドの魔法の島にうちあげられた船の乗組員たちが遭遇する饗宴の様子、そのあと高波がおこって、島全体が飲み込まれてしまうことになる・・・、やがて海は静まり、ファンドの園も消えてしまう。
 こんな風にイメージされた、一服のバックス独特のケルト臭あふれる清涼かつ神秘的な音楽。
1916年の作品。

この曲、ブライデン・トムソンの指揮のバックス交響詩集で、これもまた15年前に記事にしてました。
アルスター管弦楽団という北アイルランドの本場オケと、シャープでダイナミックなブライデンの指揮が、録音の良さもあって抜群な演奏だった。
B・トムソンの録音は1984年のデジタル録音で、いまから40年近く前。
それより遡ること1956年、ぎりぎりステレオごく初期の頃の録音がバルビローリとハレ管のもので、分離のいまいちさ、音の混濁、音の遠いイメージなどから、いまの最新の録音からも聴きおとりのするトムソン盤よりも、はるかに昔の音に聴こえる。
でも、それが実はいい。
古風な、もしかしたらたどってきた道を振り返るような、郷愁をさえ感じさせる、そのいにしえ感は遠い世界のレジェンドにも通じるもの。
多少のもこもこした雰囲気は、バルビローリの情熱と共感をともなった熱い指揮でもって、なおさらに愛おしく感じます。

そこそこに歳を経て暮らす、若き日々を育った場所での生活。
地域を周り巡るたびに見つけ出す新鮮さ。

愛好してきた英国音楽に通じる郷愁の音楽が、いまこそ身に染み入るようになってきました。

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ちょっと場所を変えて、眼下に見入る秦野の街。

ブルーの海のような幻想の世界。

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2022年4月 3日 (日)

ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第3番&5番

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春まっさかり。

桜も関東は終盤で、この週末が最後の見ごろ。

移動してきた実家の庭の春紅葉と桜。

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寒暖の差が大きく、今年の桜はことさらに美しく感じられました。

不穏な世界も、この桜を愛でて一呼吸して欲しいものです。

今年2022年は、ラルフ・ヴォーン・ウィリアムス(1872~1958)の生誕150年。

あらゆるジャンルに、万遍なく、その作品を残したRVW。
あらがいきれなかった9番までの交響曲に、民謡をもとにしたお馴染みのグリーンスリーブスなどの瀟洒な作品や、タリスなどの管弦楽作品、さまざまな楽器の協奏曲作品、室内楽、器楽に、オペラ7作、そして歌曲や声楽曲も多数。
多作家であり、晩年まで意欲は衰えず作曲を続けた。

その生涯にふたつの世界大戦を体験し、その作品にはその影が大きく落としている。
一方で、そんな陰りなどは、まったく感じさせない、英国の田園風景や自然、そして民謡採取から生まれた懐かしさ感じる音楽もあるし、シネマ的な優れた描写音楽もある。
9曲の交響曲には、そんな多面的なRVWの音楽の姿がしっかり反映されていて、それぞれに分類もできる。

今年、数回に分けてRVWの交響曲をその特徴をおおまかに分類しつつ聴いてみたい。

1回目は、不穏ななかに求めたい自然の優しさを。
しかし、いずれもふたつの大戦にはざまれた作品。

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     ヴォーン・スイリアムズ 田園交響曲(交響曲第3番)

       S:ヘザー・ハーパー

   アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

         (1971.1.8 @キングス・ウェイホール、ロンドン)

    ※ジャケットはあまりにステキなものなので借り物で、私のプレヴィン盤は全曲盤
     以下ふたつ記載も以前書いたものに少し手をいれたもの

1922年に
ボールトの指揮により初演。
全曲がゆったりしたモデラートで書かれた、田園を思い描いた心象風景そのもので、平安を求めるより内面的な音楽でもある。


北フランスにいた1916年頃から構想され、そのカミーユ・コローの風景画のような景色に大いにインスパイアされた。
第1次大戦が、しかしこの平和な交響曲に陰りを帯びさせることとなる。
構想から6年、完成した「田園交響曲」は、確かに平和でなだらかな牧歌的なムードにあふれているが、RVW独特のペンタトニックな旋律は、物悲しい北イングランド風で、戦争の悲しみをも歌いこんだ戦火で命を失った人々へのレクイエムのようでもある。

木管の上下する音形で印象的に始まる茫洋とした出だしの第1楽章。
徐々に霧が晴れてくるかと思うと、また風景はぼんやりと霞んでしまう・・・。

やはり静やかな第2楽章、長いトランペットのソロは、夜明けを切り裂くような悲しいラッパに聴こえるし戦渦のなかの慄きか、はたまたあまりに儚い夢の中に留まりたい思いもあるかのようだ。
唯一元気のある3楽章は、フルートやヴァイオリンソロ、ハープの涼やかな合いの手が美しいが、ダイナミックな舞踏曲の様相となるユニークな楽章。
そして、この曲最大の聴き所の第4楽章。ティンパニのトレモロのなか、ソプラノ・ソロが歌詞を伴なわずに入ってくる。
このミステリアスな雰囲気で始まる繊細で美しい終楽章は、心の襞に染み入る癒しと安らぎの音楽だ。
優しく、おやすみなさい、お眠りなさいと語りかけるような音楽。
最後に再度、ソプラノが歌い、消え入るように「田園交響曲」は終わる静寂が訪れる。

次項の5番とともに、心優しい音楽づくりのプレヴィンにもっとも相応しい3番。
LSOと残した交響曲全集のなかでも、もっとも最後の方の録音で、オケとも関係性でももっとも緊密だったころ。
若いプレヴィンならではの、柔軟かつ歌にこだわる歌いまわしが心地よい、まさにフィーリングに満ちた演奏。

  ヴォーン・スイリアムズ 交響曲第5番

    サー・ジョン・バルビローリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団

          (1962 @ロンドン)

   ※CDが引越し荷物に埋もれジャケット画像はありません。
    PCに取り込んだCDを再生しました
    このCDはサージェントのRWVも聴けるすぐれもの

次の戦争1943年という世界大戦まっただ中に、何故にこのような平和で柔和な作品が残されたのだろうか。
この前の不協和音乱れ飛ぶ不穏な4番(1943)と戦後作品とはいえ、闘争心と暗さみ満ちた6番(1947)というシャープでキツイ交響曲にはさまれた第5番が戦中だったことを思うと作曲者の心中を推し量りがたくなるがいかがだろう。

ヴォーン・ウィリアムズは熱心なクリスチャンだった。
オペラに声楽曲に、宗教を背景とした作品も多い。
第5交響曲をじっくり聴いてみると、RVWが戦火の悲惨さを思いつつ、そんななかで、祖国への愛、とりわけ英国の豊かで緩やかな自然、そして自らの宗教観を重ねてみたのではないかと思う。

「アレルヤ」という、キャロルの旋律が随所に何度もなんども出てくる。
イギリスのキャロルのなかで、もっとも知られたフレーズ

荘重で、まさに教会旋法を思わせる第1楽章。
スケルツォの2楽章。民謡調のパッセージが明滅しつつ、とりとめのない雰囲気。
この交響曲の白眉といえる第3楽章の素晴らしさ。
あまりに美しく儚く、切ない音楽。
ここに、純真な祈りの心も読み取れる。
例のアレルヤも何度もくりかえされる。
この楽章だけでも、ときおり聴くことがある。
わたしが死んだら、この楽章をいくつものリクエストの中のひとつとしてかけてほしい。
宗教感・自然観・人間模様がRVWの中で昇華されたかのような素晴らしいシーンなのだから。
いま、世界に一番聴いてもらいたい音楽。
 最後にパッサカリアとして、快活に始まる終楽章も、後半は全曲を振り返りつつ、3楽章をとりわけ思いおこしつつ、浄化されたかのようにして澄み切った雰囲気で曲を閉じるが、この曲の素晴らしさを集大成したような名残惜しい、そして忘れないで欲しいと語りかけてくるような、身にしみいるようなエンディング。
泣けます。

RWVの交響曲の中では一番好きな作品。
近年、一番演奏されているRWVの交響曲だと思う。
バルビローリはRWVの交響曲をボールトのように、すべて演奏しなかった。
残された録音は、2番(ロンドン)、5番、8番だと思う。
もっともバルビローリ向きの5番をEMI にステレオ録音されてよかった。
録音は古びて聴こえるが、バルビローリの一音一音、慈しむような、かつ熱い指揮は、この音楽の持つ祈りの熱さを伝えてやまない。
3楽章には熱き感動が、ラストシーンには切ないまでの祈りがここに聴かれます。

この5番は演奏会でも、プレヴィンとノリントン、いずれもN響の演奏で聴いてます。
いまこそ、RWVの田園と5番を聴くべし時節です。

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おうちから見える桜。

デスクから首を伸ばすと見えるぜいたく桜。

でも散った花びらを掃除するのはたいへんだし、葉が茂ったあとは、虫ちゃんがやってきます。


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桜は刹那的に楽しむもので、日本特有の味わいかたも華やかで儚いものです。

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この週末は冷たい雨で、次週晴れたら桜吹雪です。

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2013年7月26日 (金)

マーラー 交響曲第9番 バルビローリ指揮

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7月のはじめ、自宅から見た夕刻の空。

夕焼けというものは、その日、その時によって、このように息をのむような壮絶な光景を見せてくれます。

人生の夕暮れを感じることもできますし、次にまたやってくる明日を感じることもできます。

歳とともに、前者の思いが深まるばかりです。

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  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

 サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                  (1964.1 @イエスキリスト教会、ベルリン)


久々のマーラー(1860~1911)。

言わずとしれた、バルビローリの第9を久しぶりに聴きます。

ベルリンフィルに定期的に客演していたバルビローリは、得意とするマーラーを携えてベルリン入りすることが多く、いまや数々のライブ復刻音源が出ております。
第9もその一環で、あまりに有名な楽員からのレコーディング要望という経緯も、いまや「バルビローリのマーラー第9」という普遍的な固有名詞的な存在と、その逸話でもって、燦然と輝いているのでございます。

マーラーの音楽を聴くということは、ひとむかし前なら、すべての夾雑物を排して、土曜日などの休前日の晩に、真剣に命をかけるようにして取り組んでいたものです。
同じように、ワーグナーもそのようにしておりました。

それが、いまや、マーラーは日常茶飯事のように、思ったその時に聴いてしまうという、ごく親しい存在になっているのです。

こうしたマーラー受容経験を経たのちに、またあらたに、かつての60~70年代のマーラーを軽いスタンスで聴くということが、じつはあんまりできないんです。
それぞれに、真剣に思い入れも込めて聴いてきた音源は、いまでも軽々しく聴くことはできないのでした。

ラトルやノット、ヤンソンスの第9は、さらりと何気なく平日の晩に聴けるのですが、バーンスタインやアバド、カラヤン、テンシュテットなどは、おいそれとは日常的に聴けない。
ところが、心優しいバルビローリの名盤は、そのどちらでもなくて、真剣に取り組んでもよし、軽い平日の晩のタッチで聴くもよし、身近に感じることのできる第9なのです。

彼岸に踏み出した、あっちへ行っちゃってる音楽という認識や概念は、ここではまったく感じることがなく、どこまでも音符のひとつひとつを慈しむ指揮者を、信望してその持てる最高性能のすべてを全開してしまったオーケストラ、という図式が成り立ってます。

優しい雰囲気に終始あふれた1楽章と、ずっとずっと弓を引っ張りながら、歌の限りをつくす終楽章がともかく素晴らしい。
バーンスタインとはまた大きく違ったエモーショナルな終楽章は、強引さはひとかけらもなくって、オケの全員がサー・ジョンの思いに寄り添い一丸となってしまった、たぐい稀な音楽表現であると確信します。

言葉は不要、多くの方々が聴いてきた、高名なるバルビローリのマーラー第9に、わたくしもここで讃辞を捧げたいと思います。

余談ながら、日曜に聴いた神奈川フィルの佐村河内交響曲は、日に日にその思いを増してます。
ここ数日、ワーグナー、チャイコフスキー、マーラー、ブリテンと聴いておりますが、佐村河内音楽の根底にあるのは、ワーグナーの錯綜する複雑かつ、劇的な音楽造りに共通するもの。
パルシファルとリングとの共通項を、言葉には変換できませんが、いくつも見出しております。

この夏は、ほんと、忙しいです。

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2013年6月18日 (火)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 バルビローリ指揮

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横浜スタジアム前の横浜公園から。

ラミちゃんと、キャプテン石川。

メリハリある采配を行う中畑監督にあって、ちょっとダレたら厳しい応酬が下ることが、石川への対処でもってわかった。
ラミちゃんも、守備があんまりにもショボイから・・・
でも、ラミちゃんは、ブランコがファーストにきちゃったから気の毒なところもあるし、交流戦でも、はじけるモーガンがDH座っちゃったしで、最近どうも浮かばれない。
それでも、テレビ見てたら、ベンチの最前列で激を飛ばし、真っ先に選手たちを向かい入れるその姿。
日本球界にずっと残りたい、貢献できる、というその熱心な姿にファンは心動かされているんだ。

ロッテが、大砲を探していて、DHだしラミレスがその候補と出たのがちょっと前。
しかし、ラミレス違いで、ボストンからいま台湾に行っている超メジャーの同姓の選手、ということが今日わかりました。
もしかしたら、それも目くらましということもありえますが、私としては、ずっとベイに残って、同じリーグで、あのオレンジ色のすごいヤツを叩きのめす力になって欲しい。
がんばれラミちゃん、と言いたい!!

好きになると、わたくしは、一途に長いです。

横浜大洋ホエールズが、東海道線色のユニフォームの川崎時代、中学生のときから。
いまあるクラヲタ君的フェイバリット、ワーグナー・ディーリアス・アバド・ハイティンク・オペラも中学生から。
かれこれ、いずれも40年となろうとしてます。

え? 女性は? はてそれはなんのことかしらん。「悲愴」「悲劇的」「悲しいワルツ」「冬の旅」「さすらう若人の歌」・・・・そんな曲こそが拙者には相応しい悲しみ三重奏トリオ作品96なのだ??

冗談さておき、今宵は「悲愴」。

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  チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」 

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団

                     (1958.10@マンチェスター)


チャイコフスキー 交響曲シリーズ。

高名なる6番「悲愴」を。

人生への絶望と厭世、悲哀の情を込めた1893年、チャイコフスキー最後の年の交響曲。

この年をよく見れば、今年は、「悲愴」120年の年なんですな。

チャイコフスキーの生誕200年は、2040年なので、それに遭遇することは、もしかしたら無理だろう。
それに会える若いチャイコフスキー好きの方には、おめでとうと、今から言っておきたい。
かつて、ベートーヴェンや、モーツァルト、バッハ、ブラームスのアニヴァーサリーを大いに楽しみ、今年、ワーグナーとヴェルディとブリテンのトリプル・アニヴァーサリー・イヤーを謳歌している自分です。
だからきっとチャイコの生誕200年は思いきりのめり込めると思ってやみませぬ。

サラリーマンを辞めてはや11年目。
ある意味死ぬまで自由に働くことができます。
この自由さの持つ経済的な不自由は味わったものでしかわかりますまい。
「悲愴」「悲劇的」「悲しいワルツ」「冬の旅」「さす・・・・・、これらの音楽がこれほどに身に沁みる立場の存在ってありますまい。
その裏腹に、あらゆる楽観をも享受できる立場にもある自分。

喜怒哀楽・悲喜こもごも、人間の感情のジェットコースターにございますよ。

悲観的な自分が、ものしている今日の「さまよえるクラヲタ人」の記事。

中学1年のときに初めて聴いた「悲愴」。
中坊なりの大いなる悩みや、わからないことへの困惑、体のこと女子のこと・・・。
あらゆる悩みを集約したかのように、この交響曲に没頭した時期もありつつ、一方で、先にあげた、ワーグナーやディーアスで、壮大な世界観と恋愛観、美しい自然なども音楽から学びとった。

コロンビアのダイアモンド1000シリーズの中のこの1枚は「悲愴」の刷り込み演奏でした。

高校に入って、アバド&ウィーンの「悲愴」が出現して、そちらにナンバーワンは自分的に譲ったけれども、このバルビローリ盤は本当に忘れられない。

木管のもこもこ感は、録音の古さと同時に、ハルレ管の懐かしの音色として養われ、バルビ特有の心込めた歌い回し、すなわち1楽章全般と2楽章の中間部、終楽章の切ないまでに悲しみの情感を乗せた弦楽器。
全般を鑑みるに、現在の楽譜主体、解釈薄目、表情薄目、表現濃い目のある意味耳当たりよく演奏効果のあがる演奏とは違う。
木訥した語り口のなかに、音符に熱い思いを込めた感じ。
そして意外なまでに、3楽章はテンポを動かさずに相当な激情ぶり。
オペラ指揮者でもあったサー・ジョンの気合のこもった指揮ぶりもうかがえます。

しかし、「悲愴」は、いまや、そのタイトルを忘れて、あ~あぁ、今日はこんなこともあったな、みたいに、さりげなく、飲んだあとのお茶漬けみたいに、さらさらと食して、翌日に引っ張らない吹っ切れ感のよさも必要なのだろうと思います。
チャイコフスキーの音楽は、そのように多面的で、いろんな聴き方ができるのだとも。

悲しいお酒も、いまは、ビール、日本酒、焼酎各種、酎ハイ、カクテル、梅酒と硬軟豊かなのですからね、音楽もそういう風に聴くのがありですよ。

70年代オヤジの繰りごととして、バルビの悲愴をお受け止めくだされば、と思います。
古事ばかり、ご無礼いたしました、若い衆。

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2012年8月18日 (土)

ヴェルディ レクイエム バルビローリ指揮

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お盆最後の送り火のあとに見た夕景。

遠くに富士山。

晴れて、昼との温度差が出ると、こんなに美しい夕焼けとなるこのごろ。

かつては、こんな夕焼けはあんまり見れなかった気がしますがどうでしょうか。

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富士を少しアップで。

樹木越しでも、美しい輪郭とピンクからオレンジに染まる夕焼けは美しい。

自然は巧まずして、このような美景を造り出してしまいます。

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     ヴェルディ    レクイエム

      S:モンセラット・カバリエ    Ms:フィオレンツァ・コソット
      T:ジョン・ヴィッカース      Bs:ルッジェーロ・ライモンディ

    サー・ジョン・バルビローリ指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                             〃        合唱団

                  (1969.8、70.1 ワトホード・タウンホール)


何度も書くことになりますが、8月のヴェルディのレクイエムにある思い出は、テレビで見たバーンスタインの壮絶な指揮ぶり。
バーンスタインのドシンバタンと跳躍とともに、ディエス・イレの烈しさが以来ずっと耳についてます。
1972年か73年のことだったかと記憶します。

以来、ヴェルディのレクイエムは、わたしには夏が一番お似合いの音楽になりました。
もちろん、折に触れ聴いてますし、年中聴いてもその感動は変わりません。

ヴェルディならではの、歌を中心とする劇性に大きく傾いたレクイエムは、ディエス・イレばかりの聴き方から脱したときに、この音楽の持つ抒情と歌心という真髄が見えてくる。
その歌心とそして祈り、適度な劇性が結実した演奏にこそ、魅力を感じる。
これも何度も書きますが、アバドとスカラ座の演奏がわたしには一番です。

今日のバルビローリ最晩年の演奏は、この点、とてもユニークなものです。
イタリア人の父とフランス人の母を両親に持つ英国人は、さながらドイツ系のディーリアスにも英国の血が流れてないところが通じておりますが、父方の祖父もイタリア人で、ともにオペラハウスのヴァイオリニストで、同時に「オテロ」初演のオケのヴァイオリニストであったということで、ヴェルディ演奏の本流筋にあったと思われます。
近々取り上げる予定の、サー・ジョンの「オテロ」録音と並んで、晩年に巡ってきたヴェルディ録音は、本人も熱望したであろうことだが、ニュー・フィルハモニアを指揮して、並々ならない意欲をここに聴くことができる。

約90分、たっぷり、ゆったりと時間が流れてゆきます。
冒頭のレクイエム、慈しみと優しさにあふれたデリケートな出だし、合唱も品位を保ちながら語りかけるような歌い口。静かな場面では、こんな感じに進行し、盛り上がりも絶叫はなく、怒りの日もじっくりと一音一音をかみしめるかのような着実さが身上。
ところどころ、その思いが募るように、音楽の流れが沈滞してしまうのもバルビローリらしいところで、こうした芸風がダメな人は、サー・ジョンとは無縁の方かもしれません。
時おり、聴かれる指揮者の唸り声も音楽の一部みたいに感じられるようです。
ラクリモーサの痛切な響きは、さながらヴェルディのオペラの一節を聴くかのような思いです。

 ただ、歌手で、ジョン・ヴィッカースがひとり異質で、ほかの3人が流麗なカンタービレを聴かせるのに、どうにも粘りがあっていけません。
でも女声ふたりの美声とその二重唱のミキシングは例えようがなく耳洗われます。
バルビローリの描き出すゆったりとした背景に展開されるレコルダーレはともかく美しい。
カバリエコソット、そう忘れもしない、「アドリアーナ・ルクヴルール」の恋のさや当てのふたりの共演です。
バスのライモンディの滑らかな美声も若々しく素晴らしいものです。

外は雷雨も過ぎて、青空が広がってきました。
まだ続きます、暑い夏。

過去記事 ヴェルディ「レクイエム」

「アバド&ミラノ・スカラ座」

「バーンスタイン&ロンドン響」

「ジュリーニ&フィルハーモニア」

「リヒター&ミュンヘン・フィル」

「シュナイト&ザールブリュッヘン放送響」

「アバド&ウィーン・フィル」

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2012年7月26日 (木)

エルガー「コケイン」&アイアランド「ロンドン序曲」 バルビローリ指揮

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千鳥が淵、一番町にある英国大使館。

20日から、日暮れとともにライトアップ・カウントダウンが行われておりまして、27日の開会のその瞬間が最終日です。

数年前、英国音楽ばかり記事にしていたものですから、英国文化を紹介する日本ブロガーとして、英国大使館の関係からイヴェントメールをいただくようになりました。

いろんな講演会や、大使館での催しのご案内を希に戴いておりましたが、勿体ないことに参加経験ゼロ。
今回のライトアップは情報いただき、そそくさといってまいりましたよ。

ご覧のとおり、建物をラッピングするみたいなユニオン・ジャックに開会式までの残り時間。
日本時間、7月26日19時20分くらいだったでしょうか。

今日は、ロンドンをテーマにした英国作曲家のふたつの序曲をバルビローリの指揮で。

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  エルガー 序曲「コケイン」

   サー・ジョン・バルビローリ指揮フィルハーモニア管弦楽団


コケインは、広範には生粋のロンドンっ子という意味で、コックニー、狭義には、すなわち、ロンドン・シティーのエリアの人々のことを言いました。

ロンドン気質みたいな感じでしょうか。

エルガーの作品には、それはお高い雰囲気はなくって、労働者の市井の営みを感じさせるフレンドリーな街といった雰囲気で、それがそっくり音楽になっているんです。

後年のふたつの交響曲+1に聴かれるような、英国の夕暮れを思わせるような憂愁はここでは聴かれません。
快活で、のびのびと明るい、ナイスなロンドンであります。

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  アイアランド 「ロンドン序曲」

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ロンドン交響楽団


こちらは、エルガーの作品から35年後、マンチェスター生まれのジョン・アイアランドは、その名も「ロンドン」の序曲を書きました。

もとは吹奏楽のための「コメディ」序曲という作品を書いていたアイアランドに、エイドリアン・ボールトがオーケストラ化を勧め、「ロンドン序曲」としてリニューアルしたもの。

こちらも、ナイスで明るい雰囲気で、盛り上げにも事欠きません。
ですが、エルガーのロンドンと少し違って、都会の矛盾をそこはかとなく捉えていて、中間部では哀愁溢れる旋律を伴って、頬杖をつきたくなるようなアンニュイムードになるのです。
エルガーとの世代の距離を感じるとともに、戦争の影も認めざるをえません。
 でも、それはいっときのはなし。
曲はすぐに、快活なムードに戻り、元気にエンディングを迎えます。

どちらの曲にも感じる、イギリス気質。

この2曲に、V・ウィリアムズのロンドン・シンフォニー、コーツの楽しいロンドン組曲などとともに、ロンドンを描いた音楽は、どちらも個性的。

サー・ジョンの慈しみと歌心あふれる演奏は素晴らしいです。

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いかにも英国。

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そして、普段は、こんなふうに絶対撮れない大使館の門扉。

オリンピックそのものは、どこの国でもあんまり盛り上がってないんじゃないかしら。

世界はいまそんな風潮になりつつあるような気がします。

でも、英国好きとしては、国とロンドンそのものから常に目が離せません。

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2012年4月13日 (金)

マーラー 交響曲第7番 バルビローリ指揮

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夜の桜です。

怪しくて、引き込まれてしまいそう。

春爛漫の陽気は、ここ数日夜も続いて、歩いていて気持ちよく上気してしまうのは、上ばかり見ているからか。

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もうひとつ、毎度登場の東京タワーを背景に葉桜化の進む枝垂れを。

今日もマーラーを。

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  マーラー 交響曲第7番 ホ短調

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハルレ管弦楽団
                       BBCノーザンオーケストラ
                    (1960.10.20@マンチェスター)


ほぼ毎日、番号順に聴いてるマーラーも、後期の7番になりました。
9曲プラスアルファだから、思えば休憩入れても2週間とかからない全曲チクルス。

聴き側は気楽だけど、演奏する側はさぞかし大変でしょう。
各奏者のソロがやたらと多く、しかもそれは名人芸的で、失敗したら全体が崩壊し、命取り
。そして「夜の歌」とタイトルされるように、ギターとマンドリンがセレナーデのように活躍するから、大オーケストラとしての音のバランスのとり方が難しい。
そしてバランスといえば、5つの楽章で、真ん中に怪しげなスケルツォ、その両端に「夜曲」、さらにそれらを大きく包み込むように1楽章が、巨大なソナタ形式。
終楽章がロンド形式。
変わった姿の7番。

しかして、その音の響き具合も、自由自在の気ままさ。
ときに無調の域へ踏み込んだり、古典的なまでの調性を聴かせたり、新奇な奏法を示したりと、はなはだその音響は当時としては驚きの世界だったはず。

6番と併行して1904年から書かれ、1905年に完成。
その間、アメリカデビューや、ウィーンの歌劇場のポストの辞任など、多忙な動きがあり、しかも8番という巨大な作品の作曲もあって、この7番の初演は1908年になった。
1905年といえば、日本は日露戦争の年ですよ。
同年、R・シュトラウスはあの「サロメ」を初演して社会的な大問題を引き起こし、ライバルであり友でもあったマーラーへの影響も少なからずありや・・。
さらに他芸術分野に目を転じると、クリムトを始めとするウィーン分離派の活躍。
クリムトの濃厚絢爛な絵や、O・ヴァーグナーのアール・ヌーヴォ的な建築物の数々、エゴン・シーレや、オスカー・ココシュカらのいくぶん表現主義に満ちた絵画・・・。
これらと同時期にあり、芸術分野の垣根を超えて、お互い影響しあった芸術家たちの筆頭株がマーラーその人。
それは、妻アルマの影響も大きく、アルマが後に芸術を後押ししてゆく、ある意味でのファム・ファタールになってゆくのもマーラー故かとも思ったりします。

  こうした流れの真っ只中にある曲が、第7交響曲だと思う。

いまや、世紀末が総合芸術として理解され、評価される時勢になったけれども、わたしがマーラーを聴き始めた頃は、そんな風潮や理解は一般には及ばす、7番は6番と並んで、一番難解な音楽だった。
演奏会にかかることなんて、ほぼゼロ。
そんななかで、唯一の記憶が、76か77年にギーレンがN響に来演したとき。
現代音楽専門家みたいだったイメージの当時のギーレンがN響にもって来たのは、マーラーの6番と7番。
いずれも録音し冷徹なる演奏で、特に7番は初だったので曲を覚えるに精いっぱいの状況だった。
人気は、いまやそうとうに上がったものの、演奏回数では8番と並んで一番少ないかも・・、の第7交響曲でありました。

バルビローリの1960年ライブは、オーケストラが手兵のハルレ管にBBCのオケ。
このBBCは、いまのBBCフィルハーモニックで、やたらと巧いオーケストラなんです。
どういった按配の混合か不明なれど、脂が乗り切ったころのバルビローリは、思うがまま、自身が感じた通りに共感したマーラーをうちたてております。
モノラルだし、テンポの緩急が大時代めいているヶ所も見受けられますが、このバルビ独特のうねりと盛り上がりの妙には、もろ手を挙げて感銘するしかありません。
 思いきり歌いまくり、まるでオペラ、しかもプッチーニのようなふたつの夜曲に、変幻自在の両端楽章に怪しさ満点の中間のスケルツォ。
バルビローリのマーラーは、8番以外が聴けるようになったが、その中でも一番資質にあっていて、幻惑感のあるのがこの7番の演奏に思います。

7番の聴きどころ・・・・。難しいなぁ。
どこといってなし、でも、あっと言う間に音楽に取りこまれ、夢中になってると80分が過ぎてしまう。
1楽章は推進力ある出だしの音楽の創生ぶりと、甘味さもただよわせる第2楽章の対比。
2楽章と4楽章の、おもにホルンセクションの活躍ぶりを中心にしたソロ楽器が聴きどころ。
前述のとおり、ギターとマンドリンの入る4楽章は、夢見心地で、わたくしは日曜の晩、寝る前に密かに聴いたりする楽しみを持っております。
いまだに難解な幽霊の浮遊するがごとき3楽章は、流れる柳のように身を任せるしかないですな。苦手ですよ、いまも、とらえどころなしで。
そして、妙に能天気で取って付けたような終楽章。
5番に似たかのうようなあっけらかんとした終末をどう聴くか・・・・。

7番は、初レコードのレヴァインとCD初期のアバドのふたつのシカゴ盤が最高。
バーンスタイン盤は旧盤が素敵。
インバルにもハマったし、テンシュテットも面白い。
ハイティンクも最高。
そしてなんだかんだで、この曲のレコードでの初真価は、5番や6番と同じにショルティ&シカゴの剛演でありましょう。

今日は、熱燗片手に酔いながらの更新。
春の夜の夢。
外は、雨が本降りになってますよ。

 交響曲第7番 過去記事

「アバド&シカゴ交響楽団」

「テンシュテット&ロンドンフィルハーモニー」

「金聖響&神奈川フィルハーモニー 演奏会」

さいごに、一言、「クソ巨珍め

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2012年1月27日 (金)

エルガー 交響曲第1番 バルビローリ指揮

Cardinal_1

英国風のパブで一杯。

例によって何を飲んだか覚えておりませんが、アイリッシュ系の何かだということは間違いありません。
ブッシュミルズかジェムソンだと思います。
いつもそのあたりを飲む自分だからです。

Ginza3

若い頃は、バーボンにやたら凝ったけれど、年季を少し経たいまは、スコッチウィスキー、オンリー。
外飲みでは、アイリッシュ系かアイラ系。
それもヨード臭のプンプンするようなシャープで香ばしいものを。
家飲みでは、もったいないから、円高の恩恵で安く買える通常のスコッチを。
お湯割りならば、日本の安いウイスキーを。

こんな感じです。

そしてウイスキーのお伴は、英国音楽。

Elgar_sym1_barbirolli_halle

エルガー 交響曲第1番

1908年のこの交響曲は、英国が生んだ久々の交響曲の大作、そしてエルガーも満を持しての初交響曲で、その思い入れはとても大きく、交響曲第1番は、ほかの作曲家のそれと同じく、プレッシャーと不安、そして気負いのなかで完成され、結果、大成功を収めた。

ともかく、この交響曲が大好き。

2番も同じく好きだけれど、一音一音が身に沁みついている度合いが、1番の比ではない。
幻想は毎月聴いてるけれど、本当に好きかといわれれば、そうじゃない。
好きだけれど、そうにはならない音楽だと思う。
本当に好きな交響曲は、エルガーの1番、ラフマニノフの2番なんです。
ワーグナーやディーリアス、フィンジは、そのすべてをコンプリートに好きだけれど、エルガーは、特ににこの第1交響曲を溺愛してます。

今夜は、サー・ジョン・バルビローリのふたつの音源を聴いてみたのだ。

バルビローリのエルガーの1番の音源は、わたしの知るところ3種類。

 ①ハレ管弦楽団          1956年 パイ録音      52’30”

 ②フィルハーモニア管弦楽団 1962年 EMI録音      53’30”

 ③ハレ管弦楽団         1970年 BBC放送録音  52’20”

このうち、②はすでに取り上げました。  →こちら

タイムだけみると、②のスタジオ録音が1分ほど伸びているけれど、基本的な基調は変わりはなく感じる。
タイムだけでは、一番短いハレ70年盤が、一番遅く感じるのが面白い。

56年の録音に感じる、はつらつとした覇気は、指揮者もオケもエルガーを演奏する喜びと情熱に溢れていて、それが時代を思わせない生々しい録音でもって、聴き手にモロに伝わってくる。
完成度では、②のフィルハーモニア盤が上だけれど、オケとの一体感と手作りの感動は①のパイ盤。

Elgar_sym1_barbirolli_bbc

そして、こちらが③のライブ録音

1970年7月24日 イギリス東部ノーフォークの聖ニコラス教会における演奏会。

この年に、この日付・・・・・、サー・ジョンはこのあと5日後の29日に心臓発作を起こして亡くなってしまう。
その後に予定されていた、ニュー・フィルハーモニアとの万博の年の日本来日公演はなくなってしまった。

当時のことは、いまでも覚えている。
キラ星のごとし、クラシック演奏家が大挙して来日した1970年。
カラヤンもバーンスタインも、セルも、パリ管、レニングラード、ボリショイ、ベルリン・ドイツ・オペラも・・・・。
そんな中で、英国からの来日は、ともに初だったバルビローリとニュー・フィルハーモニア。
NHKで代役のプリチャードの指揮を見た記憶があるが、曲は思い出せない。
バルビローリがやってきたら、マーラーやシベリウスをやる予定だったのに・・・。

痛恨のバルビの死。

そしてその直前の気合の入った、こちらの演奏を聴いて、溜飲を下げる想いだ。
先に書いたとおり、演奏時間は若干とはいえ一番短い。
でも、歌うべきはじっくりと歌い、走るところはひた走りに情熱的に。
メリハリの効いた自在な演奏は、永年この交響曲を手塩にかけて演奏してたバルビローリと、そして手兵のハレ管の究極の総決算のようなものなのだ。
多少の傷は気にならない。
このライブ感と、ノーブルかつ熱い思いの伝わる演奏が最高に素晴らしい。

Norfolkkingslynnstnicholasinteriorm

ネットで拾ったノーフォークKings Lynnの教会。
こちらで演奏されたのでしょうか。

エルガーのノビルメンテ(高貴に)の表記もしっかりお似合いのバルビローリの3種の演奏、いずれもわたしには大切なもの。
同様にボールトにも数種の1番の演奏が残されていて、そちらもまた取り上げてみたいと思ってます。

バルビローリ、ボールト、B・トムソン、尾高忠明。
この4人の演奏が最上と思ってますが、最近では、M・エルダーに、D・ラニクルズもいい感じです。

エルガー 交響曲第1番 過去記事

 「湯浅卓雄/神奈川フィルハーモニー」

 「マリナー/アカデミー管弦楽団」

 「尾高忠明/NHK交響楽団」

 バルビローリ/フィルハーモニア管」

 「
大友直人/京都市交響楽団 演奏会

 「
尾高忠明/BBCウェールズ響

 
ノリントン/シュトットガルト放送響

 
プリッチャード/BBC交響楽団

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2011年12月10日 (土)

ベルリオーズ 幻想交響曲 バルビローリ指揮

Hamamatsucho_201112_a

今年最後の12月分は、背中からせまってみました。

Hamamatsucho_201112_b

浜松町の小便小僧コスプレの立派なところは、手前の花壇。
季節や小僧衣裳の色合いに応じた彩りの花々を植え替えている。

雨上がりの寒い夜だったけれど、相変わらず、周辺にお漏らししちゃってますねぇ~

Hamamatsucho_201112_c

サンタ小便小僧2011

Berlioz_sym_fantastique_barbirplli

月イチ・シリーズ、12月のベルリオーズ「幻想交響曲」は、あれこれ悩んだ末に、ユニークな、サー・ジョン・バルビローリ指揮のハルレ管弦楽団の演奏で。

ご承知のとおり、バルビローリは、生粋の英国人指揮者ではなく、イタリアとフランスの国の父と母を持つ英国人。
エルガーやディーリアス、ヴェルディやプッチーニ、ドビュッシーやベルリオーズ、それぞれに独特の色調と味わいの演奏を残してくれた。
加えてドイツ系の音楽でも、ブラームスやマーラーに思い入れの濃い演奏も!

母の国、フランスの音楽をそのイメージ通りにエレガントに演奏するかと思ったら大間違い。パリ管とのドビュッシーもそうだが、濃厚な味わいと、極端な表現の目立つユニーク系の演奏なのだ。

一方、父の国、イタリアものは、思いきり感情移入して、歌いに歌うドラマに共感した泣ける音楽を作り出します。

バルビローリの魅力は、その音楽に応じて、いろんな顔を見せてくれるところでして、それが「バルビローリのディーリアス」とか「バルビローリのブラームス」、「バルビローリのマーラー」とかいった具合に、そのカテゴリーごとに、バルビローリの刻印をきざんだ独特の表現があるというところでしょうか。

1958年録音の手兵ハルレ管との幻想は、わたしのかつて中学時代、テイチクから大量に発売されたパイ録音のひとつ。
入手しなかったけれど、EMIが瞬間的にCD化したものをかつての昔に入手しておりました。
音がイマイチだったパイ録音をレコードで聴く時代では考えられないくらいに、明晰で力強いサウンド。
そして、違和感ありありのキモサウンド(笑)。

一番、びっくらこいたのが、2楽章の舞踏会のワルツ。
ほとんど止まってしまうくらいの、急停車ぶりと、猫の鳴き声のような泣き節。
終楽章の鐘の音色にかぶるピアノ。
そうです、ピアノの打鍵で、リアルに鐘の音を倍音してるんです。
極端な例はこのふたつだけど、ほかにも全曲にわたり、あれま、あれま!の連続に、幻想好きとしては嬉しくなって嬉々としてしまいます。
全編にわたる打楽器の強打は、昨今の空しいピリオド系の乾いたティンパニに比べると、よっぽど迫真的で、そのアナクロなまでの存在感は聴いてて、とてつもないリアリティと真実味を与えてくれる。

全編を覆い尽くす歌、また歌。野の情景のたおやかさは、アナログなカラー画像のようで、色合いの強調ぶりが、かえって美しく感じる。
これぞ、バルビであります。
そして、先にふれた迫力あふれるフォルテ。
終楽章のインテンポで進む強力なエンディングのド迫力と情熱には、すっかり参ってしまいます。

愛すべきサー・ジョンの半世紀以上前ながらも、いまだ新鮮なる記録にございました。

次の小便小僧と幻想は、もう来年、1月です。
では。

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2011年10月 1日 (土)

エルガー チェロ協奏曲 ナヴァラ&バルビローリ

Ginza6

銀座のミキモトのショーウィンドウ。
昨年2010年バージョン。
今年、今頃はどうなってるのか、まだ見にいってません。

エルガーチェロ協奏曲
初秋に聴くに相応しい音楽。

驚くべきことに、エルガーの名曲、チェロ協奏曲は演奏会の記事では何度も書いているのに、単独で取り上げたことのない、「さまよえるクラヲタ人」。

Elgar_vc_navarra_barbirolli

好きなのはやはり、デュプレだし、これは星の数ほどたくさんの皆さんが書いてらっしゃるしで、なかなか機会を持てなかった。
 ハレルとマゼールという、おおよそこの曲にイメージしない演奏が結構よかったりであったけど、そんな記事を書くのも気が進まないところに、念願だったアンドレ・ナヴァラバルビローリハレ管の57年の録音を手にすることができたのです。

デュプレと同じバルビローリの指揮、オケはこちらはハレ管弦楽団。
1957年ステレオ最初期の録音で、昔はテイチクからでた一連のパイレーベルのレコードで出ていたものと記憶します。

ここでのソリスト、アンドレ・ナヴァラ(1911〜1988)は、フランスの名手であります。
フランスのチェリストというと、フルニエ、トルトゥリエ、ジャンドロンに代表されるように、気品としなやかさ、そうして香気の豊かさ・・・・っていうようなイメージに彩られているように思います。
そしてナヴァラのチェロも確かにその路線にもあると言っていいかもしれないけれど、もっとより剛毅で、一音一音が克明で、ハッキリしているように聴こえる。
エルガーのみの比較でありますが、無伴奏なども出ているようなので、ほかのフランス系チェリストの大家との比較も、実に興味深いのであります。
演奏家であると同時に、教育者としても高名なナヴァラの弟子にはH・シフがいるそうな。

冒頭のいきなりのカデンツァからして、ナヴァラの豊かだが、決して媚びのない真っ直ぐ一直線のチェロに耳が惹きつけられる。
そして、それをうけてのバルビローリの全霊を込めた指揮とそれに食らいつき一体となったハレ管の一生懸命さ。
冒頭で決まってしまった。
 あと素晴らしいのが、3楽章の男泣きのようなチェロ。
甘さは微塵としてなく、淡々としたなかに、エルガーの優しい思いが伝わってくるようなチェロに、バルビローリの合いの手。
そして、終楽章の渋いことといったら。
もともとそんな曲調だし、悲壮感が漂う曲だけれども、くっきりとした輪郭を描きつつ、そこにエルガーらしいノーブルさと荘重さも漂わせているように聴こえる。
多くは語らないチェロだけれども、バルビローリとともに、聴けば聴くほどに味わい深いエルガーなのでありました。

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