カテゴリー「新ウィーン楽派とその周辺」の記事

2024年12月10日 (火)

3つのシンフォニエッタ(風の作品)

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隣町にある厳島湿生公園のイルミネーション🎄

厳島神社を島として取り囲むような泉があり、そこは清水が湧いていて古くから野鳥や生物の住む湿性池となってます。

奥に見えるのは大山で、丹沢からの清らかな水系がこの町にも流れてます。

シンフォニストとしてその時代の先端を走ったマーラー(1860~1911)、オーケストラ音楽を極め、オペラ作曲家としてワーグナー後の大家となったR・シュトラウス(1864~1949)。
このふたりの大物と同時代か次の世代の作曲家3人のシンフォニエッタないしは、シンフォニエッタ的な作品を聴きます。

 ・ツェムリンスキー (1871~1941)
 ・シュレーカー   (1873~1934)
 ・コルンゴルト   (1897~1957)

この3人、いずれもユダヤ系であることから戦渦においては大きすぎる影響を受けていることも共通するが、ともにオペラ作曲家でもあったことが共通。
コルンゴルトだけ、年代が少しあとだが、そのため師匠はツェムリンスキーだったりする。
3人ともに、生前は大きく評価され作曲家として、また演奏家として大人気だったし、コルンゴルト以外は教育者でもあったので、弟子筋も多岐にわたっている。

そしてシンフォニストとしてはどうだったかというと、3人ともに本格的な交響曲をいくつも書くタイプではなかった。
・ツェムリンスキー 交響曲第1番、第2番、「抒情交響曲」
・シュレーカー   交響曲op1
・コルンゴルト   交響曲 嬰ヘ長調
ツェムリンスキーには2曲の本格交響曲があるけれど、ちょっとイマイチで、後年の充実期の素晴らしい声楽交響曲の抒情交響曲にはおよばない。
シュレーカーの作品も習作的な雰囲気を出ないがシュレーカーの匂いはする。
そしてコルンゴルトの交響曲はウィーンを出てアメリカに渡ったあと、またウィーンでひと花・・という時期だけにJ・ウィリアムズにも影響を与えたゴージャスシンフォニーだ。

交響曲は3人に濃淡あれど、シンフォニエッタ的な作品は、いずれもそれぞれの特徴が満載で実にステキなものだ。
最近、この3つの作品の演奏頻度があがっていて、海外ネット配信でたくさん聴けてます。
やはりマーラー後の音楽、シンフォニー作品に聴き手の裾野が広がっている。
作曲年代順に。

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     コルンゴルト シンフォニエッタ op.5  (1912)

  ヨン・ストゥールゴールズ指揮 ヘルシンキ・フィルハーモニック

                     (2011.8.10 @ヘルシンキ)

もう大好きすぎて、音源はほぼ持ってます。
演奏会でも2度経験、いつもつい聴いてしまうし、過去記事もたくさん。
同じことばかり書いてるので、コピペします。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、天才出現の驚きを持って聴衆に迎えられる。
14分あまりの大作で、のちのアメリカ時代の「交響曲」の片鱗をうかがうこともできる佳作。
そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲。
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、この大きな規模。
完成は、1913年、16歳のときにワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。


シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。
本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴り、決め所の随所で響きます。
大胆な和声と甘味な旋律の織り成すこの音楽は、このあとのシュレーカーやツェムリンスキーの作品よりも、ある意味先を行っているともいえます。
ハープ、チェレスタ、鉄琴、ピアノなどの多用は、ほかのふたりと同じく、やはり当時、いかに珍しかったか興味深い。
のちにハリウッドで活躍するコルンゴルトのその下地がすでに出来がっているし、オペラ作曲家としてのドラマの構成力もここでは十分に発揮されている。
楽天的ではありますが、ともかく、ワタクシを幸せな気持ちにしてくれる、ほんとにありがたい音楽です。
いまの時期のクリスマスイルミネーションにぴったり。

フィンランドの指揮者ストゥールゴールズは、お国もののシベリウスを当然に得意にしているけれど、マーラー以降の後期ロマン派から世紀末系の音楽もさかんに指揮して録音も残してます。
最近ではBBCフィルの指揮者としてショスタコーヴィチを連続して取り上げて評価をあげてます。
ヘルシンキフィルのコルンゴルトとは珍しいと思い、カップリングの「空騒ぎ」との2枚組、興味津々で聴いたものですが、これがどうして、軽やかで、そしてコルンゴルトに必須の煌めきと、近未来風サウンド、イケイケ風の明るいドタバタ調など、さらにはウィーン風の軽やかなワルツなど、ともかく普通に素敵にコルンゴルトしてるイケてる演奏だったのでした。
10年以上を経過し、ストゥールゴールズには、いまの手兵BBCフィルともう一度やって欲しい。

この曲の海外ネット放送も、いくつも聴いてます。
注目の女性指揮者、マリー・ジャコーの指揮するウィーン響の今年の録音は、ウィーンのオケだけに、そしてフランスの指揮者だけに実に敏感かつしなやかな演奏。
ジャコーは、デンマーク国立菅の指揮者であり、ウィーン響の首席客演、次期ケルンWDR響の指揮者になることが決ってます。
 あと、次期といえば、東京交響楽団のノットのあとの指揮者、ロレンツォ・ヴィオッテイがやはりウィーンのオケ、ORF放送響との2018年ライブも愛聴していて、こちらもヴィオッテイ向きの作品なので、リズム感あふれる躍動感とキラキラ感がよろしいのです。
さらにはライブ録音としてはコンロンとケルンのものも、コンロンお得意の分野だけあって素晴らしい聴きものでしたね。
いやぁ、ほんとこの曲好き💛

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   シュレーカー 室内交響曲 (1916)

 クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 @コンツェルトハウス、ベルリン)


オペラばかりを追いかけて聴いてきた私にとって、シュレーカーの「室内交響曲」は、やや遅れて自分にやってきた存在。
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、そのオペラの濃密な世界に通じるような、かつ明滅するような煌めきの音楽。

文字通り1管編成の室内オーケストラサイズの編成で、最低人数は24人とありながら、打楽器各種、ピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが加わっているので、余計に近未来的煌めきサウンドとなっていて、まさにシューレーカーの目指した音の色を感じることができる。
のちにオケの編成を広げてシンフォニエッタに改編する意向もあったこともうなずける音楽。

1916年ウィーン音楽院の創立100年を記念しての作品で、初演は翌年1917年3月にシュレーカーの指揮でウィーンのムジークフェラインにて。
あの黄金のホールで、この曲が初演され、どう響いたか、思うだけでうっとりしてしまう。
単一楽章ながら、連続する4つの章からなり、交響曲の形式を保っている。
1915年に着手され未完のままになったオペラ「Die tönenden Sphären」(単純に訳すと「音の出る球体」)からの引用がなされていて、さらには、このあとの「烙印を押された人々(1918)」を先取りする旋律も感じるほか、「はるかな響き」「音楽箱と王女」にも通じる旋律も私は聴いてとれた。
シェーンベルクが「室内交響曲」をマーラーが活躍中の時分、1906年に書き、それは交響曲の新たな姿やあり方のひとつを示してみせたわけだが、同じ室内交響曲としても、シュレーカーの方には革新性は少なめで、先に書いた通り、音色と色彩に光をあて、さらにはオペラ作曲家としての歌やドラマをも求めた交響曲となったと思う。

エッシェンバッハの演奏は、完璧なもので、指揮者の特性と音楽が合致したもの。
録音も最新のものだけあって素晴らしい。
CDではこの盤のみの保有ですが、シュレーカーの代表曲だけあり、色々出てます。
最近の海外演奏では、マーク・エルダーの指揮によるものが出色だった。

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  ツェムリンスキー シンフォニエッタ op.23   (1934)

 ジェイムス・ジャッド指揮 ニュージーランド交響楽団

       (2006.6 @ウェリントン)

友人であり義理の兄弟でもあったシェーンベルクが1934年にアメリカに逃れ、その年にツェムリンスキーはプラハやベルリンから活動拠点をウィーンに移し、そしてこのシンフォニエッタを完成。
1935年にプラハで初演後、作者の指揮でウィーンを始め各地で演奏。
しかし、1938年にツエムリンスキーはアメリカへの亡命を決意し、ニューヨークに移住。
シェーンベルクは西海岸のロサンゼルスで名声を博していたのに比し、ツエムリンスキーはまったく忘れ去られた作曲家として埋没してしまうが、1940年の暮れに、ミトロプーロスがニューヨークフィルでこのシンフォニエッタをアメリカ初演を行い、成功を収める。
友人をずっと気にかけていたシェーンベルクは、西海岸でのこの曲の演奏会を聴き、ツエムリンスキーを励まし、これでアメリカでの成功の始まりとなることを願いますと手紙を書いた。
しかし、悲しいことに、病気がちだったツエムリンスキーは、その数日後に亡くなってしまう。

「非常に重く」「一定の歩調でと記されたバラード」「ロンド・非常に元気よく」
この3つの楽章からなるが、2楽章では、作品13(1910年)のメーテルリンク歌曲集の最終章が引用されている。
この章は、「城に来た・・」というタイトルで、王が王妃に、どこへ行く?夕暮には気をつけてと問う内容で、とても寂しく暗に別れを歌う内容。
この音楽がそのまま2楽章では使われていて、ナチス台頭で身の置き所に不安を感じていたツエムリンスキーのこのときの心情そのものです。
淡々としつつも、哀しみと死の影を感じるこの音楽は深いです。
1楽章では、先だって取り上げたクルト・ヴァイルを思わせる辛辣な雰囲気もあり、終わりの方では次にくるメーテルリンク歌曲のさわりも出てくる。
3楽章は、明るいなかにも陰りあり、そしてツエムリンスキーが後半生で強く打ち出したエキゾシズム満載で忘れがたいリズム感もあり。
来年には取り上げたい、この頃に作曲されたオペラ「白墨の輪」の音楽の雰囲気も感じます。

「人魚姫」とカップリングされたジャッド指揮によるCDは、とても明快で録音もよく、この作品に馴染むにはまったく問題ないです。
手持ちの音源には、コンロン、ピンチャー、P・ハーンなどの演奏会録音もありますが、ネット録音したベルンハルト・クレーの演奏が一番いい。1980年録音のコッホ・シュヴァン盤で入手難です。

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3人の作品をこうして何度も聴いて思ったこと。

3人は無調(すれすれまで行った作品もあるけど)や、12音、過度の表現主義や新古典主義にも向かわず、後期ロマン派の流れを忠実に汲み、そこにとどまったのだということ。

そして、あの時代のユダヤの出自という宿命が、かれらの音楽の次の可能性を狂わせてしまった。

でも、いまを生きるわたしたちには、彼らの作品をこうしてちゃんと聴くことができる時代になったこと、このことが幸せなのです。

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 コルンゴルト シンフォニエッタ 過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

 「アルブレヒト指揮 ベルリン放送響」

 「寺岡 清高 指揮 フィルハーモニック・ソサエティ・東京 演奏会」

 シュレーカー 室内交響曲 過去記事

 「はるかな響き 夜曲 エッシェンバッハ指揮」


 ツェムリンスキー シンフォニエッタ 過去記事

 「大野 和士 指揮 東京都交響楽団 演奏会」

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2024年11月28日 (木)

ヴァイル 交響曲と7つの大罪 マルヴィッツ指揮

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横浜のランドマークタワーのツリー。

今年の横浜は、ベイスターズ日本シリーズ優勝もあり、ブルー系のカラーで包まれてます。

半世紀あまりにおよぶ横浜大洋DeNAホエールズベイスターズのファンであるワタクシ。
前回のリーグ優勝は甲子園で立ち会えたし、そのときの日本シリーズも球場には入れなかったものの、近くで応援。
もう若くもないので、今回は冷静にテレビ観戦で、じんわりくる喜びをかみしめました。

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横浜はあかぬけた都会だけれども、東京とはまったく違う、ちょっとローカル感もある都会。

あか抜けた都会に憧れ田舎から出てきた娘の物語・・・クルト・ヴァイルの「7つの大罪」を真ん中に据えた見事なアルバムを聴きました。

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 クルト・ヴァイル (1900~1950)

  交響曲第1番「ベルリン交響曲」(1921)

  バレエ「7つの大罪」(1933)

  交響曲第2番 「交響的幻想曲」(1933)

  ヨアナ・マルヴィッツ指揮
         ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団 


   アナ1とアナ2:カタリーネ・メールリンク
   家族:マイケル・ポーター、ジーモン・ボーデ
      ミヒャエル・ナグル、オリフェール・ツヴァルク

            (2024.1.3~5、2.5~7 @コンツェルトハウス、ベルリン)

ヨアナ・マルヴィッツのDGへの本格録音の第1弾。
マルヴィッツは、私が以前より注目していた指揮者でして、幣ブログでも2度ほど記事を起こしてます。
ヴァイオリンとピアノを学び、ピアニストとしてスタートしたあとは、オペラハウスで指揮者として各地の劇場で活躍。
ニュルンベルク州立劇場の音楽総監督を2018年から6年間つとめ、そこでオペラ・コンサートのレパートリーを拡充し、オーケストラも躍進した。
そしてエッシェンバッハのあとを受けて、ベルリン・コンツェルトハウス管の芸術監督に2023年に就任してDGとも契約。
バイロイトへの登場も必ずあるし、欧米各地のオーケストラに客演中のなか、手兵と日本にも1~2年内にはやってくると思います。
その際には、お願いだから名曲路線や人気日本人ソロとの共演でなく、本格的なプログラムでやってきて欲しい!
これ、ほんと切実に思う、昨今の外来オケの演目は悲しすぎるから・・・・

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ご多分に漏れず、ユダヤ系であった戦中を生きたドイツ人作曲家、クルト・ヴァイルは多難な50年の短い生涯だった。
ブレヒトとの「三文オペラ」(過去記事あり)ばかりが有名なヴァイルだけれど、それ以外の本格作品はあまり聴いたことがなかった。
印象として、晦渋な雰囲気を常に持っていて、プフィッツナー、ブゾーニ、ヒンデミット、アイスラーなどとともに、どうも苦手意識を持ってました。
そんな思いを一掃、というわけにはいかないけれど、交響曲とアイロニーに満ちた声楽付きバレエを聴いて、ヴァイルという作曲家の時代ごとの変遷や、オーケストラ作品としての面白さなども実感できました。

20歳の交響曲第1番、ブゾーニの弟子であった頃で、同じころには弦楽四重奏やピアノ作品なども書いている時期。
マーラーやシュトラウス、無調の影響、さらにはシェーンベルクやシュレーカーなどを思わせる雰囲気があり、現代人の耳みは案外と聴きやすいし、あとベルクの退廃と甘味の響きも感じた。
単一楽章ではあるが、このCDでは4つのトラックに分割されていて、交響曲の体を立派になしていることもわかる。
不協和音も心地よく感じられ、とっつきの悪さよりは、辛辣さが交響曲の形式をまとった結果がそうなったのだと思われた。
マルヴィッツによると、この楽譜はイタリアの修道院に保管され、道女たちがそれを隠し、ユダヤ人の手によるものとわからないように最初のページは切り取られていたそうだ。
生前は演奏されず、初演は1957年に、N響でお馴染みのシュヒターの指揮だった。
表現主義詩人のロベルト・ベッヒャーの劇と関連付けられているとされるが、ヴァイルはそのことに関してスコアや文章になにも残していないとされる。
私は2番よりも1番の方に魅力を感じ、曲の最後に平和なムードが一瞬でも訪れる場面が気にいった。
ヴァイルは、本格作品を書くかたわら、困窮から作曲や音楽学を教え、その門下には、クラウディオ・アラウやアブラヴァネルがいることも、歴史のひとコマとして興味深いです。

やがてヴァイルは1幕もののオペラなど、劇作品も書くようになり、ロッテ・レーニャにも出会う。
ブレヒトと共同で、乞食オペラの改作「三文オペラ」を書いたのが1928年。
人気のあがったヴァイルは、ナチスに目を付けられ、ドイツでの活動に不自由さを感じパリへ向かった。
パリで合流したブレヒトと、裕福な英国人から委嘱を受け、歌うバレエ「7つの大罪」を作り上げたのが1933年で、同年にシャンゼリゼ劇場で初演。そのときの指揮者がモーリス・アブラヴァネルで、ソプラノも妻となったロッテ・レーニャ。

7つの都市を1年間づつ滞在し、遍歴する女性の物語で、アナというこの女性は分身のようなふたつの性格を持ち、「『罪人』に内在する相反する感情を伝えるために、ブレヒトはアンナの性格を、実用感覚と良心を持つ冷笑的な興行主のアンナ1世と、感情的で衝動的で芸術的な美しさを持ち、非常に人間的な心を持つ売れっ子のアンナ2世に分割した」。
姉妹は、ミシシッピ州のルイジアナから出て、幸運を求めて大都会を遍歴、メンフィス、ロス、フィラデルフィア、ボストン、テネシー、ボルティモア、サンフランシスコと続き、それぞれが「怠惰、高慢、激怒、飽食、姦淫、貪欲、嫉妬 」という人間の持つ闇ということで象徴。
男声はそれを見守り、揶揄する家族の役柄となっている。
最後はミシシッピ川の流れるルイジアナに帰る姉妹は、7年の月日を回顧して、小さな家に帰ってきたと神妙に曲を閉じる。

32分ほどのリズム感あふれる曲だが、とても聴きやすく、三文オペラを聴いた耳にはまったく問題なく楽しめる。
本格シンフォニーである①とはまったくの別世界で、軽妙さとジャズのイディオム、さらにはメロディアスなドイツの声楽作品なの延長的な存在が極めて皮相なこの題材を多彩に描いている。
結構楽しめましたね。
バレエ最新の上演映像のトレーラーをネットで観たりもしましたが、内容が内容だけに、けっこう🔞的に描かれてましたよ。

ベルリンを去る直前に書き始めた交響曲第2番は、パリの社交界の著名人から依頼を受けたもので、1934年にパリで完成。
ヴァイルの最後の純粋クラシカル作品で、こちらはうって変わって3楽章形式の新古典主義的な明快な音楽。
初演はコンセルトヘボウでワルターの指揮で、ワルターはこの作品がいたく気にいり、ニューヨークやウィーンでも指揮した。
ワルターは、この交響曲に名前をつけるように提言、フランスでは「幻想」とも呼ばれたらしい。
コンサートでの演奏機会も多く、音源も2番は多くあり、事実ワタシのヤンソンスのものを持っていた(でもすっかり忘却してる)
シンプルな2管編成で、リズミカルでかつメロディも明確、無窮動的な終楽章も面白く盛り上がるし、全体に1番よりもずっと聴きやすい。
金管や管楽器のソロもみんな楽しいし、オーケストラとしては演奏しがいがある作品なんだろう。
CDを持っていたことを忘れてしまう、演奏会で聴いても、もしかしたら忘れてしまう、そんな印象がヴァイルの2番なのかもしれない。
第1交響曲が、当時のドイツの伝統の流れを汲むものだったのに対し、ドイツを出て遍歴の経験を経たあとの第2交響曲は、これで本格クラシカル作品が終わってしまったけれど、世界を観たヴァイルの心情の吐露なのかもしれない。

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マルヴィッツのヴァイルに対する思いと熱意を感じる1枚。
CDリブレットでも、彼女はその思いを語ってます。
ニュルンベルク劇場時代、ピアノを弾きながら、曲目解説をよくやっていて、いくつか見たことがありますが、彼女は学究肌でもあり、その探求心と分析力な並外れた才能だと思います。
劇場で培った全体を見通し、構成を大切に、オケや舞台を統率してゆく指揮者としての能力の並外れている。
ベルリン・コンツェルトハウスの高性能ぶりも、優秀録音でよくわかりました。

次のDGへの録音が待ち遠しいです。

ちなみに、ここ数年で各放送局から録音したマルヴィッツの指揮した音源を列挙しておきます。
モーツァルト「リンツ」、ヴァイオリン協奏曲、「フィガロの結婚」「コジ・ファン・トウッテ」
ベートーヴェン 7番、シューベルト 9番 、マーラー 1番
ワーグナー 「ローエングリン」
コダーイ ハーリ・ヤーノシュ、ガランタ舞曲
チャイコフスキー ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、ロココ
ラフマニノフ ピアノ協奏曲3番
シュトラウス ティル、「影のない女」
プロコフィエフ 古典交響曲
ベルク ルル交響曲
ブリテン 戦争レクイエム
あと夏の野外コンサートでは、ガーシュイン、バーンスタイン、新世界など
逃した録音としては、プロコフィエフ「戦争と平和」もあります。
どうでしょう、多彩でしょう。

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もう女性指揮者とか、「女性」をつける必要性のない、あたりまえの時代になりました。
マルヴィッツさん、次のバイエルン国立歌劇場の指揮者になると予感します。
来年はベルリン・フィルにもデビューです。

 ヨアナ・マルヴィッツ 過去記事

「ローエングリン」 2019.5.25

「戦争レクイエム」 2021.8.14

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2024年10月14日 (月)

ハウゼッガー 自然交響曲 ラシライネン指揮

Oyama

少し前、春先きの丹沢連峰のひとつ、大山。

標高は1,252mで、オオヤマと読みます。

一方、西の鳥取の大山は、ダイセンと読んで標高は、1.729m。

どちらも容が美しく、そして信仰の対象ともなって霊験もあらたか。

Hadano

大山から西に目を転じると、丹沢の山々が連なり、盆地の都市、秦野市があります。

名水百選にも選ばれ、水が美味しい町。

第2東名がしっかり見えますが、なんだかこう見ると邪魔のものとしか思えないのよね。
大動脈としてさらに必要な高速なのでしょうが・・・

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 ジークムント・フォン・ハウゼッガー

   大オーケストラと最終合唱付きの「自然交響曲」

  アリ・ラシライネン指揮 ケルンWDR交響楽団
             WDR放送合唱団

        (2005,6 12~1 @ケルン・フィルハーモニー)

ジークムント・フォン・ハウゼッガー(1872~1948)は、オーストリアのグラーツ生まれの作曲家・指揮者。

その作品はあまり演奏されず、音源も数えるほどしかないが、ハウゼッガーの名前は、むしろ指揮者としてなしたことが注目されたりする。

ブルックナーの第9交響曲の初演は、1896年の作曲者の死後、1903年にフェルディナンド・レーヴェの指揮で、そのレーヴェの改訂版により行われた。
その後、校訂されたいまのノーヴァーク版に近いオーレル版で、1932年に初演したのが、指揮者としてのハウゼッガーだった。
そのときは、レーヴェ版とオーレル版を併行して演奏したという。
さらにハウゼッガーは1935年に、ハースによる原典版の初演も指揮している。
9番の方は、1938年にミュンヘンフィルと録音もしていて、復刻されていて聴くこともできる。
このように、ブルックナーへの原典への真摯な取り組みにみられるように、オーストリア人としての意気のようなものも感じてしまう。
指揮者の門下としてオイゲン・ヨッフムがいたことも興味深いです。

そんなハウゼッガー、父親のフリードリヒ・フォン・ハウゼッガーが高名な音楽学者であり評論家でもあった。
この親子鷹的な同じ関係を見ると、古くはモーツァルトを、同時代にはコルンゴルトを思い起こします。
そして、vonでわかる通り、オーストリアの貴族の家系であることもわかりますが、親父さまは、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ショーペンハウアーなどに関する著作も多数あるようで、まさに息子はそのDNAを継いで、重厚長大なワーグナー路線とそのあとに続く後期ロマン派路線を歩んだわけです。

ワーグナーとリスト、そしてブルックナー路線を歩み、しかも時代はナチスのドイツとも符合するオーストリア人。
ヒトラーからの覚えもめでたく、そのプロパガンダにも協力はしたり、音楽者としての要職も得たものの、再三の要求にもかかわらず、ドイツ労働者党(ナチス)への参加だけは絶対に固辞した。
業を煮やした当局は、ハウゼッガーの逮捕までも匂わせ脅したが、それでも拒絶を継続し、最後にはすべての職を辞した。
このあたり、うまくかわしつつも、最後は批判に回った同世代人のシュトラウスとも似ている。
しかし、そのシュトラウスに比べ、難解な音楽ばかりを残したハウゼッガーの名前は、忘れ去られたままなのであります。

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ハウゼッガーと同じころの作曲家

  マーラー      1860~1911
      ディーリアス    1862~1934
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  バントック     1868~1946
  ツェムリンスキー  1871~1942
  ハウゼッガー            1872~1948
  スクリャービン       1872~1915
  V・ウィリアムズ       1872~1958
  ラフマニノフ            1873~1943
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  スーク                     1874~1935
  ブラウンフェルス  1882~1954
  マルクス                  1882~1964
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      ハウェルズ     1892~1983

コルンゴルトはもう少しあと。
だいたいこのあたりの作曲家たちが、いまとても演奏されるようになってきている。
マーラーとシュトラウスがひと際人気を集めている存在ではあり、これらの作曲家たちは、みんなワーグナーにつながる。

この同世代の作曲家たちの作品をハウゼッガーは、どの程度実際に耳にしたり、指揮をしたりしていたのか、それを想像するのも楽しい。
いまのところ、ハウゼッガーの代表作である、今回の自然交響曲を聴くと、ここにあげた作曲家たちの名前を思い起こすシーンもいくつかあった。
この曲の海外レビューや、HMVの視聴レビューなどに多いのは、マーラーであり、冒頭のホルンは3番、終楽章の壮大な合唱は2番や千人をそれぞれ思い起こされると書かれたりしている。

ハウゼッガーの「自然交響曲」は1917年の作品。

そして千人交響曲は、1910年に初演。
千人はゲーテのファウストを扱っているが、自然交響曲の終楽章は、ゲーテの詩集「神と世界」からの序文「プロエミオン」が歌詞に使われている。
ゲーテのその詩の原典を調べたけれど、よくわかりませんでしたので想像の部分もありますのでご容赦ください。

マーラーの千人は、声楽を楽器と化した交響曲であり、聖霊と愛の喜びの賛歌で、その喜びに至る経過として、山上の厳しさや孤独、清々しさなどもあります。
ハウゼッガーの自然交響曲は、なんとなく流れも似ていて、というかベートーヴェン以来の苦しみから歓喜へといたる交響曲の流れがしっかりと踏襲されているようにも思う。
またシュトラウスのツァラトゥストラ(1896年)のようなオルガンの効果的な使用や、起承転結の巧さなども類似点ともいえる。

ちなみに、似ている選手権を勝手に述べてしまうと、シェーンベルク「グレの歌」(1911)、ディーリアス「人生のミサ」(1909)、F・シュミット 交響曲、バントック「オマル・ハイヤーム」「ケルト交響曲」、バックス 交響曲・交響詩、ハウェルズ「楽園賛歌」、ホルスト「雲の使者」・・・・・
こんな風に、これまで好んできた音楽たちが想起されたハウゼッガーの「自然交響曲」が、一発で気に入りました。

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連続する4章からなる56分の大作。
オルガンの多数の打楽器、終楽章には合唱も加わる大シンフォニー。

グラーツ生まれのハウゼッガーは、グラーツを囲む周辺の山々を見て育ち、その山々に着想を得ての「自然交響曲」でもあります。

ホルンの勇壮なるソロで始まり、オルガンの重低音が厳かに支える出だし。
そしてトランペットが引き継ぎ、段々とオケも厚くなり、テンポもあげて活気がみなぎるさまの高揚感は、後期ロマン派好きとしてはたまらない瞬間だ。
日差しを浴びた山々が目覚め、活気に帯びるさまを思い起こそう。
歩みを止めて振り返り、静かな場面になるが、そこでの甘味な雰囲気もよろしいし、山々の自然の孤独すらも感じる。
やがてまたスピードをあげて、さらなる歩みを進め、元気も満タン、威勢もよろしく、ティンパニの連打に乗り、最初の主題や静かなときの主題などが複層的に鳴り響いたりして、聴き手を混乱させてしまうのも事実。
だが音楽は、急に静まり夜が近づいてきたことを感じさせる。

休みなく、オルガンが神秘的な雰囲気で鳴り、ティンパニがゆっくりと静かに連打されるなか、ファゴットが哀歌を奏でる。
深刻なムードで各楽器に引き継がれて行き、哀しみのムードが増して、ブラスも加わって深刻の度合いも増す。
ソロヴァイオリンを契機に、安らぎの雰囲気が漂い、弦が優しい旋律を奏で、ハープのグリッサンドやチェレシタも加わり、なかなかいい感じに拡がりを見せる中間部は素敵なものだ。
このまま終わるかと思うとそうはいかない。
ティンパニに冒頭のリズムが回帰してきて、こんどは葬列のような沈鬱な行進調になり、やがてそれが壮絶なまでに盛り上がる。
ここもまた聴かせどころで、この深刻さからすると、マーラーは優しすぎると思うくらいの深刻ぶりと強烈さだ・・・・
葬列の哀しみの去ったあとは、寂寞の雰囲気でオルガンも静かに鳴る

突如始まるスケルツォ的な3楽章は、前章がウソみたいに活力のあふれた、ティンパニも大活躍のかっこいい雰囲気だが、中間部の平和にあふれた田園調の幸福感がまたよい。
チェレスタの使い方とキラキラした雰囲気など、のちのコルンゴルトを感じた。
ずっと若いコルンゴルドは早熟の天才だったので、14歳のときのシンフォニエッタは、1911年の作品だからこの自然交響曲よりは前です。

なだれを打つように突入する4楽章でいきなり合唱の登場。
これまた超カッコいいのだ。
ここに至って、これまでの苦難が解放されたかのような浄化作用と解放感が満ち溢れる仕組みだ。
幾重にも連続する音楽の高まり、寄せては返す高揚感
最後は金管とオルガンの咆哮、ティンパニの痛打で、音楽は崇高な雰囲気とダイナミックな盛り上がりで持って閉じられる。

グーグル先生による翻訳 Proomion

「ご自身を創造された方の御名において!

 創造的な御業において永遠に。
 信仰、信頼、愛、行動、力を
生み出す神の御名において。
 しばし言われるその御名は、本質は常に未知のまま。


 耳が聞こえうる限り、目に見える限り、
 あなたは神に似た見慣れたものしか見つけられない
 そしてあなたの精神の最も高い火の飛行
 すでにたとえもあり、イメージを十分にあるはずだ
 それはあなたを惹きつけ、明るくもあなたを連れ去り、
 あなたが行くところ、道も場所も飾られる
 もう数えたり、時間を計算したりすることはなく
 そして、すべてにわたりその一歩一歩は計り知れない

こうした作品を盛んに演奏し録音しているラシライネン。
WDR響(旧ケルン放送響)という優秀なオーケストラを得て、解像度の高い明快な演奏です。
録音も超優秀ですが、海外盤なのであまりに細かな文字でびっしり書かれたライナーノーツは、難解極まりなく、まったく判読不能。
海外評などを読むと、曲や演奏の良しあしより、この解説の長ったらしさと難解さを指摘しているものも多いのも笑える。
こうした作品こそ、その作者がブレイクするきっかけにもなるので、平明でわかりやすい案内が必要です。

Groer-speikkogel

ハウゼッガーが眺めていたグラーツ周辺の山。

いったいどこだろうとマップ検索。

それっぽかったのがグラーツ南西のグローセル・シュパイクコーゲルという山

標高2,200m、山頂には十字架が立っている。

借り物の画像ですが、周辺も山並みが連なり、さらに悲しいことに風力発電の風車がたくさん・・・

自然を壊す人間なんて、100年前のハウゼッガーは思いもしなかっただろう。

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2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


 ーーーーーー

このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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2023年11月11日 (土)

フィルハーモニック・ソサエティ・東京 演奏会

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11月も中盤に入り、街にはクリスマスのイルミネーションがちらほら散見されるようになりました。

今日のコンサート会場のお隣で見つけたツリーから。

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ミューザ川崎も、急に寒くなった今日の雰囲気に寄り添うような雰囲気。

音楽が大好きな若い方たちのオーケストラを聴いてきました。

学生オーケストラ出身者によって結成されたオーケストラです。

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 J・ウィリアムズ オリンピックファンファーレとテーマ

         「ジュラシック・パーク」よりテーマ

         「スター・ウォーズ」抜粋

 コルンゴルト   シンフォニエッタ op.5

 J・ウィリアムズ  「インディ・ジョーンズ」よりテーマ

   寺岡 清高 指揮 フィルハーモニック・ソサエティ・東京

     (2023.11.11 @ミューザ川崎 シンフォニーホール)

なんてすばらしい、おもしろいプログラムを組んでくれるんだろ!

コルンゴルト愛のわたくしの目当ては「シンフォニエッタ」。
9月のゲッツェル&都響での同曲のコンサートを早々にチケットを買って楽しみにしていたのに、おりからの台風直撃。
逸れたもののの、お近くの方をのぞくと、東海道線利用の自分には平日でリスクが大きく断念しました。

その悲しみのなか、見つけたのがこのコンサート。
小躍りしましたね。
しかし、悪魔は2度微笑む・・・
川崎に向かう電車内、危険を知らせる通知があり川崎駅で電車が止まっていると。
横浜に着いて、しばし停車、この電車は川崎には止まらず、横須賀線内を迂回とアナウンス。
え、えーー
カラスが置き石をして、駅員が撤去と安全確認をしているとのこと。
すぐさま降りて京急へ向かうも、運悪く急行が出たばかりで、次は空港直のノンストップ。
あちゃ~とばかり、東海道線ホームに舞い戻り、なんとか開始5分前に川崎駅。
ぎりぎりで間に合いましたが、同じように遅れた方も多かった。
カラスよ、もう堪忍してよ。

   ーーーーーーーーーーーーーーーー

こんな艱難を制して着席し、鼓舞するようなオリンピックテーマで勇壮に開始。
めっちゃ、気持ちいい~
84年のLAオリンピック、80年のソ連のアフガン侵攻を受けて、モスクワ五輪を西側がボイコット。
それを受けて、ソ連勢・東側がLAは不参加、中国はモスクワ不参加、LAちゃっかり参加という、極めて政治色の濃かったオリンピックだった。
そんな起源のあるオリンピックテーマだけど、いまやこのJウィリアムズ作品は、反省をもとに世界祭典となったオリンピックの普遍的な音楽になりました。
いまもまた、きな臭い世界の動きにあって、わすれちゃいけない音楽の力であります。
若いオーケストラの輝きあふれるサウンドが心地よい。

ジュラシックパークは、映画館で観なかったこともあり、やや世代ギャップがあり。
しっとりしたホルンの開始がいい
ちょっと音楽的に自分には遠かった。
スーパーマンかETをやって欲しかったなww

30分あまりのスターウォーズ組曲は、もうお馴染みのリズムとメロディが続出。
昭和のオジサンの思いは、77年のロードショーを観た学生時代に飛んで行く。
思えばその時の劇場、渋谷東急も今はない。
しかし、ルークの出て来ないエピソードの音楽となると、DVDで観て知った世界となるので、ここでもまた音楽がやや遠い。
オジサンがそんな思いに浸っているとはつゆ知らず、若者たちは、気持ち良さそうに、身体を音楽に合わせつ演奏にのめり込んでいる。
そんな皆さんが眩しかったし、思い切り共感しつつ演奏しているオーケストラの若者がうらやましかった。
エピソードⅣの大団円の音楽は、エンドロールにも似て、めっちゃくちゃ完結感もあってよかった。
寺岡さんの的確な指揮もあり、オーケストラは各奏者ふくめ、すごく巧い!!
ブルーのライトセーバー、もっと大胆に使えばよかったのにww

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

後半は、得意のコルンゴルト。
5つのオペラをのぞけば、コルンゴルトのなかでは、ヴァイオリン協奏曲と並んで一番好きな作品。
失意と一発逆転の時代の大規模な交響曲より、ずっと前向きで明るくファンタジーあふれる曲。

1912年15歳のコルンゴルトの、ハリウッドとは正直無縁の時代の音楽。
コルンゴルトはユダヤ系の出自もあり、ナチスから退廃音楽のレッテルを受け、欧州を逃れアメリカに逃れたのは戦中でずっと後年。
この作品は、シュトラウスやマーラー、ツェムリンスキー、シェーンベルク、シュレーカーの流れと同じくするドイツ・オーストリア音楽のワーグナー次の世代としてのもの。
15歳という早熟ぶりもさることながら、大胆な和声と甘味な旋律の織り成す当時の未来型サウンドであったと思います。
ハープ、チェレスタ、鉄琴、ピアノなどの多用がいかに当時珍しかったか。
のちにハリウッドで活躍する下地がすでに出来がっているし、オペラ作曲家としてのドラマの構成力もここでは十分に発揮されている。

Jウィリアムズの音楽のヒントや発見は、このシンフォニエッタにも限りなくあり、ライブで聴く喜びもそこにあり、さらには全曲を通じてあらわれるモットーの発見と確認の楽しみと美しい旋律の味わいもある。

この日の寺岡&PSTの演奏は、細かなことは度外視して、ほぼ完璧でした。
大好きな曲のあまり、1楽章が始まると、もう涙腺が緩み涙ぐんでしまった。
そのあとの素敵なワルツ、若い皆さんが体を揺らしながら気持ちよさそうにコルンゴルトを演奏している姿を見るだけで幸せだった。
 ダイナミックな第2楽章、実はのちのオペラでも、悪だくみ的な場面に出てくるムードだけど、それとの甘い中間部の対比も見事だった。
わたしの大好きな3楽章。
近未来サウンドを先取りした響きに、ロマンスのような甘味な美しい歌にもうメロメロでしたよ、ソロもみんな頑張った。
シュトラウスのように、どこ果てることもなく、次々に変転してゆくフィナーレ。
もう右に左にオーケストラの活躍を見ながら、寺岡さんの冷静確実な指揮ぶりも見つつ、もうワクワクのしどうし。
ずっと続いて欲しかった瞬間は、あっけないほどに結末を迎えてしまうのも、この作品のよさ。
輝かしいなかに、いさぎよいエンディングをむかえ、ワタクシ、「ブラボー」一発献上いたしました。

いやはや、ほんとに素敵な演奏のコルンゴルトでした。
この作品は、手練れのオーケストラでなく、若い感性にあふれたメンバーのオーケストラで、コルンゴルトの音楽を感じながら演奏するのがいい。
それを聴くのはオジサンのワタクシですが、自分のなかの、コルンゴルトやこの曲にまつわる思い出を、若者はさりげねく引き出してくれるような気がしますのでね。

アンコールは、ビオラ奏者たちの下に最初からあって気になっていた黒い布に包まれたものの正体が・・・
指揮者がテンガロンハットをかぶって登場し、ビオラメンバーがそろって取り出してかぶった!
そう「インディ・ジョーンズ」ときました!

元気よく、爽快にミューザのホールをあとにしました!

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クリスマス、イルミ好きの私は、ミューザの隣のビルのツリーも逃しません。

やたら混んでた東海道線で帰宅し、川崎駅周辺で買い求めた食材で乾杯🍺

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PSTの次のコンサートは、来年の2月。
秋山和慶さんの指揮で、モーツァルトの39番に「英雄の生涯」

またよき音楽を聴かせてください!

シンフォニエッタ 過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

 「アルブレヒト指揮 ベルリン放送響」

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2023年4月 7日 (金)

シュレーカー 「はるかな響き」夜曲 エッシェンバッハ指揮

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桜満開の小田原城のライトアップ🌸

城内外、お堀の周りも桜満開。

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月も輝き、ロマンテックな夜でした。

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  シュレーカー 「はるかな響き」夜曲

         「ゆるやかなワルツ」

          室内交響曲

          2つの抒情歌

           S:チェン・レイス

         5つの歌

           Br:マティアス・ゲルネ

         「小組曲」

         「ロマンテックな組曲」

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮

     ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 2022.5,6 @コンツェルトハウス、ベルリン)

忽然とあらわれたシュレーカーの音楽の新譜。
しかも指揮が、ばっちりお似合いのエッシェンバッハ。
その濃密な音楽造りと、没頭的な指揮ぶりから、マーラー以降の音楽、さらにはナチスの陥れにあった退廃系とレッテルされた音楽たちには、きっと間違いなく相性を発揮すると思っていたエッシェンバッハ。
いまのベルリンの手兵と、しかもDGへの万全なるスタジオ録音。
シュレーカーファンとしては、そく購入とポチリました。
おりからの急速で訪れた春と咲き誇る桜や花々に圧倒されつつ、連日このシュレーカーの音盤を聴いた。

フランツ・シュレーカー(1878~1934)

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・

ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
どこか遠くで鳴ってる音楽。

過去記事を引用しながら、各曲にコメント。

①「はるかな響き」の夜曲は、オペラ2作目で、いよいよ世紀末風ムードの作風に突入していく契機の作品。
3幕の2場への長大な間奏曲。
はるかな響きが聴こえる芸術家とその幼馴染の女性、それぞれの過ちと勘違い、転落の人生。
毎度痛い経歴を持つ登場人物たちの物語が多いのもシュレーカーの特徴。

夜にひとり悲しむヒロインの場面で、これまた超濃厚かつ、月と闇と夜露を感じさせるロマンティックな音楽であります。
鳥のさえずる中庭の死を待つ芸術家の部屋への場面転換の音楽で、ヒロインと最後の邂逅の場面。
トリスタンの物語にも通じるシーンであります。
エッシェンバッハらしい、濃密な演奏は、かつてのシナイスキーとBBCフィルのシャンドス盤があっさりすぎて聴こえる。
オペラ「はるかな響き」過去記事


②「ゆるやかなワルツ」
ウィーン風の瀟洒な感じの小粋なワルツ。
小管弦楽のために、と付されていて、パントマイム(バレエ)「王女の誕生日」との関連性もある桂作です。
クリムト主催の芸術祭でモダン・バレエの祖グレーテ・ヴィーゼンタールから委嘱を受けて作曲された「王女の誕生日」。
原曲も美しい組曲ですが、この繊細なワルツも美しく、演奏もステキなものでした。
(「王女の誕生日」過去記事)

③「
室内交響曲」
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の濃密かつ明滅するような煌めきの音楽。
文字通り室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケに加わっている。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっている。
オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、これまでのオペラの旋律が何度か顔を出す。
エッシェンバッハの作り出す煌めきのサウンドは、とりとめなさと、醒めた雰囲気と、輝かしさとが綯い交ぜとなったこの音楽の魅力を引き立てているし、オーケストラも緻密だ。

④⑤「ふたつの抒情歌」「5つの歌曲」
初聴き、もしかしたら初録音のオーケストラ伴奏の歌曲で、これはこのアルバムの白眉かもしれない。
まだ聴きこみ不足だが、くめども尽きない世紀末感に満ちた濃密な歌曲集。
この時代、数多くの作曲家がホイットマンの詩に感化され歌を付けたが、「ふたつの抒情歌」はホイットマンの「草の葉」につけた歌曲で、1912年の作曲。
「5つの歌曲」は1909~22年の作で、アラビアンナイトに基づく原詩への歌曲。
ともに初なので、まだ詩と音楽、つかみ切れてませんが、ともかく美しくて深くて、味わいが深い。
これが歌手の力も強くて、チェン・レイスのヴィブラートのない美しいストレートボイスがえも言われぬ耳の快感をもよおす。
レイスさんは、イスラエル出身で、いま大活躍の歌手だけど、ずいぶんと前、「ばらの騎士」のゾフィーを聴いてます。
はい、美人です。
 M・ゲルネの深いバスによる5つの歌曲も、濃厚で味わい深く神々しいまでの声で、作品が輝いてる。
夜ふけて、ウィスキーをくゆらせて音量を抑えて聴くに相応しい静かでロマンテックな歌曲だった。

詩の内容とあわせて、もう少し掘り下げたい歌曲集でした。

⑥「小組曲」
1928年のシュレーカー後半生の終盤の作品。
オペラでは、もう人気も低下し、未完も含めると最後から3作目「歌う悪魔」は今にいたるまで上演記録はほんの数回で、音源もなし。
ラジオ放送局から、国営ラジオ放送用の新しい音楽を作曲するよう依頼された。
室内オーケストラのためのシュレーカーの小組曲は、放送マイクの限界を念頭に置いて作曲され、電波上でおいて初演された作品で。
これまではあまり例のないの音楽演奏と初演の試み。
しかしこの後、シュレカーのキャリアが下り坂になるとは本人も思うこともあたわず。
失敗したオペラ、出版社との契約のキャンセルや国家社会主義者からの政治的圧力、そしてベルリン音楽大学の作曲教師の辞任やほかの役職の辞任により、このあと数年で彼の人生は終了。
 こんな苦境の時期の作品は、表現主義的で、とっきも悪く、室内オケへの作品ながら、数多くの打楽器、ハープ、チェレスタなどの登用で多彩な響きにあふれてます。
そんな雰囲気にあふれた「小組曲」、シュレーカーがこの先、どんな作風に進んでいくかの指標になるような作品。
でも、後続の少しの作品だけでは、シュレーカーの「この先」は予見することができない。
いまでは死が早かったシュレーカー、その後を期待したかった。

⑦「ロマンテックな組曲
4編からなる1902年の作品。
オペラで言うと初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる初期作品。
歌劇「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだったが、この組曲は、どちらかというと、のちの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なロマンティシズムを感じさせる桂品。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」ともいえる存在。
ウェーベルンの「夏風・・」風な「牧歌」に濃厚でシリアスな雰囲気のシャープな味付けでどうぞ。
スケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快さもありつつほの暗い。
インテルメッツォは、以外にも北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

こうした作品には軽いタッチで小回りよく聴かせることのできる器用なエッシェンバッハ。
2枚組のこの大作CDのラストを飾り、爽やかさををもたらせてくれました。

ベルリン・コンツェルトハウス管は1952年創設の旧東ベルリンにあった、あのザンデルリンクのベルリン交響楽団です。
4年前からエッシェンバッハが首席で、次の首席はヨアナ・マルヴィッツが決定している。
ちなみに今のベルリン交響楽団は、旧西ベルリンにあったオケがその名前のまま存続している団体。
両オケとも、5~6月に来日するようで、ともに見栄えのしないプログラムでございます。

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 独墺のこの時代の作曲家の生没年

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

 以下、ヴェレス、ハース、クラーサ、アオスラー、ウルマン等々

私が音楽を聴き始めた頃には、こんな作曲家たちの作品が聴けるようになるなんて思いもしなかったし、その存在すら知るすべもなかった。

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音楽を聴く方法、ツールの変遷とともに、世界のあらゆる情報が瞬時に確認できるようになりメディア自体が変化せざるを得なくなった。

高校時代をこの城下町に通って過ごし、駅前にあった大きな本屋さんで毎月レコード芸術を購入して、食い入るように読んでいた。
どんなレコードがいつ発売されるか、それがどんな演奏なのか、海外の演奏会、新録音のニュース、ともにレコード芸術が頼りだった。

そのレコード芸術が今年7月で休刊となるそうだ。
時代の流れを痛感するとともに、感謝してもしきれない思いを感じます。

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2023年2月11日 (土)

コルンゴルト 「ヘリアーネの奇蹟」

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夕焼け、日の入りが好きな自分ですから、毎日夕方になると外を眺めてます。

夕日モードで撮影すると三日月にカクテルのような夕焼を写すことができます。

すぐに暗くなってしまう瞬間のこんな刹那的な空が好き。

5つあるコルンゴルトのオペラ、4作はすべて取り上げましたが、ついにこの作品を。

10年以上、聴き暖めてきたオペラです、長文失礼します。

        コルンゴルト 歌劇「ヘリアーネの奇蹟」

「喜ぶことを禁じた国の支配者。そこへ、喜びや愛を説く異邦人がやってくるが、捕まってしまい、死刑判決を受ける。
さらに王妃のヘリアーネとの不義を疑われ自ら死を選ぶ。

その異邦人を自らの純血の証として、甦えさせろと無理難題の暴君。
愛していたことを告白し、異邦人の亡きがらに立ちあがることを念じるが、反応せず、怒れる民衆は彼女を襲おうとする・・・・
そのとき、奇蹟が起こり、異邦人が立ちあがり、暴君を追放し、民衆に喜びや希望を与え、愛する二人は昇天する。。。。」


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   ヘリアーネ:サラ・ヤクビアク
   異邦人:ブライアン・ジャッジ
   支配者:ヨーゼフ・ヴァーグナー
   支配者の女使者:オッカ・フォン・デア・ダメラウ
   牢番:デレク・ウェルトン
   盲目の断罪官:ブルクハルト・ウルリヒ
   若い男:ギデオン・ポッペ

  マルク・アルブレヒト指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

               ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団

    演出:クリストフ・ロイ

       (2018.3.30~4.1 @ベルリン・ドイツ・オペラ)

コルンゴルトの音楽を愛するものとしては、5つあるそのオペラをとりわけ愛し大切にしております。

しかしながら、そのなかでも一番の大作「ヘリアーネの奇蹟」は長いうえに、国内盤も買い逃したので、その作品理解に時間を要してました。
もう10年も若ければ、国内盤のない「カトリーン」のときのように辞書を引きつつ作品解明に努めたものですが、寄る年波と仕事の難儀、なによりもCDブックレットの細かい文字を読むのがもうしんどくて、なかなかにこのオペラに立ち向かうことができなかったのでした。
若い方には、視力と気力のあふれるうちに、未知作品を読み解いておくことをお勧めします。

そこで彗星のように現れた日本語字幕付きのベルリン・ドイツ・オペラの上演映像。
音楽はすっかりお馴染みになってましたので、舞台の様子を観ながら、ついに全体像が把握とあいないりました。
痺れるほどに美しく、官能的でもある2幕と3幕の間の間奏曲がとんでもなく好き。

1927年、コルンゴルト、30歳のときのオペラ

  ①「ポリクラテスの指環」(17歳) 

  ②「ヴィオランタ」(18歳)

  ③「死の都」(23歳)

  ④「ヘリアーネの奇蹟」(30歳)

  ⑤「カトリーン」(40歳)


「市の都」の大ヒットで、ウィーンとドイツの各劇場でひっぱりだこの存在となってしまった若きコルンゴルト。
息子を溺愛し、天才として売り出しバックアップしてきた音楽評論家の父ユリウス・コルンゴルトが良きにつけ悪しきにつけ、「ヘリアーネの奇蹟」を成功した前作のように華々しい決定打とならなかった点に大きなマイナス要素となった。
舌鋒するどい父の論評は、その厳しさを恐れる楽壇が、息子エーリヒ・ウォルフガンクの作品を取り上げるようになり、マーラー後の時代を担う存在として、大いに喧伝した。
そんな後ろ盾がなくともコルンゴルトの音楽は時代を超えて、いま完全に受入れられたことで、父の饒舌なバックアップがなくとも、いずれ来る存在であったことがその証でしょう。
不遇の不幸は、足を引っ張ったやりすぎの父の存在以上にナチスの台頭であり、ナチスとその勢力が嫌った革新的な新しい音楽ムーブメントと少しあとのユダヤ人出自という存在であった問題。
 当初はユダヤ排斥よりは、社会的に熱狂的なブームとなったジャズや、クラシック界における十二音や即物主義や、その先の新古典的な音楽という伝統を乗り越えた音楽への嫌悪がナチスのそのターゲットとなった。
コルンゴルトより前に、ユダヤであることの前に、そうした作風の音楽家は批判を浴びたし、作曲家たちはドイツを逃れた。
 こんな情勢下で作曲された「ヘレアーネ」。

原作はカール・カルトネカーという文学者の「聖人」という作品で、彼はコルンゴルトの若き日のオペラ「ヴィオランタ」を観劇して、大いに感銘を受けていて、その思いが熱いうちに「聖人」を書いたという。
カルトネカーは早逝してしまうが、コルンゴルトはこの作品を読んで、すぐにオペラ化を思い立ち、友人のハンス・ミュラーに台本作成を依頼して、生まれたのがこの「ヘリアーネの奇蹟」。

人気絶頂期での新作ヘリアーネの初演は、まずハンブルグで行われ成功。
次いで本丸ウィーン国立歌劇場での初演を数日後に控え、当のウィーンでは、人気のジャズの要素と世紀末的な雰囲気をとりまぜたクシェネクの「ジョニーは演奏する」の上演も先鋭的なグループを中心に企てられており、それにナチス勢力が反対する流れで、コルンゴルト対クシェネクみたいな対立要素が生まれていた。
そんななかで、シャルクの指揮、ロッテ・レーマンの主役で初演されるものの、Wキャストの歌手と指揮者との造反などの音楽面とは違う事情から続演が失敗に終わり、ウィーンでの上演では芳しい評価は得られなかった。
ドイツ各地でのその後の上演も、音楽への評価というより、クシェネクのジョニーの高まる評価に逆切れした父の評論活動が引き続きマイナスとなり、そんなことから、作品の長大さや筋立ての複雑さ、歌手にとっての難解さなどから「ヘリアーネの奇蹟」はここでどちらかというと、失敗作との判断を受けることとなってしまった。

愛する女性との結婚にまでもあれこれ口をはさみ、嫌がらせをした保守的な親父ユリウスの功罪は大きく、この傑作オペラがナチスの退廃烙印以外でも評価が遅れた原因となっていることのいまに至るまでの要因。
でもコルンゴルトが、当時の音楽シーンの移り変わりや最新の動向に鈍感でなかったわけでなく、このヘリアーネでも随所に斬新な手法が目立ちます。
それでもいま、コルンゴルトの音楽がマーラー後の後期ロマン派的な立ち位置にとどまったのは親父殿の存在があってのものと思わざるをえないのであります。


長大かつ、筋立てが複雑な歴史絵巻。
CDでもたっぷり3枚は、聴き応えもある。
大胆な和声と不安を誘う不況和音も随所に聴かれるし、甘いばかりでない表現主義的ともいえるリアルな音楽展開は、ドラマの流れとともにかなり生々しいです。
音楽は、ピアノ、オルガン、複数の鍵盤楽器・打楽器の多用で、より近未来風な響きを醸すようになりつつ、一方でとろけるような美しい旋律があふれだしている。
民衆たる合唱も、移ろいゆく世論に左右されるように、ときに感動的な共感を示すとともに、狂えるようなシャウトも聴かせる。
オケも合唱も、「死の都」とは段違いの成熟ぶりと実験的なチャレンジ意欲にあふれていて大胆きわまりないのだ。

歌手たちの扱いは、従来のオペラの路線を踏襲している。
清廉なソプラノの主人公に、甘いテノール、悪漢風のバリトンという構図は、コルンゴルトの常套で、ここでは意地悪メゾが加わった。

聖なる存在と救済のテノールとして、ローエングリンとパルジファルを思い起こすし、エルザやエリーザベトの存在のようなワーグナー作品との類似性を思い起こすことが可能だ。
同様に邪悪な存在としてのバリトンとメゾも、ローエングリンのそれと同じくする。
そんな風に紐解けば、筋立ての難解さも解けるものかと思う。

とある時代のとある国

第1幕

「愛するものに祝福あり。悪しきなきものは死を逃れる。愛に命を捧げるものは再び蘇る」

大胆な和音で開始したオペラは、こうした合唱で幕開けする。
まさにこのオペラのモットー。
 異国からやってきた男がとらわれ、牢番に連れられてくるが、牢番は彼に同情的で縄を解いてやり、なんで愛や喜びの話をしたんだい?と問いかける。
平和な日々の日常の大切さを説く異邦人、この国に愛はないのだよ、と実態を語る牢番。
そして、この国の支配者が荒々しくやってきて、この俺の国になんていうことをしてくれたんだと怒りまくる。
異邦人は支配者に対し自分の役割を話すが、支配者は逆切れして、愛に捨てられた俺に残されたのは権力だけだと、死刑宣告をする。
死への恐怖に絶望的になった異邦人のもとへ、支配者の妻ヘレアーネが慰めのためにお酒を持って偲んでくる。

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彼女は異邦人の最後の求めに応じ、美しい髪と美しい足を与え、異邦人はそれを愛おしく抱きしめる。
最後に彼女は、異邦人に自身の裸をさらして、彼の心を慰めようとし、いたく感激した異邦人は彼女を抱きしめ、ふたりは愛情を確かめあう。
最後の一線は越えず、ヘリアーネはこの場を外し彼のために祈りに外へ出る。今度は支配者がやってくる。
彼は、愛する妻がまったく心を開かない、俺の代わりに彼女の気持ちを自分に向けさせてくれ、俺が彼女を抱くところを見守って欲しい、そうしたら命は助けてやると強要するが、異邦人は頑として応じない。
そこへ折り悪く、ヘリアーネが裸のままにここへ戻ってきてしまう。
激怒する支配者、異邦人への死刑の確定と妻を不貞で逮捕することを命じる。

第2幕

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怒りの支配者、女使者に妻への不満をぶちまけるが、女使者は、なに言ってんだいあんた、あたしを捨てといてふざけんじゃないよと毒づく。
支配者は彼女にそんなこと言わねーで助けてくれよと助けを求めたりする。
盲目の断罪官と裁判官たちが到着し、ヘレアーネも引っ立てられてくる。
不貞を責められるヘリアーネ、裸を見せたことは真実だが、気持ちだけは捧げ、神に祈りました。
彼の苦悩を感じ、それを共有することで、彼の者になったの、私を殺して欲しいと切々と歌い上げる。
断罪官たちは、判決は神に委ねるべしとする。
理解の及ばない夫は妻に、判決はいらない、これで自決するがよいと短剣を手渡す。
そこへ異邦人が連れてこられ、証言を求められるがそれを拒絶し、最後にヘリアーネと二人にして欲しいと懇願し認められる。

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あなたを救いにきた、自分がいなくなれば支配者は許すでしょうと自分を殺して欲しいと懇願する異邦人。
神に与えられた使命のために逃げて生き抜いて欲しいとするヘリアーネ、最後に口づけを求める異邦人は、ヘレアーネの短剣に飛びこむようにして自決。

騒然となるなか支配者は、なかばヘレアーネを貶めるため、人々に向かい王妃はその純血ゆえに奇蹟を起こすだろう、彼女は奴を死から蘇えらせるだろうと言う。
人々や断罪者は、神への冒涜、天への挑戦だと言う一方、彼女の無実を認め、神を讃えようと意見は二分。
最後に、ヘレアーネは決意し、私のために死んだこの人を蘇えさせると誓う。

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第3幕

人々の意見は二分し分断された。
死はなくなり墓があばかれる。神のみ使いとして死の淵から彼を呼びだす。
いや、死の鍵を握るのは神だけなのだ、けしからん・・・・
 そこへ若い男が語る。
王妃は優しいお方だ、自分の子供が病で苦しんでいるときに救ってくれた、癒しの女王なんだと説き、人々も心動かされ、慈悲深いお方、愛する者には愛をと歌う。
しかし、支配者の女使者は、魔女の仕業に違いないと一蹴する。

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いよいよ神の試練を受けるヘリアーネ。
夫である支配者は、やめるんだ、蘇りができないとお前には死が待ってると説得する。
ついに「神の名のもとに、蘇りなさい」ヘレアーネは異邦人に命ずる。
しかし、彼女は、「できない、私は愛した、ふたりで破滅の道を選んだの、私は聖女なんかじゃない」と告白。
人々のなかでは、だまれ娼婦め、殺せ、嘘つきめ、と動揺と怒りが蔓延しはじめる。
さらにヘリアーネは、夫に向かい、いつも血の匂いがした、闇のなかではもう生きられない、そこからの救いを彼に求めた、幸せはみんなのものよ!と指摘し、ついに支配者も勝手にしろと匙をなげる。
人々はもう大半が離反し、「火刑台へ」と叫ぶ。
そのとき、横たわっていた異邦人がゆっくりと起き上がる!
人々の驚愕。
合唱は、「愛に命を捧げる者は再び蘇る」と歌い神々しい雰囲気につつまれる。
蘇った異邦人はヘレアーネに第7の門に天使が立っているが、その前に試練が待ち受けていると諭す。

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とち狂った支配者はヘレアーネをナイフで刺してしまい、人々も選ばれた女性を殺すとはけしからんと怒り、そして異邦人は出て行け人殺しめと、この場から追い出してしまう。
最後の試練を受けたヘレアーネを抱き起す異邦人、息を吹き返す彼女とともに甘味で長大な二重唱を歌う。
天に向かって昇りゆくふたり、神秘的な雰囲気のなか、「どんなに貧しくとも、失ってはいけないものがある、それは希望」と高らかなオルガンも鳴り響いてオペラは幕を閉じる。

         幕

やや荒唐無稽の感もある筋立てではあるが、神の力と愛の力を描いた清らかな秘蹟ドラマともいえる。
死の都から7年を経て、ひたすら美しく万華鏡的・耽美的音楽にあふれていた前作からすると、よりその趣きを進化させ、前述のとおり、革新的な技法も鮮やかに決まっている。
異邦人が蘇るときのときの、オーケストラの盛り上がりの眩くばかりの効果は、まるでJ・ウィリアムズの音楽と見まがうくらいで、未知との遭遇クラスの驚きの音楽だ。

謎の全裸だけど、これは生まれたままのピュアで清廉な姿ということで、自分を救ってくれるかもしれない人への信頼と愛情の表現とみたい。
見ようによっては色物とされかねない要素なので、ここにはスピリチュアルななにかだと認めたい。

初演時の舞台の様子などを写真で見ると古色蒼然とした王宮のメロドラマ風な感じに見える。
ところが、クリストフ・ロイの舞台はまるきり現代社会のもので、衣装も全員がスーツ姿。
装置も全3幕、大きな会議室のようなホール内で外からの明かりもなく、閉ざされた空間。
このなかでのみ行われる人間ドラマは、まるでサスペンス映画を観ているような人物の心理的な描き方である。
ゆえにこそ、コルンゴルトの素晴らしい音楽に集中でき、逆にその音楽がすべてドラマを語っていることがわかるという具合だ。
壁には時計があるが、その時刻は2時5分で最初から最後まで止まったまま。
まさに愛のないこの世界は、時間軸もないという証か。
最後のふたりの昇天はリアルに描かれず、部屋のドアが開き、外から眩しい光が差し、そこへ向かって二人は歩みを進め出て行く。
人々はすべてその場に倒れているが、ただひとり、ヘリアーネを称賛し信じた若い男のみが生き残りひとり見守る。
こんな風にわかりやすい演出でもありました。

ヘレアーネや「死の都」のマリエッタを持ち役とするヤクビアクは、文字通り一糸まとわぬ体当たり的な演技を見せる。
美しいには違いないが、なにもそこまで的な思いはあるも、その一途な歌唱は素晴らしいものがある一方で、やや言葉が不明瞭でムーディに傾くきらいもあるが、この作品の初DVDには彼女なくしてはならないものになったと思う。
音だけでも最近は何度も聴いていて、聴き慣れると悪くないなと思い始めました。

ふたりの男声もとてもよろしく、ほかのCDの同役に引けを取らない素晴らしさで、とくにヴァーグナーの苦悩に富んだ支配者役は実によろしい。
あとダメラウの憎々しい役柄もよくって、声の張り、言葉の乗せ具合もこうした役柄にはぴったり。

このDVDの最高の立役者は、M・アルブレヒトの共感に富んだ指揮ぶりだろう。
ときおり映るピットの中の指揮姿を見るだけでわかる、この作品へののめり込みぶりで、ピットから熱い歌と煌めきのコルンゴルトサウンドが舞い上がるような感じで、数年前、都響に来演したとき聴いたコルンゴルトの交響曲の熱演を思い起こすことができた。
アルブレヒトはシュトラウス、マーラー、ツェムリンスキーなどを得意としていて、先ごろオランダオペラで上演されたフンパーディンクの「王様の子供」なんかもとてもよかった。
これからの指揮者は、マーラー以降の音楽をいかにうまく聴かせるかということもキーになるだろう。

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   ヘリアーネ:アンナ・トモワ-シントウ
   異邦人:ジョン・デイヴィッド・デ・ハーン
   支配者:ハルトムート・ウェルカー
   支配者の女使者:ラインヒルト・ルンケル
   牢番:ルネ・パペ
   盲目の断罪官:ニコライ・ゲッダ
   若い男:マルティン・ペッツルト

  ジョン・モウチェリ指揮 ベルリン放送交響楽団

              ベルリン放送合唱団

       (1992.2.20~29 @イエス・キリスト教会) 

デッカの「退廃音楽シリーズ」は90年代初めの画期的な録音の一環だった。
そんななかのひとつが、この時代を不運のうちに生きた作曲家たちのオペラで、なかでもコルンゴルトのヘリアーネは、「死の都」がラインスドルフ盤で注目を浴びたあと、「ヴィオランタ」がCBSで録音され、次にきたのがこの録音。
コルンゴルトの作品受容史のなかで、今後もきっと歴史的な存在を占める録音になるでしょう。

外盤CDで購入以来、何度も何度も聴きまして音楽のすべてが耳にはいりました。

聴いてきて思うのは、モウチェリの指揮がシネマチックにすぎるけど、よくオケを歌わせ、シュトラウスばりのオケの分厚さの中に光る歌謡性をうまく表出しているし、いまのベルリン・ドイツオーケストラの機能性豊かな高性能ぶりが見事。
なんたって、録音が素晴らしい。

トモワ=シントウは歌手陣のなかではピカイチの存在。
声の磨きぬかれた美しさ、たくみな表現力、人工的な歌になりかねないこの役柄を、豊かな人間味ある歌で救っている。
ずっと聴いてきたけれど、やや声を揺らしすぎかな、とも思うようになりました。
ウェルカーの支配者役はまさに適役で文句なし。
カンサス出身のアメリカのテノール、デ・ハーン氏はリリックにすぎ、やや頼りなさも。
ピキーンと一筋あって欲しい声でもあります。
モウチェリ盤の不満はここにあります。

でも、パイオニアのようなこの果敢な録音。
これからもありがたく聴きたいと思います。

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   ヘリアーネ:アンネマリー・クレーマー
   異邦人:イアン・ストレイ
        支配者:アリス・アルギリス

   支配者の女使者:カテリーナ・ヘーベルコーヴァ
   牢番:フランク・ヴァン・ホーヴェ
   盲目の断罪官:ヌットハポーン・タンマティ
   若い男:ジェルジ・ハンツァール

 ファブリス・ボロン指揮 フライブルク・フィルハーモニー管弦楽団
             フライブルク歌劇場合唱団 
                                 フライブルク・バッハ合唱団のメンバー


      (2017.7.20~26 @ロルフ・ベーム・ザール、フライブルク) 

デッカの録音から24年、頼りになるナクソスから登場した録音は、舞台に合わせてスタジオでのレコーディング。
ドイツの地方オペラハウスの実力を感じさせる演奏となりました。

3人のメイン歌手がとてもいい。
きりりとしたヘリアーネ役のオランダの歌手クレーマーさん、とてもいいと思いました。
映像になっているトリノでの「ヴィオランタ」でも歌っていて、真っ直ぐな声はコルンゴルトにぴったり。
異国の異邦人役のストーレイも思いのほかよくて、没頭感はないものの、気品ある声は聖なる人の高潔な一面を歌いだしている一方、生硬さもある声は、この役柄の頑迷さも歌いこんでいて妙に納得。
アルギリスの支配者さんも嫌なヤツと認識させてくれる存在だ。

フライブルクのオペラのオーケストラは初聴きだ。
ドイツの地方オケはオペラのオーケストラも兼務することが多いが、なかなかに巧い。
しかし、緻密さや、音の切れ味、重層的な音色では、明らかにベルリンのふたつのオケには敵わない。
でも、ボロンさんの指揮ともども、オペラティックな舞台の雰囲気はとてもゆたかでありました。

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この数週間、ヘリアーネの悲劇を何度も、何度も聴きました。
寝ながら夢のなかででも鳴り響き、聴いてました。

ベルリン・ドイツ・オペラでは3月に、ヤクビアクとアルブレヒト、ヒロインと指揮者を変えずに再び上演されるようです。

お金と時間さえあれば飛んで行って観劇したいです。

でも許されぬいま、夕映えの美しさを眺めつつ、これら3つの音源や映像を楽しむことにします。

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2023年1月28日 (土)

シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」 アバド指揮

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このところの寒波で、丹沢の山々も今朝は白く染まりました。

1年前は、窓の外はビルばっかりだったのに、いまは遠くに丹沢連峰を見渡せる場所にいます。

子供の頃は、左手に富士の頂きが見えたのですが、木々が茂ったのか、まったく見えなくなってしまった。

でも、家を出て数秒上の方に行くと富士はよく見えます。

こんな気持ちのいい景色とまったく関係ない曲を。

それというのも、1月27日は「ホロコーストを想起する国際デー」だった。

wikiによると、「憎悪、偏見、人種差別の危険性を警告することを目的とした国際デーである。1月27日が指定されている。国際ホロコースト記念日とも呼ばれる。」とあります。

ホロコーストというと、ナチスの戦時における行為がそのまま代名詞になっているし、人類史上あってはならない非道なことだったけれど、ソ連もウクライナで同じことをやっているし、いまも戦渦にある場所は世界にいくつかある。
しかし、形骸化した国連組織は、いま現在起きている事実上のホロコーストを止めることはできないし、非難決議すらできない。
国連の常任理事国が、侵略している国だし、民族弾圧をしている国の2か国であることはもう笑い話みたいなことだ。

音楽blogだからこれ以上は書かないが、世界と社会の分断を意図的に図っている組織や連中があり、その背後にはあの国、K産主義者があると思う。
自由と民主の国にK産主義はいらん。

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  シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」

    語り:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン放送合唱団

                        (2001.9.9 @ベルリン)

この音源は、私の私的なもので、FMから録音したカセットテープからCDR化したものです。
正規にないもので申しわけありませんが、今日、この日に聴きなおして衝撃的だったので記事にしました。

この日のベルリンフィルとの演目は、オールシェーンベルクで、「ワルシャワ」に始まり、ピーター・ゼルキンとのピアノ協奏曲、「ペレアスとメリザンド」の3曲でして、CDRにきっちり収まる時間。
自分としては、極めて大切な音源となりました。

アバドは、「ワルシャワの生き残り」を2度録音してまして、ECユースオケとマクシミリアン・シェルの語りの79年ライブ、ウィーンフィルとゴットフリート・ホルニックの語りの89年録音盤。
若い頃にも各地で取り上げていたはずで、アバドの問題意識の一面とその意識を感じます。

1992年に歌手を引退したフィッシャー=ディースカウ。
その後は朗読家としての活動を行ったFD。
そんな一環としてのアバドとの共演だった。
アバドがFDの現役時代に、共演があったかどうかわかりませんが、ヘルマン・プライとは友人としてもよく共演していたので、個性の異なるFDとはあまり合わなかったのかもしれません。

ここで聴く、一期一会のような緊迫感あふれる迫真の演奏。
いかにもディースカウと言いたいくらいに、言葉に載せる心情の切迫感と、とんでもない緊張感。
ベルリンフィルの切れ味あふれる高度な演奏能力を目いっぱいに引き出すアバドのドラマテックな指揮ぶり。
わずか7分ほどの演奏時間に固唾をのんで聴き入るワタクシであった。

以下は、過去記事をコピペ。

1947年アメリカ亡命時のシェーンベルクの作品。
第二次大戦後、ナチスの行った蛮事が明らかになるにつれ、ユダヤ系の多かったリベラルなアメリカでは怒りと悲しみが大きく、ユダヤの出自のシェーンベルクゆえ、さらに姪がナチスに殺されたこともあり、強い憤りでもってこの作品を書くこととあいりました。
クーセヴィッキー音楽財団による委嘱作。
73歳のシェーンベルクは、その前年、心臓発作を起こし命はとりとめたものの、その生涯も病弱であと数年であったが、この音楽に聴く「怒りのエネルギー」は相当な力を持って、聴くわたしたちに迫ってくるものがある。
  12音技法による音楽でありますが、もうこの域に達すると、初期の技法による作品にみられるぎこちなさよりは、考え抜かれた洗練さを感じさせ、頭でっかちの音楽にならずに、音が完全にドラマを表出していて寒気さえ覚えます。

ワルシャワの収容所から地下水道に逃げ込んだ男の回想に基づくドラマで、ほぼ語り、しかし時には歌うような、これもまたシュプレヒシュティンメのひとつ。
英語による明確かつ客観的な語りだが、徐々にリアルを増してきて、ナチス軍人の言葉はドイツ語によって引用される。
これもまたリアル恐怖を呼び起こす効果に満ちている。


叱咤されガス室への行進を余儀なくするその時、オケの切迫感が極度に高まり、いままで無言であった人々、すなわち合唱がヘブライ語で突然歌い出す。
聖歌「イスラエルよ聞け」。
最後の数分のこの出来事は、最初聴いたときには背筋が寒くなるほどに衝撃的だった。
この劇的な効果は、効果をねらうものでなく、あくまでもリアル第一で、ユダヤの長い歴史と苦難を表したものでありましょう。
抗いがたい運命に従わざるを得ないが、古代より続く民族の苦難、それに耐え抜く強さと後世の世代に希望を問いかける叫びを感じるのであります。


フィッシャー=ディースカウとアバド、マーラーやシューマンで共演して欲しかったものです。

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寒さは続く。

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2021年9月 2日 (木)

ベルク 「ルル」 二期会公演

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二期会公演、ベルク作曲の歌劇「ルル」を観劇。

昨年、東京文化会館で上演の予定が1年延期して、今度は別株が登場するなか、果敢なる上演。

きめ細かな対策を取り、舞台も絶妙なディスタンスを保った演出で、見事な上演で、その成功を大いに讃えたいと思います。

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文化会館から場所を移して、新宿文化センターで、この昭和感あふれるレンガの建物には、なんと2006年以来15年ぶりとなります。

そのときは、演奏会形式のR・シュトラウスの「ダナエの愛」で、若杉弘さんの指揮による日本初演でした。

約1,600席(ピット使用時)の比較的コンパクトなホールで、客席の傾斜は緩めなので、前の方が大きかったりするとステージに被ってしまい、一部見ずらいこともある。
残念なことに、斜め前にいた座高の高い方が、幕間で空いていたわたくしの前に移動してきてしまい、2幕ではちょっと往生しました・・・・

そんなことはともかく、演出には、ちょっとひとコトありますが、まずもって素晴らしい上演でありました。

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「ルル」は、未完のオペラ。
ヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を原作にベルクが3幕7場台本を書き作曲を進めたが、完成されたのは2幕までで、3幕はショートスコアのみで、オーケストレーション中途となり、ベルクの死により未完となった。
 別途、3つの幕からチョイスした5つの楽章からなる「ルル」交響曲があり、3幕で使用される予定だった変奏曲(ルルの逃亡)とアダージョ(ルルとゲシュヴィッツ伯爵夫人の死)のふたつを、完成された2幕のあとに続けることで初演され、それが2幕版ということになります。

ベルクの未亡人ヘレーネは、第3者による補筆を禁じていたが、実はその補筆計画は密かに進行していて、フリードリヒ・ツェルハによる3幕完成版が1979年に、シェロー&ブーレーズのコンビにより3幕版として上演されました。

12年前に「ルル」を初観劇しましたが、そのときは3幕版(びわ湖ホール)
今回の二期会公演は2幕版での上演でした。

日本での「ルル」上演史 
 ① 1970年 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 ホルライザー指揮
 ② 1999年 コンサート形式          若杉 弘 指揮
 ③ 2003年 日生劇場/二期会           沼尻 竜典 指揮
 ④ 2005年 新国立劇場            アントン・レック指揮
 ⑤ 2009年 びわ湖ホール            沼尻 竜典 指揮
 ⑥ 2021年 二期会              マキシム・パスカル指揮

         ベルク 歌劇「ルル」

  ルル:冨平 安希子    ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:川合 ひとみ
  衣装係、ギムナジウムの学生:杉山 由紀
  医事顧問:加賀 清孝   画家:大川 信之
  シェーン博士:小森 輝彦 アルヴァ:山本 耕平
  シゴルヒ:狩野 賢一   猛獣使い、力業師:小林 啓倫
  公爵、従僕:高柳 圭   劇場支配人:倉本 晋児
  ソロダンサー:中村 蓉

    演出:カロリーネ・グルーバー

  マキシム・パスカル指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

       (2021.8.29 @新宿文化センター)

二期会のサイトで、演出家グルーバーが、2幕版を採用した理由を語っておりました。
・ベルクが残した真正な部分だけで上演することに意義がある。
・ヴェーデキントの独語が古く、ドイツ人でも難解。
 特に3幕は歌手の負担が大きいため
・共同制作は、多くの歌手を手当てできるアンサンブル劇場でないと難しい
ドイツでは、いろんな意味で、音楽にも真正さを追求する動きがあり、世界的にみても2幕版で上演される機会が増えているとのこと。

3幕で、ベルクが完成できなかった場面で、2幕版で省略されるシーン。
1場:パリでの逃亡生活、賭博、株暴落とさらなる逃亡(登場人物多数)
2場:ロンドンでの娼婦生活、その日の最初の客(医事顧問が演じる)
  ルル、ゲシュヴィッツ令嬢、シゴルヒ、アルヴァらのうらぶれた生活
  客の黒人(画家が演じる)によるアルヴァ殺害

2幕版では、以上が略され、続いて3人目、切り裂きジャック(シェーン博士が演じる)の登場とルルの殺害、帰り際にさらにゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺して去り、彼女は虫の息で、ルルへの愛を歌い幕となる。
  
上記の3幕の省略部分は特に、株暴落シーンなど、雑多すぎるし、人物もたくさん出るので私はいつも困惑する場面なのです。
しかし、今回の2幕版は、音楽としては通例通り変奏曲とアダージョが演奏されたわけだが、舞台ではなにも起こらなかった、と言っていい。

舞台上に女性のマネキンを多く配置し、ルルと同じ姿のダンサーを常に登場させ、ルル本人と対比させている。
マネキンは極度に女性の身体を強調した作りで、さまざまな鬘や衣装をまとい、演出家グルーバーさんの意図は、登場男性やゲシュヴィッツ伯爵令嬢からみたルルを意図しているという。
確かに、ルルを男性たちが呼ぶ名前は、ミニョンだったり、エーファ、ネリーだったりして、要は男性が自分の思いをルルに勝手に押し付けているというわけである。
そして、ダンサーはルルの内面の現れをパフォーマンスしている。
舞台の進行に合わせて、ダンサー・ルルは壁沿いを苦痛に満ちて動いたり、遠くから傍観していたりと、愛やもしかしたら感情の薄いルルの心情を表そうと様々に表現していた。

そして、最後のシーンである。
2幕の終わりで、アルヴァと二重唱を歌ったあと、アルヴァの思い、エーファであり母マリアである、聖母マリアの姿になったルル。
アルヴァはデスクに倒れた(寝た)ままにして、ルルはマリアの姿をかなぐりすてて、スリップ姿となり、虚空を見つめるように舞台を左右にさまよう。
そこに、ルルの内面のダンサーが様々に踊りつつ、ルル本体に近づき、ついには絡み合い、一体化したように表現したと見てとれた。
ここで幕となった・・・・・。

そうなんです、切り裂きジャックは登場しないし、当然に殺害シーンもないし、さらにはゲシュヴィッツ伯爵令嬢も出てこないし、彼女も巻き添え死をくらうことなく、令嬢のルルへの愛の声は、その姿なく流されるのみ。
まだかまだかと待ってた、当然にあるべきシーンがなく、拍子抜けだったと正直言いたい。
だって、衝撃的なフォルティシモでも舞台ではなにも起こらず・・・・・です。

事前に見ていたグルーバーの考えからすると、こういうのはありだろうな、というのが後付け的な感想ではあります。
ファム・ファタールとしての「ルル」の見方は間違っている(それこそが古い)と語っておられます。
当時の家父長制の問題が生んだ女性の悲劇であり、消費される女性に対する反証、そのあたりは、オスティナートにおけるシネマ(上田大樹氏による映像作品)で、ルルの逮捕劇・脱獄などの暗示が、おびただしい数のマネキンの部位が降り注ぐなか表現された秀逸なものであった。
さらにグルーバーによると、ベルクがヴェーデキントの劇をおそらく見たとき、当時の識者が、「女性を好きなように利用できる制度のひどさ」を例えて評論したものに接したかもしれない。
100年前の当時で、そのようなことを、しかも男性がいうと言うことは、大きなことであったが、いまはそれが良い方向になったのか?
今現在、真の意味での男女の平等が達成されているのか?
そうした問題提示も意図していると語る演出者。

極度のフェミニズムには、少し距離を取りたい自分ですが、この演出意図を事前に確認して観劇に及びましたが、さしたる過激さはなく、ただ、ルルの殺害シーンを消してしまったことで、効果としては、どこかぼやけてしまったという思いが強い。
内面のルルと実存のルルの最後の一体化は、わからんではないが、例えば映像作品などで、いくつの演出で見ることができる、「死による浄化」的なものを描いてもよかったのでは。
いや、こんな風に思うことが、ルルを単なるファム・ファタールとしてしか捉えていない、古臭い自分だということになるのか・・・・

あと、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の献身的な愛も、最後に姿を少しでも現すことで、その自己犠牲ともとれる存在で、ルルの内面一体化に華を添えることができたのではないかな、素人考えですがね。
コレラに罹患しながらもルルを救ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、聖母マリアのブルーの衣装をまとっていたのも意味あることなのだろうか。

舞台全体の印象はシンプルで無駄を省いたスタイリッシュなもの。
ドア付きの稼働する箱、兼スクリーン機能をもった装置がいくつも並び、人物たちは、そのなかで自分の好みのマネキン(すなわち好みの自分のルル)と一緒に、ルルとシェーン博士との緊張のやりとりをのぞき込んだりする。
その箱が動いて、「LULU」の文字を映し出したり、それが「LUST」という言葉に変じたりしていた。
「LUST」、すなわち「欲望」である。

プロローグの猛獣使いのシーンや、場面展開のシーンでは、紗幕がたくみに使われ、観劇するわれわれの想像力を刺激したものだ。

長文となりましたが、1回ではとうてい理解が及ばないし、何度も観てみたい舞台と演出であることは確かだ。

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こうした演出で歌い演じた歌手のみなさんは、ともかくいずれも完璧で素晴らしかった。
12年前のびわ湖ルルで、ルルのカヴァーキャストだった冨平さん、舞台映えするお姿に負けず劣らずの素晴らしい高音を駆使して、同情さそう可愛い女性となってました。
3年前の素敵だったエンヒェン役以来の冨平さん、ただ素晴らしい高音域に対し、中音域の声にもうひとつ力が加わると万全かと思いました。
偉そうなこと書いてますが、コロラトゥーラとドラマティコ双方の難役でもある、このルル役、これだけ歌い演じることができるのは、並大抵のことではありません!

日本人ウォータンとして、最高のバスバリトンと思っている小森さんのシェーン博士も迫真の演技と、ドイツ語の明確できっちりした発声による完璧な歌唱に感銘を受けた。
願わくは、ジャック役でも見てみたかったが。
 このグルーバー2幕版では、おいしい役柄だったアルヴァ役の山本さん、ルル賛美での伸びのある歌かなテノール声は、プッチーニあたりを聴いてみたいと思わせるものでした。
 この演出では、やや影が薄い存在になってしまったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の川合さん、3幕版でないとその存在の重さが出ませんが、もっと聴きたい声と、ちょっとセクシーなお衣装も素敵でした。
味のある狩野さんのシゴルヒ、粗暴ななかに力強い小林さんの力業師、リリカルな大川さんの画家、あと存在感があったのは可哀想な学生さん役の杉山さんで少年っぽさ、中性っぽさがよく出ていて可愛かったです。
ちょい役になってしまった医事顧問にベテラン加賀さん、ほかのみなさんも充実。
 演出家の強い意図をしっかり汲んで、しかも困難な環境のなか、練習を積んで見事な成果を結実されたと思います。
もうひとつのキャストと併せて、記録としても映像作品で残して欲しいと思います。

最期に最大級の賛辞を指揮者とオーケストラに。
休憩中、ピットの中をのぞきに行こうとしたら係員に静止されてしまったが(なんでやねん)、第1ヴァイオリンは8挺で、チェロやコントラバスの3~4ぐらいだった。
浅めのピットに、左側が弦、右側が木管・金管、さらに舞台袖に打楽器類ということで、ぎっしりだけど、ホールのキャパや歌手たちへの負担減も合わせた軽めの編成ではなかったかと。
これからの時代、ワーグナーもシュトラウスもこれでいいんじゃね、と思いましたし、聴いて納得でもありました。
 パスカル氏の指揮が、そのあたりを前提としても、実に緻密で抑制力も併せ持ちつつ、劇性も豊かな音楽を作り出していたと思う。
大柄なイケメンさんで、指揮棒を持たず、動きは少なく、オケも歌手たちも指揮者の指先に気持ちを集中させなければならない。
ベルクの微に入り細に入り、なんでも取り入れられた雑多ななかにも精妙さの光る音楽が、最大もらさず再現された。
私がベルクの音楽にいつも求める甘味な、アブナイくらいに宿命を感じさせる音色も東フィルから引き出してます。
ルルとシェーン博士との会話の部分、ラストのアダージョ、もうたまらなくって、わたしは舞台を見つつも、オケの紡ぐサウンドに陶酔境に誘われる思いだった。。。。泣けるぜ。

Lulu-dvd

私の手元にある「ルル」のDVD、あとメットの上演も。
音源は、ベーム、ブーレーズ、アントン・レックの3つのみ。

この作品は、歌手の技量と演技力の向上とともに、やはり映像で観てみたいもの。

いずれも3幕版ですが、youtubeで観たヴィーラント・ワーグナー演出のライトナーの指揮、シリアのルルによるいにしえ感漂うモノクロ映像がリアルで、もしかしたら初演時はこんな感じだったのか?と思わせるものでした。

2017年、ハンブルクでの上演。
回廊の魔術師、マルターラーの演出、ケント・ナガノの指揮では、斬新な演出が施されたという。
2幕版で、プロローグの場面の自在に動かしたり、最後には、ヴァイオリン協奏曲が全曲演奏されるという大胆さ。
音楽面、ベルクの気持ち的にも、それはありかもの上演。
バーバラ・ブラニガンの身体能力あってのもの。
観てみたい!

かように、まだまだ版や演出の楽しみもある「ルル」。
未完ゆえに、われわれをこの先も悩ませそうであります。

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2019年10月27日 (日)

マーラー祝祭オーケストラ 定期演奏会

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日曜午後、こんな素敵なプログラムの演奏会があるのを発見し、思い立ってミューザ川崎へ。

新ウィーン楽派の3人の作品のみ。

わたくしの大好物ともいえる作品3作です。

マーラー祝祭オーケストラは、2001年に指揮者の井上喜惟氏の提案のもと結成されたアマチュアオーケストラで、国際マーラー協会からも承認を得ている団体。
毎年の演奏会で、すでにマーラーの全交響曲を演奏しつくし、今回は、マーラーに関わり、その後のウィーン楽壇の礎をを築いた3人の作曲家、新ウィーン楽派の3人に作品を取り上げたものです。

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 ウェーベルン  パッサカリア (1908)

 ベルク            ヴァイオリン協奏曲 (1935)


     Vn:久保田 巧

 シェーンベルク 交響詩「ペレアスとメリザンド」(1902~3)

  井上 喜惟 指揮 マーラー祝祭オーケストラ

        (2019.10.27 @ミューザ川崎 コンサートホール)

正直言って寂しい観客の入りで、開演15分前に行って全席自由の当日券でしたが、ふだん、ミューザではなかなか体験できない良席を、両隣を気にすることなく独占し、音楽にのみりこみ、堪能することができました。

マーラーの名は冠してはいても、やはりこうした演目では、なかなか集客は難しいもの。
しかも、川崎の地でもあり、この日は、川崎名物のハロウィンパレードが同時刻に開催。

しかし、そんなの関係ないわたくしは、うきうき気分のミューザ川崎でありました。

ウェーベルンの作品1は、ウェーベルン唯一の大オーケストラによる後期ロマン派臭ただよう10分あまりの作品です。
長さ的に、コンサートの冒頭にもってこられる確率が高くて、これまでのコンサート履歴でも、ほとんどがスタートの演目でした。
しかし、いずれも、オーケストラも聴き手も、あったまる前の状態で、流れるように過ぎてしまうという難点がありまして、今回もまったく同じ状況に感じました。
なにものこりません。
1974年のシェーンベルク生誕100年の年にかかわり、翌年にかけてFMで放送されたアバドとウィーンフィルの演奏が、わたくしの、絶対的な完全・完璧なるデフォルメ演奏であります。
これが耳にある限り、どんな演奏も相当な演奏でないとアカンのですが、今回、この曲のキモもひとつ、曲の終結部の方で、ホルンがオーケストラの中で残り、残影のような響きを聴かせるところ、ここはとてもよかったです。

ベルクのヴァイオリン協奏曲。
この曲が、本日のいちばんの聴きもので、豊かな技巧に裏打ちされ、繊細でリリカルなヴァイオリンを聴かせてくれた久保田さんが素晴らしかった。
本来はデリケートでもあり、バッハのカンタータの旋律も伴う求心的な作品。
主役のヴァイオリンの求道的なソロに、大規模なオーケストラは、ときに咆哮し、打楽器も炸裂するが、このあたりの制御があまり効いておらず、久保田さんのヴァイオリンを覆い隠してしまった場面も多々あり。
ここは、指揮者の問題でもありつつ、全体を聴きながら演奏して欲しいオーケストラにも求めたいところかも。
交響曲のように演奏しては、オペラ作曲家のベルクの作品の魅力は減じてしまうのだから。。。
 でも、曲の最後の方、浄化されたサウンドをミューザの空間を久保田さんのヴァイオリンが満たし、夢見心地のわたくし、死の先の平安を見せていただいたような気がしますよ・・・・
 久保田さんのドレス、ウィーンの同時代を思わせる、パープルとホワイトの素敵なものでした!!

シェーンベルクのペレアスとメリザンド
20日前に、ここミューザで聴いた「グレの歌」とほぼ同時期の、後期ロマン派の作風にあふれるロマンティック極まりない音楽。
ここでも、トリスタンの半音階的手法が用いられ、音楽は当然に男女の物語りだから、濃厚濃密サウンドが展開。
 4管編成の大オーケストラが舞台上にならび、圧倒的なサウンドが繰り広げられ、この作品では、ときおり現れる、各奏者のソロ演奏がキモともなるが、いずれも見事なもので、前半プロとの奏者の編成の違いも判明もしたわけだが、木管、それとトロンボーンセクションとホルン群がここでは素晴らしかった。
単一楽章で、その中に、登場人物たちのモティーフを混ぜあわせながら、それぞれの場面を描き分けるには、指揮者の手腕が試されるところだが、本日はなにも言うまい。
 緊張感を途切れさせず、このはてしない難曲を演奏しきったオーケストラを讃えたいです!

演奏効果や、奏者の出番は考えずに、この素晴らしい演目の順番を、自分的には、前半後半、逆にするのも一手かも、とも。

 1、シェーンベルク ペレアス
 2、ウェーベルン  パッサカリア
 4、ベルク     ヴァイオリン協奏曲

作曲年代順にもなるし、オーケストラと聴衆の集中度と熱の入り方という意味での順番で。。

 次の、このコンビの演奏会は、来年5月に、マーラーが戻ってきて3番です。
蘭子さんのメゾで♡

コンサートの時間帯とかぶるようにして、川崎駅の反対側では、有名となった「川崎ハロウィン・パレード」が行われましたようで、駅へ向かう途上、可愛い仮装の子供たちと、吸血鬼やおっかない妖精さんや、悪魔さんたちにも出会いましたとさ・・・・

わたくしは、やっぱり、世紀末音楽の方が好き・・・・・

(10/30に渋谷でコンサートの予定あり、一日前だから大丈夫でしょうかねぇ)

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