カテゴリー「フィンジ」の記事

2022年1月 9日 (日)

フィンジ ディエス・ナタリス

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正月も過ぎ、松も明け、毎日が矢のように過ぎてしまう。

月日がほんと早い。

心落ち着くジェラルド・フィンジを聴く。

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     フィンジ(1901~1956) 作品集 

 ①祝典讃歌「見よ、満ち足りた最後の生贄」

 ② ディエス・ナタリスよりアリア「挨拶」

 ③ シルヴィアって?

 ④ 3つの独り言~恋の骨折り損

 ⑤ 清く穏やかな流れ

 ⑥ ローリクム・ロールム

 ⑦ Introit 入祭唱

 ⑧ Come away , come away ,Death 来たれ 死よ

 ⑨ 前奏曲 ヘ短調

 ⑩ ロマンス 変ホ長調

 ⑪ リズビー・ブラウンに

 ⑫ ディエス・ナタリス~イントラーダ

 ⑬ もはや灼熱の太陽も怖れるな

 ⑭ セヴァーン狂詩曲

 ⑮ エクローグ ヘ長調

   Sax:エイミー・ディクソン ①②⑥⑧⑪⑬


   Vn:トーマス・グールド ⑦

   Pf:トム・ポスター ⑮

   Hr:ニコラス・フリューイ ③

 ニコラス・コロン指揮 オーロラ・オーケストラ
   
    (2015.7,8  @フェアフィールド・ホール、クロイドン)

フィンジの作品ばかりを集めたCDは、マリナー以来かもしれない。
しかもメジャーレーベルで。

ニコラス・コロンは、もうじき39歳のわかいイギリスの指揮者で、彼とティチアーティ、英国ユースオケのメンバーとで2004年に設立した、オーロラ・オーケストラの指揮者を務めている。
彼らの演奏会は、プロムスなどで数年来、視聴しているが、古典~ロマン派系ではピリオド奏法を採用し、立演で行うなかなかに刺激的かつ楽しいものです。
若い彼らは、まさに若いリスナー向けに、解説を入れながら聴きどころを分析しながら演奏したり、また幻想交響曲では、メンバーがいろんなお面を装着して想像力をかきたてるような楽しいコンサートを行ったりしてます。

またコロンは、ハーグのレジデンティオケと、昨年からはフィンランド放送響の首席、ケルン・ギュルツェニヒ管の首席客演ともなってます。
活動の幅を大きく伸ばしつつあり、レパートリーも古典から近現代ものまで広範に収める、今後の注目株であります。

ユニークな活動を続けるコロン&オーロラオケのフィンジ。
その内容も、フィンジの心優しい音楽に徹底的にスポットをあてた1枚となっていて、これもまたユニークなものといえます。
聴く人によっては、もしかしたらムーディに過ぎると思う向きもあるかもしれません。
ここでは、至芸の名曲「エクローグ」を最終に据え、ロマンスや、セヴァーン狂詩曲といった名小品、クリスマスのカンタータ、ディエス・ナタリスから2曲、数ある歌曲集から数曲。
歌曲では、サキソフォーンのソロに編曲されていて、それが素敵なスパイスとなってます。
フィンジ入門編というより、フィンジの音楽にすでに魅了された聴き手が、ここに収録された1曲、1曲のあらたな側面を見いだすような、そんな1枚だと思います。

フィンジの魅力のひとつは、デリケートな歌曲の数々。
ここでは、「いざ花冠を捧げよう」から③と⑧、「地球、空気、そして雨」から⑧と⑬が選択されていて、サキソフォーンとホルンによる声に変わるソロがとてもステキなのであります。
美人さんのエイミー・ディクソンの麗しい演奏。
あとパートソングから弦楽合奏へ編曲された⑤も美しい桂曲。

1楽章の出来栄えに不満を感じ、引っ込めてしまったヴァイオリン協奏曲の2楽章にあたる⑦「intoroit(入祭唱)」は、まさにヴァイオリンとオーケストラによる作品で、美しさ・儚さ、これ極まれりといった抒情にあふれた作品。
このあと、「来たれ死よ」(シェイクスピア詩)が続くものだから泣ける・・・・

楚々たる抒情作、ロマンスは、いまやいくつも演奏があるが、コロン盤の優しさは、曲の並びも手伝い泣けます。
そして、最後は「エクローグ」で締めるフィンジ作品集。

くりかえし、何度も聴いて、ずっと浸っていたい。
窓の外は冬の澄んだ青空。

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  フィンジ カンタータ「ディエス・ナタリス」

    T:トビー・スペンス

   スコテッシュ・アンサンブル

     (2007.10 @ウィグモア・ホール、ロンドン)

コロンのフィンジ集に、2曲おさめられた5つの部分からなるカンタータ。
「生誕の日」または「クリスマス」と邦題として訳される20分あまりの作品。
1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


いずれもフィンジらしい、滋味と抒情にあふれた音楽で、そこに哀しみもたたえた雰囲気があるのも、まさにこの作曲者ならでは。
この曲、これまで何度かblogに残してきましたが、テノールによる歌唱を前提とし、ソプラノでもOKとされてます。
清潔なソプラノでの歌唱も素晴らしいのですが、やはり繊細なイギリス系のテノールで聴くのが味わいも深いというもの。

とりわけ美しい最終の「挨拶」。
イエスの生誕、その出会いにふるえる自分、清新な心持ちが歌われる。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと

ロンドン生まれのトビー・スペンスは、ヘンデル、モーツァルトからブリテン、アデスまで、広範なレパートリーを持つリリカルなテノールで、ポストリッジと同じような立ち位置にあり、彼よりやや声は強いイメージです。
健康的な明るめの声は、陰りあるポストリッジともまた違い、この健やかなる作品の別の側面を聴かせてくれるように思った。

年が明け、初孫が生まれした。

その無垢なる姿を見て、この腕に抱いたとき、この作品が脳裏に浮かび、響きました。

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穏やかに、平和でありますように。

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2018年10月 8日 (月)

フィンジ エクローグ、チェロ協奏曲 A・デイヴィス指揮


9月のお彼岸に、彼岸花の群生(といっても町で植えたわけですが)を見てきました。

お家からすぐです。

個々には、怪しい雰囲気の花だけど、緑に赤、集めてみるととても美しいです。

日本の野山や路傍には、必ず咲いてます。
生命力のある花だし、古来、害獣を防ぐ効能があることから、お墓や田畑の境界に植えていったといいます。

夏が終わり、深まりつつある秋への、ちょっと寂しい想い。

高い空を見上げつつ、秋に聴くに相応しい音楽を。


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 フィンジ  チェロ協奏曲 イ短調

      ピアノと弦楽オーケストラのための「エクローグ」

        ノクターン~新年の音楽

       「大幻想曲とトッカータ」~ピアノとオーケストラ


     チェロ:ポール・ワトキンス

     ピアノ:ルイ・ロルティ

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団

            (2018.2.3,4 ワトフォード)

ジェラルド・フィンジ(1901~56)の音楽を聴き始めて、もう14~5年は経つけれど、しばらくなかったフィンジ作品の新録音の登場に小躍りしてしまった自分。
しかも、シャンドスレーベルが、その英国音楽の録音の使途としたアンドルー・デイヴィスの指揮によるものです。

短い生涯で、ただでさえ寡黙な作曲家だったのに、自己批判も強く、いくつかの作品やスケッチを破棄してしまい、40数曲の作品しか残さなかったフィンジ。
どの作品も、いずれも優しく、ナイーブな感性に貫かれ、英国抒情派と呼ぶにふさわしい存在。
フィンジは、ディーリアスと同じように、みんなで、よってたかって、聴きまくるというよりは、静かに、ひとり、ひっそりと聴くような、そんな作曲家であり音楽であります。
 とかいって、ワタクシ、本ブログで、二人の作品を書きまくって、ほめちぎっておりますが・・・・。
ロンドンっ子で、イングランド南部ハンプシャー州アッシュマンズワースで、50代半ばにして悪性リンパ腫がもとで亡くなってしまう。

父を9歳にして亡くし、その後も兄や弟という最愛の肉親も相次いで亡くなる。
さらに父の影をみたかもしれない音楽と心の師であった、アーネスト・ファーラーをも戦争で失ってしまう。18歳までにして、このように親しい人との別離を経験してしまったフィンジ。
こんな切なく悲しい体験が、フィンジの心に哀しみの思い出となって蓄積ということはかたくない。
それでも、作曲家を志し、いろんな先輩作曲家や演奏家(なかにはボールトもいる)と関係を築き、徐々にその名を音楽界にあらわしていくようになります。
 先に書いた通り、慎重な筆の進め方だったので、だいたい、年1~2作のぺースで、30歳代にはロンドンでもそこそこ名の通った作曲家となります。
 歌曲や、このCDに入ってる「ノクターン」などがそうです。
あとピアノ協奏曲も若い頃の作品ですが、これが未完に終わり、「エクローグ」として残されます。

その30代前半、バークシャー州のオルドボーンに移り、そこでなんと、リンゴの研究を始める。さらに39年には、ロンドンの西部、ハンプシャー州ニューベリー郊外アッシュマンズワースに移住し、ここでの田園生活で残りの生涯を過ごすことになります。

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そこでは思索に満ちた作曲活動とともに、果樹園を手にいれての果樹栽培という園芸家としての才能もあらわします。

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 そこでは、アマチュア演奏家を集めて、いろんな作品を演奏したりしたそうです・
いまも現存するフィンジの家の画像を見ると、そんな慎ましくも微笑ましい田園生活ぶりが伺えます。
 フィンジ好きが、いまでもここで、小さなコンサートを催しているようです。
FINZI FRIENDS

第二次大戦後は、筆のペースも少しあげ、クラリネット協奏曲を書いたりもしますが、先に記した通り、フィンジに残された命はあと少ししかありませんでした。。。

チェロ協奏曲は、フィンジがずっと書きたかったジャンルの音楽で、もうあと5年から10年ぐらいの余命と宣告されていた時期に、バルビローリの勧めに応じて、書き始め、1955年に完成させたのが38分に及ぶ大作。
同年7月、チェルトナム音楽祭で、C・ビューティンの独奏、バルビローリとハルレ管によって初演された。
翌年56年のプロミスで、バルビローリび急病を受けて指揮台に立ったJ・ウェルドンの指揮によりロンドン初演。
しかし、そのあとすぐに、フィンジは亡くなってしまう。

以下は、以前の記事より引用。

>3つの楽章のうち、1と2の楽章で30分あまり。
そのふたつの大きな楽章の素晴らしさと、終楽章の舞曲風な明るい楽しさの対比が、妙に心に残る。

シリアスで、自在なスタイルで作曲することの多かったフィンジが、協奏曲の王道にのっとり揺るぎないソナタ形式で書いた第1楽章。
ラプソデックであり、かつヒロイックなチェロ独奏は、思いのたけを思い切りぶちまけているようで熱く、それを受けてオーケストラも孤独の色濃く壮絶。
辛いけれど、聴きごたえ充分で、大河ドラマの主題歌のようにドラマテックな音楽に驚く。

でも第2楽章は、あの優しくシャイなフィンジが帰ってきて、静かに微笑んでくれます。
このいつまでも、ずっとずっと浸っていたい音楽はいったいどのように形容したらよろしいのでしょうか。
冒頭、オーケストラによって、この楽章の主要旋律が、どこか懐かしい雰囲気で静かに奏でられる。
あまりの美しさに、手をとめて、目をとじて、じっと聴いていたい。
今日のいやなこと、昨日の悲しいこと、明日ある辛いこと・・・、そんなことは、もういいよ、といわんばかりにフィンジの音楽が包みこんでくれます。
楽章の終りに、メイン主題がチェロによって静かに繰り返され、オーケストラがピアニシモで儚くそれに応え、静かに終わります。泣きそうになってしまいます。

そして、チェロの上昇するピチカートで開始される舞曲風の第3楽章。
明るいけれど、2楽章と違った意味で、どこか懐かしい。
ふたつの楽章からすると軽めだけど、クラリネット協奏曲の終楽章と相通じる飛翔するような音楽。
洒落たエンディングが待ち受けております。<

シャープな印象だけれど、内省的な第1楽章を、今回のワトキンスの大らかだけど、芯のしっかりしたチェロで聴くと、フィンジの見据えたゆらぐ不安と未来のようなものが、しっくりと描かれているよな気もします。
そして、フィンジ節満載の2楽章は、チェロも、サー・アンドルーのオーケストラも美しさの極みで、そして儚い。
終楽章の軽めなあり方も、この演奏でよいと思います。
 ワトキンスは、エルガーのチェロ協奏曲もCDで持ってますが、何と言っても指揮者としても活躍しており、都響でエルガーの3番を聴きました。→ワトキンス指揮都響

お馴染みの泣ける音楽の筆頭、「エクローグ」。(牧歌)
 清純無垢の汚れない美しい音楽で、これを聴いて心動かされない人はありえませぬ。
言葉にすることができません。
 作曲家ラッブラは、この作品を称して「乱れぬ落ち着き」としたそうでありまして、それは落ち着いた悲しみの抒情という意味でまったくその雰囲気を言い得ているものといえましょう。
1929年、ピアノと弦楽のための協奏曲の2楽章として造られたものだが、1952年に、全体を未完として、エクローグとして残されることとなったが、死後の1957年まで、出版されることも演奏されることもなかった・・・・。

 ここでのロルティのピアノは、エクローグという曲にもまして繊細です。
デイヴィスの指揮する弦楽オーケストラも含めて、これまでの、エクローグの演奏音源の中で、一番といっていいほどに、静かで、内省的で、ドラマもなく、劇的でもなく、そして何もありません。
 こんなエクローグは、聴くまで想像もしてなかった。
現在の英国楽壇のメジャーな演奏家たちによる静かすぎるフィンジの演奏。
 ささやくような、その演奏。
いやでも、耳を澄まさなくてはなりません。
そこに浮かび上がるフィンジの抒情のひとしずく。
ほんとに、美しく、そして儚く、どこか哀しい。

ノクターン」は、常に助言者でもあり、仲間でもあった、ヴォーン・ウィリアムズを思わせる、ちょっと古風な言い回しの、篤信あふれる音楽。
弦が主体の祈りの気持ちが、ときに篤く、そしてちょっと寂しさも。

 BBC響の緻密なサウンドでもって、この古風な雰囲気の作品が蘇るような、そんなアンドルーさんの指揮ぶり。

幻想味溢れるピアノが聴ける、ちょっとジャジーで、即興的な雰囲気も感じる「大幻想曲とトッカー」。タイトルから想像がつくように、大バッハを意識した作品です。

1920年代後半に、書かれた若書きの幻想曲に、ずっと後年、1953年にトッカータを書いて追加した作品で、合わせて16分あまり。
「エクローグ」との作品の関係性も、フィンジのピアノ協奏曲の完成形という意味でもあります。

 (以下過去記事を基に編集してます)

静的でナイーブな落ち着きを持った「エクローグ」と異なり、この「幻想曲とフーガ」は、技巧的で自由で即興的な雰囲気が漂い、とりわけ幻想曲では、バロック的な華やかさとバッハ風の峻厳さを感じます。
 これを聴くと、わたしは、キース・ジャレットのピアノを思い起こします。
思えば、キースもバッハの人。
ピアノによるソロが長く続きます。
そんなジャジーな幻想曲を聴いてると、フィンジとは思えなくなってきます。

そして、ウォルトンに影響されて付け足すこととなったトッカータは、一転、オーケストラによる爆発的な開始で、ピアノ協奏曲の第3楽章のようなフィナーレ的な効果を持つ華やかなものです。
 その後、数十年を経ながらも、フィンジは、前半の幻想曲のフレーズを、後半オーケストラとピアノで、シリアスの奏でて、やがてトッカータが帰ってきて爽快に終了するように書きました。

このように、前半と後半が、巧みに結びついたこの曲に、「エクローグ」は入り込む余地はありませんでした。
やっぱり、別々に聴きましょう。
まして、ロルティのピアノは、ここでは冴えまくっていて、エクローグの時の静的な雰囲気とはかなり違います。
デイヴィスの指揮するBBC響も、バリッと冴えてます。

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フィンジの代表的な作品に、最新の録音による名演が加わったことを、心から喜びたいと思います。
 と、同時に、もっと違った演奏、例えば、もっともっと耽溺的な哀しすぎる演奏をも、心の中では求めているのも事実です。

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秋の日に。

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2016年12月24日 (土)

フィンジ 「ディエス・ナタリス」(カンタータ「クリスマス」) マリナー

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今年のクリスマス、街の雰囲気や、わたくしも含めた人々の浮かれたような便乗さわぎは、少なめに感じます。

イルミネーションもそこそこに出現していて、例年通りですが、受け取る側が慣れてしまったのか、それとも、心情的に、そうとばかり言ってられないからなのか・・・・・。

イルミ好き、観察者としては、毎年、だいたい同じ場所を巡回しますが、今年は各処とも、こう言っちゃなんですが、年齢層高め。
あっ、自分もそうかもですが、若い人よりは、そうした方々の方が多く見受けられる気もします。
 イルミに限りませんが、どこへいっても、シニア層は、みなさん元気です。
そして若者は、静かだし、いても目立たない。

こんな風に見たり、思ったりしていること自体が、自らの視線がシニア層に近づきつつあるということなのでしょうね。
みなさん、元気で、屈託なく、感性も若い。

うまいこと、いろんな意味で、ベテランズと若い人たちの、いろんな循環が生まれるといい。

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シンプルで、森の一角を思わせるツリー。

こちらは、丸の内仲通りのあるビルのエントランスです。

けばけばしいイルミよりは、基本ツリーが好きであります。

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 フィンジ 「ディエス・ナタリス」~カンタータ「クリスマス」

     テノール:イアン・ボストリッジ

  サー・ネヴィル・マリナー指揮 

       アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ゼ・フィールズ

                     (1996.6 ロンドン)

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の「ディエス・ナタリス」。

生誕の日」または、「クリスマス」という邦題。

以下、以前の自己記事からの引用です。

しばらくブログを休止して、思いだしたように書いたりしてる不完全な状態を続けていると、筆は鈍るし、音楽すら久しぶりに聴いたりするものだから、言葉に結びつけるのは、ほんとに難儀なことになりました・・・
 自分の過去記事に、妙に感心してしまったり、ほうほう、そうだな、そうだったなぁ、とか、時間があれば、自らのブログを振り返ったりもしてます。

ですから、そんななかの一品、フィンジのこの曲のコピペ、お許しください。

「ディエス・ナタリス」は、1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。
そんな長きの空間を、とこしえとも思える静けさに変えてしまう不思議さ。
この音楽に感じるのは、そんな静けさです。

弦楽オーケストラとテノールのためのカンタータ。
またはソプラノによる歌唱も可とするこの曲。
もともとはバリトンによるものですから、あらゆる声域で歌える美しい曲。

器楽によるイントラーダ(序奏)に導かれた4つの歌からなる20分あまりの至福の音楽は、いつもフィンジを聴くときと同様に、思わす涙ぐんでしまう。
イエスの誕生を寿ぐのに、何故か悲しい。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


この曲で最大に素晴らしいのは、1曲目の弦楽によるイントラーダ。
最初からいきなり泣かせてくれます。
いかにもフィンジらしい美しすぎて、ほの悲しい音楽。
何度聴いても、この部分で泣けてしまう・・・・・。
1曲目のモティーフが形を変えて、全曲を覆っている。
この曲のエッセンス楽章です。

トラハーンの詩は、かなり啓示的でかつ神秘的。
その意をひも解くことは、なかなかではない。
生まれたイエスと、イエスの前に初心な自分が、その詩に歌い込まれているようで、和訳を参照しながらの視聴でも、その詩の本質には、わたしごときでは迫りえません。

全編にわたって、大きな音はありません。
静かに、静かに、語りかけてくるような音楽であり歌であります。

楚々と歌われ、静かに終わる、とりわけ美しい最終の「挨拶」。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと


生まれきたイエスと、自分をうたった心情でありましょうか。
訥々と歌う英語の歌唱が、とても身に、心に沁みます。

いつものフィンジらしい、そしてフィンジならではの内なる情熱の吐露と、悲しみを抑えたかのような抒情にあふれた名品に思います。

わたしには、詩と音楽の意味合いをもっと探究すべき自身にとっての課題の音楽ではありますが、クラリネット協奏曲やエクローグと同列にある、素晴らしいフィンジの作品。

と、5年前の自分が書いておりますが、その詩と音楽との意味合い、まったく探究じまいであります。
が、フィンジのナイーブな音楽は、ここでもともかく魅力的で、少しの憂愁と哀感が、優しさでそっと包まれているのを感じます。

マリナーの飾らない、楚々たる指揮ぶりが、フィンジの音楽を語らずして語る。
ポストリッジの神経質なまでの繊細な歌は、フィンジのナイーブな音楽を、その詩の神聖ぶりを、そしてちょっとの多感ぶりを表出している。
すてきな演奏!

国内外に、ロクなことがありませんが、静かで穏やかなクリスマスになることを祈ります。

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2015年8月17日 (月)

フィンジ 「エクローグ」 ドノホー

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神奈川県二宮町、駅前にある「ガラスのうさぎ」像。

東京両国のガラス工場を営む家に生まれた少女ですが、1945年の東京大空襲で被災し、母と妹を亡くし、生き残った父と、焼け跡から半分溶けてしまった、ガラスのうさぎを見つける。
その父と、ふたり、二宮の疎開先へ向かいましたが、8月5日、駅で、米軍の機銃掃射を受けて、父は亡くなってしまい、少女はひとり、海辺にて途方にくれる・・・・。

そんな実話が小説になって、その後、戦地から帰った兄たちのことなども描かれ、映画やテレビドラマにもなりました。

毎年、夏のこの時期、千羽鶴が飾られ、平和を祈る思いで、ここは一杯になります。

駅には、銃弾のあとも残ります。
その時は、5人の方が亡くなりました。

わたしの育ったこの街は、お隣の大きな街、平塚や小田原のような大空襲はありませんでしたが、このように、機銃掃射の気まぐれな飛来もあって、防空壕が、いたるところにありました。
子供時代、恐怖の思いで、そんな暗闇の穴を見たものでした。

そして、母の話では、平塚の空襲のときには、東の空が赤く染まり、大きな音がし続けたそうです・・・・・。
 ちなみに、亡父は、東京でしたので、ことに焼夷弾の攻撃をよく覚えていて、鼻口耳を両手の指で、いかにふさいで逃げるかなどを、よく語ってくれたものです。
親類にも、戦地へ赴いた方など、複数いましたが、それぞれの体験談も、風化していきます。。。

戦争の悲しみと残酷さは、ほんとうにもうごめんです。

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  フィンジ  「エクローグ」

       ピアノ:ペーター・ドノホー

   ハワード・グリフィス指揮 ノーザン・シンフォニエッタ

                      (2001.1 @ニューキャッスル)


ジェラルド・フィンジ(1901~1856)。
薄幸の作曲家と呼ばれるフィンジ、自身、白血病に倒れるのですが、早くに父、そして兄たちも亡くし、その代わりに慕った師ファーラーも、第1次大戦に出兵し、戦死してしまい、大きな心の傷を受ける。

そんな哀しみが、フィンジの音楽には、いつもどこかに見え隠れしていて、聴く人に、遠い記憶への憧憬や、心の中にある悲しみを呼び覚ます。

自分に厳しかったフィンジは、多くの作品を破棄してしまい、いま残された作品は、40数曲。
いずれも、そのようなナイーブかつ、抒情的な作品ばかり。

そんななかでも、「エクローグ」は、クラリネット協奏曲と並んで、ひとり、静かに聴く音楽として、心の琴線にそっとふれる、あまりにも美しい作品。

もう、何度も、記事にしてますし、いくつもの演奏を聴いてます。

1929年、ピアノと弦楽のためのピアノ協奏曲として書き進められたが、未完に終わり、その第2楽章が、「エクローグ」として残されました。

ともかく、清潔で、穢れなく、そして悲しいまでに美しい音楽。
追憶と、心のなかにいまも生きる大切な人たちへの想いを、優しく包んでくれる。

これもまた、何度か書きますが、クラリネット協奏曲とともに、わたくしの、いずれ来る、野辺への手向けに、そっと流して欲しい・・・・・。

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この夏の、この日の二宮海岸は、ひと気なく、波も静かでした。

過去記事

「フィンジ作品集 ボールト指揮」

  「エクローグ ベビントン」

「エクローギ ケイティン&ハンドリー」

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2013年10月22日 (火)

フィンジ クラリネット協奏曲 マリナー

Azumayama

わたしの育った町にある、吾妻山からの眺望。

コスモスに相模湾、遠くは伊豆の山々。

四季おりおり、何度もこの景色は出してます。

この山の麓の小学校に通っていた頃は、山の頂上は整備されてなくて、神社が少し下ったとこにあるだけで、何もない山でした。
それはそれで、自然そのもので、いろんな思い出があります。
クラスで世話をしていたウサギが、逃げてしまい、放課後、子供たちだけでこの山に登ってしまい、まだ新任ほやほやだった担任の先生は、教頭や親たちに大目玉をくらってしまい、子供心に申し訳なくおもったりもしたものです。

社会人になってから、この町を出て、都内に住むようになり、それでも週イチには帰ってきていたけど、結婚してからはすっかり足が遠のき、盆暮正月状態。

そして、親父が倒れてしまった。

会社に電話が入り、駆け付けたときには、もう意識のない、そこにあるだけの存在だった。

このときほど、自分が育った町を離れたことを後悔したことはない・・・・。

父親はもういないけれど、折りふにれ帰るようになったこの小さな町が、いまは愛おしくてならない。

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   フィンジ  クラリネット協奏曲 ハ短調

      Cl:アンドリュー・マリナー

   サー・ネヴィル・マリナー指揮 

      
         アカデミー・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                        (1996.6 @ロンドン)


わたくしの最愛の作曲家のひとり、ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の、これまた最愛の作品のひとつ、クラリネット協奏曲。

もう何度も取り上げてますし、マリナー卿親子の共演もかつて記事にしてます。

多感な時期に、父、3人の兄、やがてその姿を被せて敬愛していた師ファーラーも戦争で亡くなる。
哀しみに堪えるような楚々たる音楽は、フィンジの音楽の本質です。
ナイーブという言葉も相応しいけれど、英国の田園情緒の美しさもそこには重ね合わせることもできます。
いつもいつも、涙なしには聴けないフィンジの作品の数々。
自身で破棄したものも多くあり、作品数でいえば30と少し。

悲しいほど美しい。

第2楽章のアダージョ。
甘く切ない死を待受けるかのような音楽。
フィンジはいつも死を予感しつつ作曲していたという。
このマリナー盤は、父が亡くなって、ほどなく聴いたCDで、初フィンジだった。
ぽっかり空いた、自分の中での空白感にこそ、まさに自分が見えてくるような気がした。
この内省的な音楽は、どんなときでも、心にすぅ~っと入り込んできて、優しく包みこんでくれる。

一転して、弦のピチカート乗ってクラリネットが歌う、飛翔するような明るさに満ちた3楽章。
秋の高い空に等しい。

シリアスな1楽章も切実な響きでもって迫ってきます。

声高に素晴らしい曲とお薦めしたくはない。

静かに、ひとり、心して聴いてください。

 過去記事

  「フィンジの作品」

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2012年8月24日 (金)

フィンジ ピアノとオーケストラのための大幻想曲とトッカータ 

Azumayama_4

夏だから、まだ淡い色彩のコスモスです。

しっかし、暑いです。

処暑なのに。

そして、日本も処々囲まれ、熱いです。

ところで、先日まで五輪で熱かった英国では、ネッシー騒ぎで沸いているそうですよ。

なんでも、漁船のトナーが大小2匹のネッシーらしき影を捉えたそうです。

Lochness

英国音楽好きとしては、一度は訪れたいスコットランド地方。

ネス湖は、幽玄な自然あふれるスコットランドにあります。

霧が多く、この湖も透明度が低く、プランクトンの量も半端なく多く、そこに住む生物を多様にしているそうです。
しかも、複雑な水流の強さがあって、新鋭の機器でも、なかなか探索しにくい環境が整っているとのことで、ネッシー発見も夢じゃぁない!

いつまでもあって欲しい神秘と夢のおはなしです。

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 フィンジ ピアノとオーケストラのためのグランドファンタジアとトッカータ

             Pf:フィリップ・フォウク

      リチャード・ヒコックス指揮ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック

                          (1988.11@リヴァプール)


ジェラルド・フィンジ(1901〜1956)。
自作に厳しい目を常にむけ、破棄してしまった作品も多くあるといいます。
でも、その残された作品群は、いま、センシティブな日本人の心にしみ込むように、優しく訴えてやみません。

今日の曲を、そのまま訳すと、「大幻想曲とトッカータ」ということになるのですが、優しく感じやすいいつものフィンジとは、ちょっと違う雰囲気です。
このタイトルから想像がつくように、それは、大バッハを意識したものです。

1920年代後半に、書かれた若書きの幻想曲に、ずっと後年、1953年にトッカータを書いて追加した作品で、合わせて16分あまり。
わたしが溺愛する、ピアノとオーケストラのための「エクローグ」を、この曲の間、すなわち第2楽章に据えれば、30分あまりの、素敵なピアノ協奏曲が出来上がります。

いい感じだと思いますが、でもちょっと違う。いや、まったく違う。

静的でナイーブな落ち着きを持った「エクローグ」と異なり、この「幻想曲とフーガ」は、技巧的で自由で即興的な雰囲気が漂い、とりわけ幻想曲では、バロック的な華やかさとバッハ風の峻厳さを感じます。
これを聴くと、わたしは、キース・ジャレットのピアノを思い起こします。
思えば、キースもバッハの人。
ピアノによるソロが6分あまりも続きます。そんなジャジーな幻想曲を聴いてると、フィンジとは思えなくなってきます。

そして、ウォルトンに影響されて付け足すこととなったトッカータは、一転、オーケストラによる爆発的な開始で、ピアノ協奏曲の第3楽章のようなフィナーレ的な効果を持つ華やかなものです。
数十年を経ながらも、フィンジは、前半の幻想曲のフレーズを、後半オーケストラとピアノで、シリアスの奏でて、やがてトッカータが帰ってきて爽快に終了!

前半と後半が、巧みに結びついたこの曲に、「エクローグ」は入り込む余地はありませんでした。
やっぱり、別々に聴きましょう。

Fowke(フォウク)と読んでいいのでしょうか?英国のこのピアニストはなかなかに鮮やか、そして自在なピアノです。
ヒコックもダイナミックな音楽造りで、フィンジの音楽を隈取りを豊かに指揮してました。

P・ケイティンとハンドリーのCDも素晴らしいです。→ボールトのフィンジ

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2012年8月 4日 (土)

フィンジ 「いざ花冠を捧げよう」 ヴァーコー&ヒコックス

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札幌郊外の大きな公園、去年の夏です。

針葉樹とヒースの茂る公園は、あきらかに本土とは違います。

北海道の自然と風物は、絶対、絶対にわが固有のものとして守らなくてはなりませんね。

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  フィンジ    歌曲集「いざ花冠を捧げよう」
  
   
             Let us garlands bring〜シェイクスピア詩

      Br:ステファン・ヴァーコー

   リチャード・ヒコックス指揮 シティ・オブ・ロンドン・シンフォニエッタ


昨日と同じ、フィンジ(1901~1956)の珠玉の歌曲を。

今度は、弦楽オーケストラによる伴奏のバージョンにて。

1929年から1942年にかけて作曲されたシェイクスピア歌曲をまとめて、ヴォーン・ウィリアムズの70歳を祝福して、朋友ハワード・ファーガソンのピアノで、その1942年に初演。
同時に、弦楽オーケストラバージョンも作られ放送録音された。

ピアノによる、楚々とした迫真の哀しみと比べ、弦楽バージョンでは、清潔さと甘味さが織り交ぜになった豊かな響きに満たされ、歌がよりドラマティックに聴こえる。

 1.「Come away, come away, death」〜来たれ 死よ

 2.「Who is Silvia?」〜シルビア

 3.「Fear no more the heat o' the sun」〜もはや日照りを恐るることもなく

 4.「O mistress mine」〜おぉ 愛しい君よ

 5.「It was a lover and his lass」〜それは恋する若者たち


やはり、1と3とに無性なまでに愛情と愛着を感じます。

弦楽合奏を背景にすることにより、同じフィンジの「エクローグ」や「ディエス・ナタリス」などをも思わせることになり、感動もひとしお。

フィンジの音楽が持つ憂いあるその感受性に、わたくしは、いつも魅せられてきた。

オリンピックや各地の音楽祭に心奪われつつも、日々の大変さは何ら変わりことはありません。
一時の高揚感が去ったあとに来る、今以上の厳しさを予感するがゆえに、フィンジの音楽は、きっとそのときも、心の支えになってくれそうなんです。

英国の歌を歌わせては、ヴァーコーの優しくマイルドな声は、バリトン音域ではほかに並ぶ方がおりませぬ。
ともかく、素晴らしい声です。
これ聴いちゃうと、昨日のターフェルがオケバージョンで、ヴァーコーがピアノで・・・とも思いたくなってしまいます。

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2012年8月 3日 (金)

フィンジ 「いざ花冠を捧げよう」 B・ターフェル

Yasukuni_z

うだる夏でも静謐感漂う日本庭園。

そして、虚空に浮くかのような鯉。

しばし、涼みました。

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 フィンジ    歌曲集「いざ花冠を捧げよう」
  
   
             Let us garlands bring〜シェイクスピア詩

 

          Br:ブリン・ターフェル

          Pf:マルコム・マーティノー

                 (1995.2 @ヘンリー・ウッド・ホール)


ジェラルド・フィンジ(1901〜1956)の決して多くない作品のなかで、歌曲集はCDにして約3枚分ぐらいはあります。
いずれもフィンジらしい、静かに聴きてに語りかけてくるような優しさとやわらかさにあふれてます。

その中でも、少し古風で、少し哀しく、少しユーモアもあって、そしてそれゆえに愛すべき作品が「いざ花冠を捧げよう」です。
5つの曲からなってます。

 1.「Come away, come away, death」〜来たれ 死よ

 2.「Who is Silvia?」〜シルビア

 3.「Fear no more the heat o' the sun」〜もはや日照りを恐るることもなく

 4.「O mistress mine」〜おぉ 愛しい君よ

 5.「It was a lover and his lass」〜それは恋する若者たち



一番に印象的で心にグッとくるのが、1曲目

    Come away, come away, death

    Come away, come away, death,
    And in sad cypress let me be laid;
    Fly away, fly away, breath;
    I am slain by a fair cruel maid.
    My shroud of white, stuck all with yew,
    O prepare it!
    My part of death, no one so true
    Did share it.

    Not a flower, not a flower sweet,
    On my black coffin let there be strown;
    Not a friend, not a friend greet
    My poor corpse, where my bones shall be thrown:
    A thousand, thousand sighs to save,
    Lay me, O where
    Sad true lover never find my grave,
    To weep there!


 
シェイクスピアの書いた哀しい歌は、道化の歌。

   死よ来たれ、悲しみのうちに糸杉の中に横たえてくれ
   一輪の花も捧げることはしないでくれ
   悲しき誠の恋人が見出すことのない我が墓・・・

恐ろしく悲しく、自ら見捨てられたことに自虐を歌う詩に、フィンジは透徹の眼差しでもって孤高の音楽をつけました。
これを聴いて心動かされない人はいますまい・・・・・。

     Fear no more the heat o’ the sun

    Fear no more the heat o’ the sun,
    Nor the furious winter’s rages;
    Thou thy worldly task hast done,
    Home art gone, and ta’en thy wages;
    Golden lads and girls all must,
    As chimney-sweepers, come to dust.

    ・・・・・・・・・・・・・

    No exorciser harm thee!
    Nor no witchcraft charm thee!
    Ghost unlaid forbear thee!
    Nothing ill come near thee!
    Quiet consummation have;
    And renownéd be thy grave!


戯曲中、毒殺されてしまったかと思われた女主人公を悼んで歌われる、痛恨の哀歌。
こちらも物悲しく、楚々とした気持ちに誘われる。
もはや、灼熱の太陽をも恐るな・・・あらゆる禍々しい災いを列挙し、それらからは開放され、恐ることはないと歌います。
最後は哀悼の意を評し、静かに印象的に終わります。

ほかの3つは、明るめのシンプルな歌。

5曲目の鳥の鳴き声を快活に歌う曲で、心は晴れてゆきます。

美しく哀しいフィンジの音楽。

静かに、心に染み込んできます。

B・ターフェルはオペラやドイツ物ではアクの強さが目立ちますが、自国ものを慈しむように、そして過度の思いを乗せずに、静かな語り口で歌って聴かせてます。
このCDは、V・ウィリアムズ、アイアランド、バターワースなど、珠玉の英国歌曲が収められてます。
折にふれ聴く、愛聴盤のひとつです。
     

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2012年5月 9日 (水)

フィンジ 「エクローグ」 ケイティン&ハンドリー

Harumomiji_azumayama2

鮮やかな紅葉。

これは連休中の春紅葉。

実家に帰るたびに、朝早く登る吾妻山の山頂広場にて。

Harumomiji_azumayama1

新緑の緑との対比が、実際に目でみると実に鮮やかにございました。

この丘の先は、相模湾が広がっております。

5月の連休の実家は、いつもちょっと悲しい思い出があります。

Finzi_boult

わたしの、一番大切なCDのひとつ。

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の、主要な管弦楽作品を集めた1枚。

この中から、クラリネット協奏曲と並ぶ、わたしの愛してやまないフィンジの作品「エクローグ」を。

   フィンジ  ピアノと弦楽オーケストラのため「エクローグ」

            Pf:ピーター・ケイティン

      ヴァーノン・ハンドリー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団


今日、5月9日は、わたしの父の命日です。

その数カ月前に突然倒れた父。

会社に母親が電話をしてきて、慌てて駆けつけた病院には意識のない眠ったような父。
まだ30代だったわたくし、現実とは思えず茫然としてしまいました。
春の桜も、うららかな日差しも感じることなく、そこにあり続けただけの父。
連休に、まだ幼かった娘を連れて、吾妻山に登り、満開のツツジを見て、日常に戻った矢先に父は強風とともに逝ってしまいました。
早朝に駆け付けた時は、今度は父の上には白い布がかけられておりました。

こんな私的なこと書いてすいません。

いつか来るであろう、自分のその時の思いも込めて、この時期、この日、わたくしは、フィンジのこの悲しみと慈しみのエクローグ(牧歌)を聴くのです。
あまりに美しく、そして優しい音楽は、今日も、わたしの心の中にそっと入ってきて、包みこんでくれる。

もう15年も経ってしまいました。

 「フィンジ作品集 ボールト指揮」

  「エクローグ ベビントン」

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2011年12月24日 (土)

フィンジ 「デイエス ナタリス」~生誕の日

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子供のころは、クリスマスはきらきら感と期待感、そしてヨーロッパやアメリカへの憧れ感に包まれてました。

ミッション系の幼稚園から育ちましたから、クリスマス会では、イエスの生誕の物語を園児たちで劇にするわけでした。
2年間の私の役柄は、イエスが飼葉桶で生れたときに周りにいた農民の役と、東方の博士のひとりだったような気がする。
ちなみに、イエスやマリアを演じた園児は、その後、小学校や中学校へ進学しても、ちょっと注目される男女だったりしてました。
このあたりは、いつの世になっても変わらないのでは・・・・。

そんな幼少期を経て、少し長じて、クラシック音楽に親しむようになり、バッハやヘンデルの音楽に感化されキリスト教のなんたるやを興味を持って学んだ。
やがて大学もミッション系となり、学問としてのキリスト教プラス、宗教としてのキリスト教が身近に感じられるようになり、初老のいま、現在にいたっております。

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物質的な意味での恵まれたクリスマスより、心の底から沸き起こる感謝と喜びがクリスマスの本質。

経済的に苦しくても、ケーキやチキンはなくっても、どんな人にも等しく優しいクリスマスであって欲しい。

イエスの生誕という喜びに、格差や不平等はあってはならないのですから。

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ジェラルド・フィンジ(1901~1956)のカンタータ「ディエス・ナタリス」。

生誕の日」または、「クリスマス」という邦題。

フィンジのことは、何度も記事にしてます。

フィンジのカテゴリーをご参照ください。

抒情的で、ナイーブなフィンジの作風は、どんなときでも聴く人の心に、静かに歩みよってくれて、寄り添うように一緒に歩んでくれる。
そして、時に見せる深淵に、わたしたちは驚き、慄いてしまう。

フィンジの音楽を聴く喜びと怖さです。

「ディエス・ナタリス」は、1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。
そんな長きの空間を、とこしえとも思える静けさに変えてしまう不思議さ。
この音楽に感じるのは、そんな静けさです。

弦楽オーケストラとテノールのためのカンタータ。
またはソプラノによる歌唱も可とするこの曲。
もともとはバリトンによるものですから、あらゆる声域で歌える美しい曲。

器楽によるイントラーダ(序奏)に導かれた4つの歌からなる20分あまりの至福の音楽は、いつもフィンジを聴くときと同様に、思わす涙ぐんでしまう。
イエスの誕生を寿ぐのに、何故か悲しい。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


この曲で最大に素晴らしいのは、1曲目の弦楽によるイントラーダ。
最初からいきなり泣かせてくれます。
いかにもフィンジらしい美しすぎて、ほの悲しい音楽。
何度聴いても、この部分で泣けてしまう・・・・・。
1曲目のモティーフが形を変えて、全曲を覆っている。
この曲のエッセンス楽章です。

トラハーンの詩は、かなり啓示的でかつ神秘的。
その意をひも解くことは、なかなかではない。
生まれたイエスと、イエスの前に初心な自分が、その詩に歌い込まれているようで、和訳を参照しながらの視聴でも、その詩の本質には、わたしごときでは迫りえません。

全編にわたって、大きな音はありません。
静かに、静かに、語りかけてくるような音楽であり歌であります。

楚々と歌われ、静かに終わる、とりわけ美しい最終の「挨拶」。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと


生まれきたイエスと、自分をうたった心情でありましょうか。
訥々と歌う英語の歌唱が、とても身に、心に沁みます。

いつものフィンジらしい、そしてフィンジならではの内なる情熱の吐露と、悲しみを抑えたかのような抒情にあふれた名品に思います。
わたしには、詩と音楽の意味合いをもっと探究すべき自身にとっての課題の音楽ではありますが、クラリネット協奏曲やエクローグと同列にある、素晴らしいフィンジの作品。
機会がございましたら是非。

今日の演奏は、ジェラルド・フィンジの息子、クリストファー・フィンジの指揮、ウィルフォード・ブラウンのテノール。イギリス室内管弦楽団。
直伝かどうかわかりませんが、すこし冷静で情がこもり過ぎないくらいのささやかさが、とてもいい演奏です。
ブラウンのテノールも、イギリステナーの清涼さがとても心地いいのでした。

この曲、あとマリナーとポストリッジが素敵すぎる演奏。
そして、ライブではソプラノの金子裕美さんのクリアな歌声に涙してしまった。

よきクリスマスを

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